旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜
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「ねぇイシュ。契約結婚ってどう思う?」
「え? 契約……何?」
「契約結婚よ。三年間の期間限定の。しかも、白い結婚でいいんですって」
「はっ? いや、ちょっと待ってフィア。一体何の話? 順を追って説明してくれないか」
ソフィアからその話を聞かされたとき、端的に言って、イシュは動揺した。
表面上は平静を取り繕っていたものの、心の中は嵐が吹き荒れるかのごとく乱れていた。
彼女が他の女性とは一味も二味も違うということはわかっていたが、まさか、契約結婚などという突飛なことを言い出すとは、流石のイシュも予想外――どころか、ソフィアがおかしな詐欺にでも引っかかったのかと、イシュは心底心配した。
だが、よくよく聞けば、相手はれっきとした貴族で、しかも、ウィンダム家の嫡男だというではないか。
大商人としてこの国の社交界に精通しているイシュは、ウィンダム家の嫡男のレイモンドが「大の女嫌い」であることを当然のように知っていたが、しかし、やはり、すぐには信じられなかった。
「……確かにあの方は女嫌いで有名だ。君が結婚を望んでいないことも知っている。……でも、だからって、契約結婚は流石に突飛すぎると思うよ。もう少しよく考えた方が……」
いくら相手が女嫌いといっても、一つ屋根の下で過ごしていたら、どんな間違いが起こるかわからない。しかも、期間は三年。――賛成などできるはずがない。
けれど、目の前に座るソフィアは、そんなイシュの忠告をどこ吹く風と受け流し、紅茶を一口啜ってから、至極真っ当なことのように答える。
「でも、もう承諾のお返事をしてしまったの。それに、またとない好条件なのよ。三年間、彼の妻を演じるだけで、私には夢を叶えるための資金と自由が手に入るんだから。そのお金で帝国に移住して……できたら、自分のお店を持てたらって。素敵だと思わない?」
「……はあ、全く。君って人は」
イシュはこめかみを押さえた。
彼にとって、十六歳の時から見守ってきたソフィアは、友人以上の存在だった。彼女が望むなら、すぐにでも他国に連れ去ってしまえる手筈は整えていた。
それなのに、少し仕事を忙しくしている間に、ソフィアは自ら道を切り開いてきた。彼女にとって、もっとも過酷であるはずの「婚姻」という名の茨の道を。
どう返すべきかと悩むイシュに、ソフィアはさも当然のように微笑む。
「あなたなら応援してくれるでしょう? イシュ」
「…………」
どうやら、ソフィアは意見を変える気はないらしい。
そう悟ったイシュは、ソフィアを止めることは諦め、商人の脳へと、考えを切り変えた。
(……仕方ない。こうなったら、フィアにとって最大限有利になるような条件で進めるしかない)
イシュは椅子に深く腰掛け直し、指先を組む。
(一先ず期間は三年。金額は言い値でいい……か。確かに好条件ではある。それに、女嫌いのウィンダム卿がフィアを女として愛でることはない。つまり、考え方を変えれば、フィアはウィンダムという名の『厳重な金庫』に、手つかずのまま保管されるということだ)
――なるほど。悪くない。
三年間、レイモンドにソフィアを守ってもらう。その間に、自分が帝国の基盤を固めればいい。
彼女の報酬をすべて預かり、商会の資金として回し、彼女が一人で生きていけるだけの、いや、一生遊んで暮らせるほどの莫大な富に膨らませておく。
そうすれば、三年後――契約が満了した瞬間、彼女は自動的に「僕が用意した城」へと飛び込んでくるというわけだ。
イシュは、唇に弧を描いた。
「……わかった。君がそこまで言うなら、協力しよう。その代わり、条件がある」
イシュは、ソフィアが持参した契約書を奪い取り、条項を書き換えていく。
「報酬の支払いは一括ではなく、月払いにさせるんだ。その管理は、ヴァーレン商会が引き受ける。君には一ギールも損はさせない。……あとは、そうだな。今のうちにブランドを立ち上げておくのがいいだろう。そうすれば三年後、スムーズに商売を始められる。帝国には、僕が最高の工房を用意しておくよ」
ソフィアは「ありがとう、イシュ。頼もしいわ」と無邪気に笑った。
その笑顔の裏で、イシュは冷徹な勝者の微笑を浮かべていた。
(ウィンダム卿……君には三年間、僕の大切なミューズを守る盾となってもらうよ)
これは、友情を担保にした、不純で完璧な投資――になるはずだった。
しかし。
その盤面は見事にひっくり返された。
計画達成まであと一歩のところで、ソフィアは自分ではなく、あの男を選んだのだ。