前世で死に別れた忍者に、現代で溺愛婚を申し込まれました
 わたしが立てこもった小屋のドアが蹴破られた。

「初音、見つけたで」

 舌なめずりしてやってきた黒川に腰が抜けそうだった。もう誰でもいいから助けてほしかった。だけど、今はわたししかいない。忍さんはいない――。
 窓を開いて、転がるように屋上に飛び出る。コンクリートブロックが剥がれた屋上に足を取られながら、下に向かうドアに急ぐ。

 ガチャッ、ガチャガチャッ。

 (開かないっ!)

 それを諦め逃げられる場所を探す。隣の家は低く、とても飛び移れそうにない。ただ青すぎる空の下で、わたしはひとりだった。

「鬼ごっこはおしまいか?」

 黒川の腕が伸び、わたしを捕らえようとする。めちゃくちゃに手を動かし、わたしは狭い屋上の中を逃げ惑う。
 塗装が剥がれ錆びた手すりに追い詰められた。振り返ると、わたしを奪おうとする相手がいる。

(嫌だ。何も奪われたくないっ!)

 手すりを乗り越え、心もとのないコンクリートの足場につま先をかける。下を見ないようにした。恐怖で震えてしまうから。

「なんや初音。落ちてしまうで? ええこやから、こっちこい」

 黒川は両手を広げて、ねこなで声を出す。

「可愛がるだけや。安心しい?」

 その言葉と目に涙がこみ上げた。この感情はなんだろう。悔しさか、憤りか。この腹の底から沸き上がるものは、あの時と一緒だ。
 
 雅姫が、叔父に追い詰められたときと一緒。
 
(ああ、そっか……あの時、あなたはあなたでありたかったのね)

 ただ自分が自分であるために、雅姫は小脇差を自分に向けた。

(わたしも一緒よ、雅姫。わたしも、わたしであり続けたい)
 
 リン――。

 ネックレスの鈴を鳴らしながら、黒川を睨んだ。

「あなたに渡すものは何一つありません!」

 次はうっとりと目を細め、黒川を挑発しながら微笑む。
 雅姫と共に、わたしから奪えると思い込んでいる愚か者を嘲笑して差し上げましょう。

「あなたの策略は最初から破綻しているの。わたしはここから飛び降りて、あなたは指をくわえて見ているだけよ」

 そして、スンと表情を消して低い声を出した。

「エロじじいに興味ないの。ごめん遊ばせ」

 黒川が激高して、ずんずんと近づいてくる。

「調子に乗りよって、この娘が!」
 
 鬼気迫る黒川を見ても、もう怖くなかった。手すりを離して、下に落ちることも。

(――だって、下には彼がいるもの)

「初音!」

 非常階段の踊り場から手を広げた忍さんに向かって、わたしは飛び降りた。
 
 彼は受け止めてくれる。
 何度もボルタリングで練習した。
 あの逞しい体は、わたしの居場所だ。

(雅姫、一緒に帰ろう。彼の元に帰ろうね――)

 ――ドンッ!
 
 衝撃が全身にきた。
 ガチャンと派手に鉄の音がしたが、わたしに衝撃が伝わらない。彼が受け止めてくれたからだ。絶望が一瞬にして、希望に変わったのを感じながら、わたしは顔を上げる。

「大丈夫か、初音」

 そこには自分のことよりも、わたしを心配する忍さんがいた。

「忍さんこそ」
「俺は平気だ。鍛えているからな」

 そう言って、わたしを立たせてくれる。

「己、日向の小僧! また貴様かッ!」

 黒川が身を乗り出して、唾を飛ばしている。忍さんはわたしの頭を抱えて、自分の胸に引き寄せると黒川に向かって叫んだ。

「黒川! 俺のものを奪おうとしたことを後悔させてやる! 日の当たる場所に出られると思うなよ!」
 
 黒川は奥歯を噛みしめた。

「それで勝ったと思うなよ!」

 わたしたちを睨みつけ、剥がれたコンクリートの破片をわたしたちに向けて投げつけてきた。
 忍さんはわたしの頭を抱えてそれを避け、代わりに懐から出した万年筆らしきものを、黒川に投げつけた。まるで手裏剣みたいだ。

「ぐおっ!」

 万年筆は黒川の目に突き刺さるように当たり、黒川は目を抑えて後ろによろめいた。

「俺とお前じゃ初音への覚悟が違うんだよ!」
 
 わたしを抱きしめながら、忍さんが叫ぶ。その声とわたしを包み込む頼もしさに、全身が痺れた。
 黒川が目を抑えている間に、背後に黒い影が舞う。
 
(カナちゃん!)
 
 小柄な体を器用に翻し、カナちゃんは黒川を蹴り飛ばした。
 すとんと着地したカナちゃんは、わたしを見て手すりから身を乗り出す。

「初音ちゃん! 大丈夫か! 怖い思いをさせて、ごめんな!」

 心配そうに顔を歪ませるカナちゃんを見て、肩の力が抜けていった。
 かっこいい登場だったのに、カナちゃんがカナちゃんで、わたしはほっとした。

 
 ビルの非常階段を忍さんに支えられて降りていく。二階の窓が少し開いていて、叔父と叔母が何か言い合っているのが見えた。

「初音を誘拐してきたのはあいつらか……」

 忍さんが静かに問いかける。わたしはこくりと頷いた。

「そうか。あとは警察と俺たちに任せてくれ。もう初音に関わらせない」

 その言葉に、こくんと頷く。

「……ありがとう存じます」

 小さく笑っても、忍さんはまだ心配そうだった。階段を下り切ると、いつのまにかカナちゃんが入り口にいる。

「初音ちゃん! 日向!」

 駆け寄っていたカナちゃんを見て、微笑を作った。

「初音ちゃん、怪我はない? 本当に大丈夫か?」

 わたわたと手足を動かすカナちゃんに、こくんと頷く。

「大丈夫です。カナちゃん、来てくれてありがとう存じます」
「いいって! オレ、護衛なんだから!」

 そう言って、カナちゃんはやっと可愛らしい笑顔になった。

「あ、日向! 兄貴が警察向かわせって連絡きたから、オレ、ここにいるな。先に帰ってよ」
「え……でも」
「初音ちゃんは、怖い思いしたんだよ? あとは任せて! 日向! 送ってけよ」
「お前に言われなくても分かっている。ありがとうな、カナタ」
「おう!」

 手を振るカナちゃんに後ろ髪を引かれつつ、わたしは忍さんと一緒に歩き出す。忍さんの愛車の助手席に乗り、彼が運転席に座ると、一気に緊張感がほどけてきた。

(ああ、帰ってこれた……)

 居場所に戻れた安堵で、涙ぐみそうだ。すんと鼻を鳴らすと、忍さんが運転席から身を乗り出して、わたしを抱きしめた。咄嗟のことに、びっくりしていると耳元で苦痛を耐えるような低音の声が聞こえた。

「……初音が無事でよかった!」

 声を震わせながら言われ、わたしもくしゃりと顔を歪める。
 失いたくなかったと、彼の全身が言っている。
 そんな彼をわたしも抱き返した。

「忍さん、忍さん。……あなたに会いたかったです」

 思いを吐露すると、ぐっと抱擁が強まる。

 再び会えた喜びに胸を打ち震わせながら、わたしたちはしばらく無言で抱き合っていた。


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