【1話だけ大賞】東雲に愛を詠む〜臆病なコリスは未だに冬眠中〜
1 小リス、カエルになる。
 その瞬間、生まれて初めて呼吸が止まるという経験をした。

 放課後の文芸部の部室。夕焼けが差し込み、オレンジに染められた部屋の中。

 本棚の前に立って本を開く先生の黒髪に光が当たると、きらきらと輝く様子に息を飲んだ。

 高校三年の春、新任の教師として着任した都築(つづき)隼人(はやと)先生は無愛想な人で、どこか冷たい感じがした。

 それでも若くてカッコいいから、気になっている女子が多いのも事実でった。

 だが女子生徒たちに囲まれても、動揺することなく冷たくあしらう様子を、莉珠は静かに見守っていた。

 あんなふうに冷たくされたら、きっと私のお豆腐メンタルじゃ正気じゃいられない──だから遠くから見ているだけで十分だった。

 クールな先生はすごく大人で、自分の思いすらうまく説明できない私はまだまだ子ども──だから先生にもそう見られることが怖かった。

 元々子どもなのだから当たり前だと今ならわかる。でもあの頃は、それが怖かったのだ。

 だからまさか部室で先生と遭遇するとは思いもしなかった。

 部室に入った私に気付いた先生は、手に持っていた本を閉じる。

「もしかして、文芸部員?」

 突然声をかけられて、緊張しながら俯きがちに頷いた。

「は、はい、そうです」
「まだ文芸部ってあったんですね」

 まるで昔のことを知っているかのような言い方が気になり、首を傾げる。

「校長先生が『都築先生はうちの卒業生』って紹介してたの、聞いませんでしたか?」
「……聞いてませんでした」

 先生に見惚れて聞いていなかったとは言えなかった。

「あの……うちの文芸部から作家が二人も誕生してるって知ってますか? それで一度は廃部になったけど復活して、今は部員が八人もいるんですよ」
「君も何か書いているんですか?」
「私は小説ではなくて、俳句を詠むことが好きで……」

 一人でペラペラと話している気がして、恥ずかしくなって口を閉ざしてしまう。

「ってことは、僕の後輩になるんですね」

 驚いて、パッと顔を上げる。

「えっ、先生も文芸部だったんですか? ちょっと意外かも……。どんな作品を書かれていたんですか? あっ、もしかして部誌に載っていますか?」

 部誌が置いてあるのは、ちょうど先生が立っている場所だった。莉珠は都築先生が書いた作品が気になって、棚の方へと駆け寄っていくが、都築先生のすぐ隣に立った瞬間、自分がとんでもないことをしていることに気がついた。

 先生から漂う爽やかな香り、意識してしまう身長差、耳に届く息遣い──その全てに頭がクラクラして酔ってしまいそうだった。

 なんとか意識を保ちながら、震える指で部誌が並ぶ棚を指でなぞる。先生は新任だから、最低でも五年前──意識を変えようとするが、先生がそばにいると思うだけで、心臓がありえないほどの速さで打ち始める。

 初めて話す距離感にしては、近すぎる気がした。

「載ってますよ。代表作は『燕の行方』っていう作品かな」

 突然先生がぴたりと背後につき、手を伸ばして一冊の部誌を引っ張り出す。莉珠はゴクリと唾を飲み込んだ。

 だがそれよりも、先生が口にしたタイトルの方が重要で、衝撃を受けた莉珠は目を大きく見開いた。

「それって……作家デビューした先輩の受賞作……」

 驚いて口を開けた莉珠の手に、先生は部誌を載せながら不敵な笑みを浮かべる。

「さぁ、同じ題名かもしれませんよ」

 そう言われて部誌を開いて読み始めるが、明らかに受賞作と同じものだった。

「作者の名前が違うのにどうして……」
「ちゃんと作品を読んでくれてるんですね。まぁそうでなければ、同じかどうかなんてわからないはずですから」
「な、何回も読みました! すごく大好きな作品です!」
「それは嬉しいな」
「あのっ……私、三年の永里(ながさと)莉珠(りず)といいます。今度本を持ってくるので、サインをいただけますか?」
「俺なんかのサインでよければ。でも他の人には秘密にしてくれますか? あまりバレたくないんです」
「もちろんです。秘密は厳守します!」
「ありがとう」

 そう言って微笑んだ先生の笑顔を見た瞬間、莉珠は深い深い沼に引き込まれるのを感じた。

 それから先生は、過去の部誌を読みに時々文芸部の部室を訪れるようになった──それも莉珠が部室に一人の時に限って。

 二人きりの時、都築先生は莉珠の名前をもじって、"小リス"と呼んだ。愛称で呼んでくれることは特別な感じがして嬉しかった。

 でも莉珠は気付いていた。先生がいつも読んでいる部誌には、先生の作品と共に、同じく作家デビューをした女性の先輩の作品が載っていること。

 部誌を読んでいる時の先生は、普段生徒には見せない優しい笑顔を浮かべ、その度に胸がギュッと締め付けられた。

 もしかして、その人のことが好きだった? それとも今も好き?

「先生って……彼女いるんですか?」

 急に尋ねた私に、先生は無表情のまま「いますよ」と答えた。

「そうなんですね……」

 胸がえぐられるかのような痛みを覚え、涙をグッと堪える。

 彼女がいる人に、ましてや先生に告白をするなんて出来ない──そう思いながら、とうとう卒業式の日を迎えた。

 言うなら今日しかない。言わないなら一生この気持ちを心にしまっておこう──。

「大人になったら先生に会いに行くから、その時は私のことを子ども扱いしないで話を聞いてくれますか?」
「えぇ、いいですよ。大人になった小リスさんが来るのをお待ちしていますね」

 あれから五年。未だに学校に行くことも、先生に会いに行くことも出来ずにいる。

* * * *

 土曜日の夜の居酒屋は、熱気と酒の匂い、たくさんのお喋りの声が混ざり合い、エアコンの冷気が追いつかないほどだった。

「だーかーらー、もう死にそうなくらい働かされたから、こっちから辞めてやったんですぅ!」

 普段はなるべく静かに過ごしている莉珠だったが、お酒が入ったことに加えて周りの喧騒に心の(たが)がはずれ、つい声も大きくなる。

「うんうん、そんな会社辞めて正解よ。永里さんが壊れちゃうもの」

 旧姓内村(うちむら)百華(ももか)は、何度も頷きながら、ジョッキに入ったオレンジジュースをグビグビと流し込んでいく。

 百華は莉珠が通っていた高校の養護教諭で、在学中はことあるごとに保健室に駆け込み、悩み相談をしていたのだ。

「百華先生、めちゃくちゃ優しすぎるー! だか私、保健室が好きだったんですぅ! 先生みたいになりたくて大学に行ったのに、全然就職先は見つからないし、気付いたらブラック企業に入っちゃってるしー……。なのに管理会社から家賃を一万値上げするって言ってくるし……もう散々なんですぅ……」

 莉珠はテーブルに突っ伏すと、おいおいと泣き始めた。

 四月に入社してから、定時で帰ったことは一度もなかった。五月の連休中に友人たちに指摘され、莉珠はここがいわゆるブラック企業であることを確信したのだ。

 夕食は仕事をしながらコンビニのおにぎりで済ませ、家に着いたらシャワーを浴びて寝るだけ。そして翌朝にはいつも通り出社しなければならない。

 だがすぐに辞める勇気は出ず、はっきりと『ノー』が言えない莉珠は、社畜として毎日身を削る日々だった。

 だがその生活にとうとう心と体が追いつかなくなり、退職代行サービスにお願いして会社を辞めることにしたのだ。

 それから一週間。そろそろ新しい仕事を探そうと思い始めた頃、ポストに投函されていたものを見て、莉珠は大きく項垂れた。

『家賃値上げのお知らせ』

 このアパートですらギリギリラインだったのに、家賃だけでこれ以上の出費は無理な話だった。

 とりあえず値引きされた食品を求めてスーパーに出かけたところで、突然百華に声をかけられ、思いがけない再会となったのだ。

「あの頃、よく保健室に飛び込んで来ては『都築先生が今日も素敵で死にそう』って、片思い俳句ノートに気持ちを綴ってだわよね」
「そ、それは……!」

 まさか百華がそのことを覚えているとは思わず、莉珠の視線が宙を彷徨いだす。

「あれ、まだあるの? っていうか、告白はしたんだっけ?」

 あのノートは自分の黒歴史の一部で、恥ずかしくて見返すことが出来ずにいた。だからと言って捨てることは自分の過去を否定する気がし、今も実家から持ってきたダンボール箱の底にしまってある。

「……まだあるし、告白はしませんでした」

 百華は目を見開き、ジョッキをテーブルに置いた。

「へぇ、あんなに好きだって言ってたのに意外。もしかして新しい恋でもして、先生のことなんてすっかり忘れちゃった?」

 莉珠は苦笑した。口の中に苦さを感じ、誤魔化すようにビールを流し込む。

「……むしろ引きずってます。でもそれは恋心を引きずってるわけじゃなくて……卒業式の日に『大人なったら会いに行く』って宣言したのに、なんだか怖くて行けていないことが原因かなって。あの……都築先生、今もお元気ですか?」
「うん、相変わらず冷たい風をビュービュー吹かせてる」
「あはは、そうですか……」

 乾いた笑い声の中に、懐かしさとせつなさが渦巻いていた。

「会いに行かないの?」

 そう言われて、莉珠は困った様子で頭を掻いた。

「私……"カエル"なんです」
「カエル?」
「"カエル化現象"ってやつです。好きかもって思って付き合い始めても、なんか途端に『やっぱり違うかも』って冷めちゃって、一カ月もったことがないんです」
「それは都築先生のことを引きずっているから?」

 莉珠自身、何度も考えた。だが交際をする時に彼のことを考えているかと言われれば、決してそうではないのだ。

「わかりません。もし運命のいたずらで都築先生と付き合うなんてことがあったとしても、やっぱり同じことになるかもしれないし」
「じゃあ原因はわからないんだ。それなら一度、都築先生に会いに行ってみればいいのに」
「無理ですよ! いまさら先生に会うなんて……それよりも今は仕事と家を探さなきゃいけないしですし!」

 こんなにも否定してしまうのは、彼に対しても同じ感情になるのが怖いからかもしれない。

 黒歴史と思うくらいに先生に夢中になった高校三年。たった一年なのに、とてつもなく重たい感情だった。

 それほど好きだった人を嫌いになるなんて、想像するだけで悲しくなる。

 すると百華はにっこり微笑み、テーブルの上で頬杖をついた。

「仕事のことなんだけど、今も保健室の先生になりたいって思ってる?」
「もちろんです!」

 百華に憧れて養護教諭を目指すために大学に行ったのに、募集している学校が見つからず、仕方なく一般企業への就職を決めたのだ。

「実は私ね、今お腹に赤ちゃんがいるの。で、年始からは産休に入る予定なんだ」
「えっ、そうなんですか⁉︎ おめでとうございます!」
「ありがとう。でね、その後任を探さなきゃって校長先生と話してたんだけど、もし永里さんにやる気があるなら、私から校長先生に話を通してみようか?」

 莉珠は驚きのあまり、口をあんぐりと開けて言葉を失った。

「いいんですか⁉︎ すごくありがたいです!」
「ただ、都築先生の同僚になるってことだけど、大丈夫そう?」

 その言葉を聞き、喜びから一転、暗闇に突き落とされる。一瞬考え直したものの、今の状況以上のどん底はないように思えた。

 就職先が決まる──しかも夢だった養護教諭になれるのなら、顔を合わせるくらい、きっとどうにも出来る。

「大丈夫です! それとコレとは別問題ですから。私、頑張って働きます!」
「よしっ、じゃあ校長には私から話を通すから、永里さんは大船に乗った気持ちで待ってて」
「よろしくお願いします!」
「そうとなれば、今日は前祝いよ! 全部私の奢りだから、好きなだけ飲み食いしちゃいなさい」
「ありがとうございますぅ! 先生が神様に見えるぅ」

 食事がいつもの何倍も美味しく感じ、顔の筋肉が痛くなるほど笑った。こんなに楽しい時間は久しぶりだった。

 そのせいか、あっという間に酔いがまわり、莉珠はいつのまにか眠りの世界に誘われていった。

* * * *

 まぶたに感じる明るさは、朝が来たことを莉珠に教えてくれた。

 最近は電気代の節約のためと、エアコンを使わずにいることが多く、目が覚める頃には汗だくになっていたのに、何故か今日はその不快感がない。

 ふかふかの枕の感触と適温に保たれた空気の中、清々しい気分で朝を迎えたのは久しぶりだった。

 私ったら間違えてエアコンをつけたまま寝ちゃったのかしら……それなら電気代がかかるから早く消さなきゃ──そう思うものの、まるで頭を石で叩かれたかのようにガンガン響いたため、なかなかまぶたを開くことが出来ない。

 昨日どれくらい飲んだんだっけ──枕に顔を突っ伏しながら、なんとか頭を回転させて昨夜のことを思い返してみる。

 先生とスーパーで再会して、二人で居酒屋に入って、それから──だがそれ以上は思い出せず、眉間に皺を寄せた。

 ゆっくりと首を回し、光が差し込む方に目を向ける。少しずつ目を開けると、明らかに自分の部屋とは違うレースのカーテンが目に入った。

 視界の範囲内で部屋の様子を確認する。六畳ほどのフローリングの洋室で、壁際には大きめのクローゼットの扉が目に入ったが、莉珠が寝ている布団以外には何もなく、ここがどこかを示すような荷物は見当たらない。

 頭を押さえながら起き上がると、昨夜の服のまま寝ていたことに気付いた。

 もしかして、百華先生の家にお泊まりしちゃった⁉︎ ──慌てて立ちあがろうとするが、頭が重くて項垂れる。

 なんとか気持ちと気合いを奮い立たせて立ち上がり、ドアをゆっくりと引いてみる。すると意外にもここは二階で、階段の下からはテレビの音とともに、美味しそうなトーストの香りが漂ってきた。

 酔った自分をここまで運んでくれただけでなく、家に泊まらせてもらった上、朝食の準備までしてくれていると思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。

 手すりを頼りに階段を下り、テレビの音が聞こえるドアを開けた莉珠は部屋の中を覗き込む。

 目の前に大きな窓があり、その向こうに小さな庭が見えた。家庭菜園をしているのか、トマトやナス、オクラなどの野菜が実っている。

 モスグリーンのソファの向かいには大きなテレビがあり、アナウンサー二人が今朝のニュースを伝えていた。

 キッチンから作業する音がし、そこにいるのが百華だと思った莉珠は、部屋に入るなり頭を下げた。

「百華先生、昨日はすみませんでした! 全然記憶がなくて……」

 しかし頭を上げた莉珠は口をあんぐりと開けた。目に飛び込んできたのは、キッチンに立つ男性の姿だった。

 驚いて目を(しばた)いた莉珠だったが、男性がこちらを振り向いた瞬間、悲鳴をあげて飛び上がった。

 莉珠に気付いた男性は調理していたフライパンの火を止めると、顔だけこちらに向け不敵な笑みを浮かべる。

「久しぶりだな、永里小リス」

 艶のある黒髪、知的な雰囲気を醸し出すメガネ、そして女子生徒を虜にしてきた端正な顔立ち──。

「どうして都築先生がいるんですか……?」

 緊張から体がこわばり、心臓は早鐘のように打ち始め、口の中がカラカラに乾いていく。

「どうしてって、ここは俺の家だし」
「先生の家⁉︎ えっ……だって昨日は百華先生と居酒屋にいて……」

 都築は広々としたアイランドキッチンの背面にある食器棚に向き直ると、上部の扉を開けて白い皿を二枚取り出した。

「そうそう。その後に小リスは酔い潰れて、困った八木先生が旦那に連絡して、その旦那から俺に連絡が来たわけ」

 思考が追いつかず、莉珠は首を傾げる。

「あの……ちょっと意味がわからないんですけど……なんで都築先生に連絡がいくんですか⁉︎」
「それは八木先生の旦那が俺の同級生で、小リスが酔い潰れた居酒屋から俺の家が、目と鼻の先だからじゃない?」

 都築はフライパンで調理していたオムレツを皿に盛り付け、その横に水切りをしたレタスと、焼けたばかりの食パン載せる。

「いやいや、全然理由になってないです! だって私と先生には……なんの関係もないのに……」

 そう言って反論したところで、不覚にも腹の虫が鳴いてしまう。

 都築は両手に皿を持つと、クスクス笑いながらアイランドキッチンの前に置かれたダイニングテーブルまで運んだ。

 濃いグレーの天板のテーブルは伸長式らしく、真ん中に切れ目が見える。

 先生、まさかパーティでもするの……? ──あまりにもイメージとかけ離れた想像をしてぞっとした。

「とりあえず朝メシにしよう。その腹の虫を早く鳴きやませた方がいいと思うし」

 莉珠はお腹を押さえ、恥ずかしさを堪えるように唇をギュッと噛みしめると、渋々椅子に座った。

 向かい側に腰を下ろした都築を不審そうに見つめながら、オムレツを口に運ぶ彼をじっと見つめる。

 あの頃よりも更に落ち着いた大人の雰囲気を感じ、心臓がドキッと跳ねた。

「もしお粥がいいなら、レトルトがあるけど」

 じっと都築を見ていた莉珠が、二日酔いで食べられずにいると勘違いしたのか、キッチンを指差しながらそう言ったので、莉珠は慌てて頭を横に振った。

「二日酔いは酷いけど、食べられないほどじゃないから大丈夫です」

 莉珠は都築が作ってくれたオムレツを口に運ぶと、その味に思わず口元が綻ぶ。

「おいしい……」
「まぁ俺が作ってるし」
「なんですか、その自信は」

 ニヤッと笑った彼の表情に胸が苦しくなるのを感じながら、莉珠は口を尖らせた。

「俺のばあさんが料理教室の先生だからさ、昔からいろいろ仕込まれてきたんだよ。『今時の男子は料理が出来ないとダメだ』って意味わかんない理由で、やらされ続けてきたわけ」

 意外な一面に感心しつつ、現在の都築の姿に妙な違和感を覚える。

 昔の先生はもっと言葉遣いが丁寧だったし、こんなに喋らなかったし、笑いもしなかった。これが本当にあの先生なの? ──莉珠は眉間に更に深い皺を作ると、怪訝そうに都築に目を向けた。

「なんか先生、昔と雰囲気が全然違う」

 すると都築は食べていた手を止め、莉珠を真っ直ぐに見返した。

「あれは学校用。こっちが本性」
「えっ……じゃあ学校では猫かぶってたってことですか?」
「先生らしく振る舞っているってこと。若い先生ってだけで生徒たちは親近感を持って近づいてくるだろ? なめられたくないし、馴れ合うのは面倒だから」

 都築は頬杖をつくと、不敵な笑みを浮かべる。

「幻滅した?」

 "馴れ合うのは面倒"と聞いて、確かに一瞬胸がチクリと痛んだ。高校生の莉珠が聞いたらショックを受けたに違いない。

 だがそれは昔のことであって、離れていた期間があった分、今は過去のこととして冷静に受け止められた。

 それに目の前にいる彼の方が話しやすいと思い始めていたし、どこか距離が近づいたような気もしていた。

「しないですよ。先生の事情ですから、私には関係ないですし」

 都築は一度目を見開いてから、何故か突然クスクスと笑い始める。

「なるほど。小リスはそういう感じなのか」
「むっ、どういう感じですか?」
「なんでもないよ、こっちのこと。ところで小リス、住む場所に困ってるんだって?」

 トーストにかじりついた都築に言われ、オムレツが喉に詰まりかける。

「百華先生から聞いたんですね」
「少しね」

 どこまで聞いているのかわからなかったが、しんどい気持ちは何度吐き出しても構わない。むしろ聞いてほしいと思った。

「……仕事を辞めた途端に家賃が値上がりしたんです。仕事は百華先生が校長に話してくれるって言ってくれたんですけど、住む場所ばかりは家賃との兼ね合いもあるし……厄年かって思うくらいもう最悪です」

 大きなため息をつきながら、トーストを食べようと口を開けた時だった。

「じゃあ、ここに住む?」

 言葉の意味を理解するのに時間がかかり、硬直したまま動けなくなる。

「住むって……えぇっ⁉︎ な、何言ってるんですか⁉︎ ここに住むって……先生と同居⁉︎ そ、そんな冗談──」
「あっ、言い忘れてた。正確にはここはばぁさんの家であって、俺はただの居候。だから住むにはばぁさんの許可が必要だけど」
「おばぁさんって……料理教室の先生の?」
「そう」

 だからアイランドキッチンと伸長式のテーブルなのね──そう思いながら、莉珠は辺りをぐるりと見回した。キッチンもダイニングもリビングも、どこもかしこも新築のようにピカピカだった。

「リフォームしたばかりなんだ。部屋が余ってるし、職場も近いから住まわせてもらってるんだよ」
「そうなんですか……?」

 彼の話を信じるとしても、提案に対しては疑念を抱いてしまう。

 昔の教え子に同居を提案するなんて、一体どういう気持ちなんだろう。それに彼が私の気持ちに気付いていなかったはずがない──理解が追いつかず、黙り込んでしまった。

「もしかしたら同じ職場になると思うし、かなり良い物件だと思うけど」
「……先生、それ本気で言ってるんですか? 元教え子だし、一応こう見えて女なんですよ」
「元教え子だから手を差しのべてやってるんだけど。それとも小リスは俺との間に、何か起こるとでも思ってんの?」
「べ、別に! そんなこと思ってないです!」

 それに何かあったとしても、きっとカエル化現象が再発して、進展することはないに違いない。

「わかってるって。だから提案してみただけ」

 あまり深い意味はなかったのだろうか。都築はマグカップを口元に運んで、コーヒーを飲んだ。

「……ちなみにですけど、家賃はおいくらくらいですか……?」
「んー、どうだろう。俺は光熱費込みで三万だから、同じじゃない?」
「ええっ⁉︎ 全部込みでですか?」

 今住んでいるアパートの家賃よりもはるかに安く、さらに光熱費も込みとなれば、一体どれだけの金額が手元に残るのだろう──。

 今まで安い化粧品や服で我慢してきた日々を思い返し、心が大きく揺れ動く。

「一応言うと、さっき小リスが寝てた部屋が、今空いてる部屋だから。朝は陽が入るし、結構いい部屋だと思う」

 莉珠は口をギュッと結び、頭をフル回転させた。

 ここはおばあさんの家と言っていた。ということは決して先生との二人暮らしではないということだし、高校生の時の感情を引きずっているとしても、別に恋心があるわけではない──。

 『大人になったら会いに行く』と言った約束を守れていないことを引きずっていたが、今の彼の反応を見ると、どうも約束のことは覚えていないように見えた。

 もしそうなら、莉珠が懸念することは何もない上、今より生活が楽になる。これ以上の選択肢は見当たらなかった。

 莉珠はおずおずと視線を上げたが、都築と目が合うとドキッとして、慌てて俯いてしまう。

「私、本当に困ってるんです。もしおばあさまに確認していただけたらありがたいです……」

 都築はマグカップを口から離すと、不敵な笑みを浮かべた。

「交渉成立」

 その瞬間、恋心はないはずなのに身体中が熱くなって、ドキドキが止まらなくなり、莉珠は勢いよく立ち上がった。

「じゃ、じゃあ私は帰ります! ごちそうさまでした!」
「あっ、連絡先だけ教えて」

 渋々スマホを取り出し、互いの連絡先を交換する。画面に映った都築の連絡先を見つめた。

 学生の頃、あんなに知りたいと思った連絡先が、今こうして自分のスマホに入っているなんて不思議な感覚だった。

「じゃあばあさんに聞いておく」
「……よろしくお願いします」

 それからどうやって自宅に戻ったのか、よく覚えていない。しかし程なくして都築から『いつでも引越してきていいよ』と連絡が来て、激しく動揺した。

 一緒に住む自信がないから、やっぱりやめるって言う? でも都築先生の本当の姿を間近で拝めるチャンスなんて、二度とないに違いない。

「でも同じ家に住むなんて、心臓もつかなぁ……」

 思わず呟いた言葉にハッとする。恋心を抱いているわけではないのに、何を心配しているんだろう。むしろカエル化現象の原因を突き止める、いい機会かもしれない。

 ベッドの上で転がりながら都築の顔を思い浮かべて、頬が熱くなった。
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