推しと清く正しい逢瀬(デート)生活 ーこっそり、隣人推しちゃいますー

この優しさ、現実ですか?(8)

「俺、前にここでバイトしてたんですよ。あ、でもコーヒーに詳しいわけじゃないです」
 彼は謙遜するように一言添え、小声で続けた。
「その時に聞いたんですけど、この店、豆を厳選してるって店長が言ってました。豆によって焙煎や挽き方、淹れ方も変えるって。だからバイトの俺は淹れさせてもらえなくて、運ぶ専門でした」
 なるほど、だからこんなに美味しいのか。私は話を聞きながら、もう一口。やっぱり美味しい。癖になりそうだ。
「本当に美味しいです。お店の雰囲気も素敵で、また来ちゃうかも」
「それは嬉しいな」
 彼はまるで自分のことのように自慢げに笑い、もう一口飲んだあと「そうだ」と呟いて私を見た。
「俺の名前、成瀬陽一です。あなたは?」
 突然の自己紹介に戸惑う私に、彼は安心させるように微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。無理には聞きません。ただ、またここで会えた時に、名前を知らないのは少し寂しいなと思って」
 一瞬きょとんとして、思わず笑ってしまう。相変わらず、思いもよらないことを言う人だ。
 笑い出した私に、成瀬さんはまた小首を傾げる。その仕草が可愛らしい。完全に子犬だ。私は目尻を拭いながら笑顔を向けた。
「石川です。石川千紘。またお会いできたら、その時はよろしくお願いします」
 さっきまで疑っていたのが馬鹿らしい。こんなにいい人を疑うなんて、私はどうかしてる。
 自己紹介を終えた私たちは、しばらく他愛のない話で盛り上がった。彼のほんわかした雰囲気に心が緩み、気づけば会社の話から趣味まで洗いざらい話していた気がする。それほど心地よい時間だった。
 あっという間に閉店時間が近づいていた。
「もうこんな時間……話しすぎましたね」
 お互いに苦笑いを浮かべながらレジへ向かう。
「ここは私が。鞄のお礼に」
「え、いいですよ。俺が勝手にやったことですし」
 成瀬さんは辞退しようとしたが、私はそれに被せて会計を済ませた。
「一日一善の見返りだと思ってください」
 そう言うと、成瀬さんは困ったようにはにかんだ。
「では遠慮なく」
 その顔がまた、可愛かった。
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