氷の法医学者と、秘密の共犯になりました
先生はしばらく黙っていた。

やがて、低い声で言った。

「君は、俺の弱さを軽く扱わない」

「軽く扱えません」

「だから厄介だ」

「褒めてます?」

「困っている」

「正直ですね」

「君の前では、取り繕っても効率が悪い」

それは、特別だと言われたみたいだった。

私は視線を落とす。

包帯の白が、夜の病院の光を受けてぼんやりしている。

「橘さんに、利用されました」

ぽつりと呟いた。

先生は黙って聞いていた。

「私、怯えている人を守りたいって思いました。神崎さんが怖いって聞いて、橘さんを守る側に立ちたいと思った。あの人は、それをわかっていたんですよね」

「そうだな」

「悔しいです」

「当然だ」

「私、刑事なのに」

「刑事でも、人間だ」

先生の言葉が、静かに胸へ入ってくる。

いつか、私の腕の赤みに怒った時も、同じようなことを言った。

刑事でも、生きている人間だ。

先生は続けた。

「弱い立場の人間を守りたいと思うこと自体は、間違いではない」

「でも、それを利用されました」

「利用する側が悪い」

「それだけで済ませたら、また同じことをします」

私は唇を噛みそうになって、やめた。

先生に噛むなと言われそうだったから。

「だから、次はもっと見るようにします。怯えている顔だけじゃなくて、その言葉の向いている先も」

先生が、ほんの少しだけ目を細めた。

「それでいい」

「先生が止めてくれたからです」

「君も止まった」

その言葉に、胸がまた熱くなる。

今日は何度も、先生に戻されている。

暴走しそうになるたび。
痛みで意識が揺れそうになるたび。
自分を責めすぎそうになるたび。

先生の声が、私を引き戻してくれる。

「先生」

「なんだ」

「私は、先生の相棒になれてますか」

聞いてしまってから、鼓動が跳ねた。

先生はすぐに答えなかった。

処置室の外で、台車の音が遠ざかる。
カーテンの向こうの白い光が、わずかに揺れた。

「相棒としては」

先生はゆっくり言った。

「手がかかりすぎる」

私は、少しだけ笑った。

「解消しますか?」

冗談のつもりだった。
でも、声は思ったより小さくなった。

解消。
相棒をやめる。
この距離をなくす。
先生が私を見なくなる。

それを想像しただけで、胸がぎゅっと痛んだ。

沢渡先生は、すぐには答えなかった。

いつものように即答で否定もしない。
合理的に判断もしない。
ただ、私を見ている。

その沈黙が長くて、怖くなる。

やがて先生は、視線を少しだけ逸らした。

「……今は、考えたくない」

低い声だった。

逃げたようにも聞こえる。
でも、拒絶には聞こえなかった。

考えたくない。
つまり、解消したくないと言えない代わりに、そこから離れたくないと言っているようにも聞こえた。

私は包帯の巻かれた腕を抱え、静かに頷いた。

「はい」

事件は解決に向かっている。

橘美里は確保された。
神崎遼は、犯人じゃなかった。
夏目莉子さんの写真も、藤堂さんの封筒も、端末ログも、橘さんの嘘を少しずつ照らし出していく。

でも、私たちの関係はまだ終わっていない。

相棒。
秘密の共犯。
それだけでは、もう足りない何か。

沢渡先生は、まだ言葉にできない。
私も、まだ言えない。

けれど、今日、先生は私の血を前にして逃げなかった。

怖いまま、私を失う方が怖いと言ってくれた。

その声が、手が、必死さが、私の中で何度も響く。

私は、先生にとって特別でありたい。

そして、きっともう、そう願っている時点で答えは出ている。

これは相棒じゃない。

恋だ。

処置室の白い光の中で、沢渡先生はまだ私のそばに座っている。
いつもの無表情を取り戻そうとして、でも少しだけ疲れた顔で。

私はその横顔を見つめながら、胸の中でそっと思った。

事件が終わっても、この人の隣にいたい。

怖いものを抱えたままの先生の隣で。
私の危うさを止めてくれるその声の届く場所で。

相棒という言葉の奥に隠したままでは、もうきっと、いられない。
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