雨の日が苦手だった、私たちは

プロローグ


 雨の匂いがする――。
 雨の降り始めに立ちのぼる独特の匂いが、鼻先を掠める。肌で感じるのは、湿り気を纏った空気。

 そういう小さな変化に、萌衣(もえ)はいつも、誰よりも先に気づく。その後は、ほとんど予想通りの天候になるのだ。


「高瀬さん、少し急いで帰りましょう」
「え、なんで?」
「雨が降りそうです」
「今日って晴れじゃなかったか?」


 横断歩道の前で、信号が変わるのを二人で待つ。
 高瀬はポケットからスマホを取り出し、天気予報を確認していた。


「本当だ。今日の朝は晴れの予報だったのに、雨に変わってる」
「あ、やっぱりそうでしたか?」
「朝比奈、なんで分かったの?」
「……雨の降り始めって、独特の匂いがしません?」
「あー、確かそういうのって“ペトリコール”って言うんだよな」


 聞き慣れない言葉に、萌衣は思わず首を傾げた。
 雨の降り始めの“あの匂い”には、きちんと名前があることを初めて知った。

 高瀬は本当に色々なことを知っている。それは彼が、日々多くのことを学んでいるからだ。
 そんな一面を知ったのも、つい最近のことだった。


「高瀬さん、本当に物知りですよね。ペトリコールなんて、私、初めて聞きました」
「そうか? あ、もう雨降り始めた」


 信号が変わり、二人で横断歩道を急いで渡る。
 渡った先には、ちょうど雨宿りできそうな場所があり、そこに二人で逃げ込んだ。

 弾んだ息を整えるように、ふーっと高瀬が大きく息を吐いた。
 萌衣は、いつも持ち歩いている折り畳み傘を探そうと、自身の鞄の中を確認する。

 ふと、隣の高瀬の横顔を見ると、その視線は遠くの方を見ていた。先ほどの商談のことか、次の予定について考えているのかもしれない。

 萌衣も探す手を止め、高瀬と同じようにぼうっと視線を遠くに向けた。


 視界の先には、さまざまな人がいる。
 突然の雨に慌てたように動く人、タクシーを呼び止める人……天候というものは、一瞬でその場の空気を一変させてしまう。
 

(あ、この後は来客があったはずだから……お客様も、移動の途中で雨に濡れてるかもしれない。会議室の温度、少し上げておこうかな)

< 1 / 12 >

この作品をシェア

pagetop