氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
資料室の窓を雨粒が伝っていく。

外はもう薄暗い。

夜の庁舎には独特の音がある。人が残っているのに、昼間よりも音が遠い。廊下を歩く靴音が一つ響くだけで、建物全体が応えるように感じる。

今井が資料を閉じた。

「先生、今日は戻りますよね」

「監察医務院にか」

「はい」

「君は?」

「私はこのまま、夏目さんのスマホ関係の手続きと、白峰側の訪問記録の照会をまとめます」

「何時まで」

「終わるまで」

「その答えは不適切だ」

「刑事の仕事って、そういうところあります」

「自分の限界を計算に入れろ」

今井は一瞬、俺を見た。

その目が、昨日の雨の下と同じように少し揺れる。

「先生もですよ」

静かな声だった。

真鍋刑事が冗談を挟まなかった。

俺は返答に迷った。

無理と必要は違う。

そう言うことはできた。

だが、彼女の目があまりにもまっすぐで、いつもの理屈をそのまま出すことに一瞬だけ抵抗が生じた。

俺の秘密を知っている目。
そして、それを守ると言った目。

俺は目を逸らし、鞄を持った。

「俺は自分で判断する」

次の瞬間、彼女のスマートフォンが震えた。

資料室の空気が変わる。

今井は画面を見た。

表示名を見た彼女の眉が、わずかに寄る。

「橘看護主任です」

真鍋刑事の表情も変わった。

今井はゆっくり画面をこちらへ向けた。

そこには、短い文面が表示されていた。

『話したいことがあります。でも、神崎さんには知られたくありません』

資料室の蛍光灯が、低く唸っている。

雨音が遠くなった。

橘美里。

怯えていた看護主任。

神崎に知られたくない。

つまり、神崎は橘にとって危険または圧力の源である可能性がある。橘が知っているのは、薬剤管理システムの不自然な更新か、薬剤配送の実態か、夏目莉子のスマホに関わる情報か。

今井の指が、スマートフォンを握りしめた。

俺はその画面から、彼女の顔へ視線を移した。

「今井」

自分でも驚くほど、名前が自然に出た。

彼女が俺を見る。

「俺も行く」

今井は少しだけ目を見開いた。

それから、困ったように笑った。

「……はい。お願いします」

その笑い方に、俺の中の何かがまた一つ、計算から外れた。

だが、まだ認めない。

これは恋ではない。

今井は、見ていないと危ない刑事だ。

ただそれだけだ。

「橘に返信しろ。場所と時間は、こちらで指定する。人目があり、なおかつ神崎に察知されにくい場所だ」

「わかりました」

「真鍋刑事、警察側の手配を」

「了解。いやあ、頼もしいねえ、相棒みたいで」

「相棒ではない」

否定は、また早すぎた。

真鍋刑事が笑う。

今井は少しだけ赤くなって、スマートフォンに目を落とした。

俺はその横顔を、必要以上に見ないようにした。

この行動は、合理的ではない。

だが、まだ名前はつけない。
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