氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
廊下の奥から、藤堂さんの妻が出てきた。
目が赤く、手にはハンカチを握りしめている。

「警察の方……ですよね」

私は警察手帳を出した。

「捜査一課の今井です。ご主人のことについて、少し確認させてください。ただ、無理はしなくて大丈夫です」

「主人は、助かるんでしょうか」

「今は命に別状はないと聞いています」

それを聞いた瞬間、奥さんの膝から力が抜けそうになった。
私は咄嗟に支えた。

「すみません……」

「座りましょう」

近くの椅子に案内する。
沢渡先生は少し離れて立った。
生きている血はもう見えない。
でも、人の動揺や涙も、先生にとっては扱いにくいものなのかもしれない。

「今朝の様子を教えてください」

私はゆっくり尋ねた。

「いつもなら六時半には起きるんです。でも今日は、呼んでも起きなくて。眠っているだけかと思って……でも、息が変で」

「昨夜、何か薬を飲んでいましたか」

「いつもの薬は飲んでいました。糖尿病の薬と、血圧の薬と……あと、最近眠れないって言っていて」

「睡眠薬ですか」

「病院では出してもらっていないはずです。白峰先生にも、まだ様子を見ましょうって言われたって」

「白峰先生」

奥さんは頷いた。

「白峰メディカルケアの院長先生です。親身になってくださる方で、主人も信頼していました」

その言葉に、私はペンを握る手に力を込めた。

白峰院長。
三件目の女性の往診担当。
一件目の健康相談にも関与。
藤堂さんも信頼していた。

でも、信頼は証拠ではない。
疑いも証拠ではない。

「昨夜、ご主人は誰かと連絡を取っていましたか」

「電話をしていました」

「相手は」

「わかりません。ただ、主人は『これで眠れるなら助かる』って言っていました」

背筋が冷えた。

「薬を受け取った様子は」

「私は見ていません。でも……」

奥さんはハンカチを握りしめる。

「昨日の夕方、白峰メディカルケアの人が来たんです」

私は顔を上げた。

「訪問予定は今朝だったはずです」

「はい。だから私も不思議に思いました。でも主人が、ちょっと相談しただけだからって」

「来たのは誰ですか」

「院長先生ではありません。女性でした。たぶん、看護師さんか事務の方か……玄関先で少し話して、すぐ帰られました」

「名前は聞きましたか」

「すみません、聞いてません」

「顔は見ましたか」

「いいえ。顔は見えなかったので」

橘美里。
そう思いかけて、私は自分を止めた。

決めつけるな。
反応は記録しておけ。

先生の声が頭の中に響く。

「何かを渡していましたか」

奥さんは少し考えた。

「封筒のようなものを……主人が受け取っていた気がします」

封筒。

薬とは限らない。
説明書かもしれない。
記録かもしれない。
あるいは、まったく関係ないものかもしれない。

「ご自宅に、その封筒は残っていますか」

「わかりません。探してみないと」

「確認させてください。必要であれば、後ほど正式な手続きを取ります」

奥さんは小さく頷いた。

「主人は……誰かに殺されかけたんですか」

その問いに、私はすぐには答えられなかった。

殺されかけた。
言葉にすると、重い。
そして、まだ断定できない。

「今は、体調悪化の原因を確認している段階です」

「でも、警察が来て、法医学の先生まで……」

奥さんの視線が沢渡先生に移る。

先生は逃げなかった。
冷たい顔で、でも不誠実ではない声で言った。

「現時点で断定はできません。ただ、ご主人の体内に通常では説明しにくい薬剤が入っていた可能性があります」

奥さんの顔がさらに青くなる。

「薬剤……」

「原因を確認するため、正確な情報が必要です。昨夜から今朝までのことを、後で思い出したら今井刑事に伝えてください」

今井刑事。
また、元に戻った。

私は少しだけ、自分が残念に思ったことに驚いた。

何を意識しているんだろう。
ただの呼び方だ。
沢渡先生が一度、自然に略しただけ。
それだけなのに。
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