月下櫻涙―戻らない夜―
好きって言えたら、きっと、もっと楽だった。





夜は、いつも少し遅れてやって来る。

火が小さくなり、人の声が少しずつ遠のいていく。
笑い声、足音、布の擦れる音が、一つずつ、ほどけるみたいに消えてから。

最後に残るのは、吐息と、すぐそばにある、あなたの気配だけ。

……私は、もう子供じゃない。

抱かれていないと眠れない年でもないし、一人で歩けないほど、小さくもない。
「守られるだけの子」なんて呼ばれることも、いつの間にか減っていた。

昼の私は、ちゃんと分かっている。
自分の足で立って、転んだら自分で起き上がり、遅れても置いていかれないように追いつく。

でも、夜は違う。

目を閉じると、心が勝手に弱くなる。
――いるかな。
――まだ、ここにいるかな。

声に出さなくても、胸の奥が、何度も、何度も確かめている。

あなたは、何も言わない。
触れる前も、触れたあとも、「大丈夫」も、「ここにいる」も、「戻ってこい」も言わない。

ただ、腕がそっと近くにあって、逃げられもしない、捕まえられもしない距離にいる。

あたたかい。
でも、その温もりが、いつまで続くのかは分からない。

私は、怖い、って思ってる。

拒みたいわけじゃないし、離れたいわけでもない。
ただ、朝になったとき、同じ景色かどうかが分からないだけ。

好きなのに、好きと言えない。
一緒に居たいのに、言葉にすると壊れそうで言えない。
素直になれない自分を、大人になったからだと、言い聞かせる。

昔は、簡単だった。
不安になったら、誰かの袖を掴めばよかった。
「離さないで」なんて言わなくても、身体がちゃんと知っていた。

でも、今はしない。
……しちゃいけない気がする。

弱さを見せたら、きっと、自分が崩れてしまう気がして。
だから私は、自分の手を、ぎゅっと握る。

……大丈夫。
……私は、戻れる。

そう言い聞かせないと、この夜に溶けてしまいそうだから。

あなたの呼吸が、少し深くなる。
眠りに落ちかけているのが分かる。

その瞬間、喉まで来た言葉があった。

「ねえ……朝になっても、いる?」

でも、言わない。
聞いたら、答えを待つことになる。
待つってことは、答えが来ないかもしれないって、知ってしまうことだから。

だから、聞かない。

代わりに、あなたの呼吸に自分の呼吸を重ねる。
今は、同じ夜にいる。
それだけで、今の私は、ぎりぎり立っていられる。

人は皆、寂しい生き物。
それでも、前を向いて生きていかなきゃいけない。

戻る場所は、もう誰かの言葉だけじゃない。
誰かの腕の中だけでもない。

歩いた距離も、転んだ数も、泣くのを我慢した夜も。
全部、私の中に、積もってきた。

焚き火の匂いが、まだ少しだけ髪に残っている。
それを感じながら、私は目を閉じる。

もし、この手が離れても。
もし、朝、あなたがいなくても。

それでも私は、自分で火のある場所へ戻れる。
そう思えたことが、少しだけ寂しい。

……でも。

それはきっと、私がちゃんと、ここまで来たってこと。
今は、そう思うことにする。




(――本編へ)

※本作は予告編です。本編は別作品として公開中です。
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