終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜

 がたん。
 大きな揺れが身体を突き上げた。
 同時にぷしゅうという気の抜けた音が鼓膜を打つ。

 (……え?)

 泥沼のような澱みから意識が強引に引き上げられる。
 まぶたを開ける。蛍光灯の寒々しい白さが眩しい。ただ、見慣れたオフィスの天井ではない。わたしの部屋でもない。
 どこだろう、ここ。

 視界の端には、つり革。そして誰もいない長座席。
 と、無機質な声が耳に届く。

 『終点、大戸島、大戸島です。こちらは最終電車となります。どなたさまもお忘れ物のないようご注意ください』

 おおとじま。
 聞き覚えのない地名だった。いや、路線図の端っこで見たことはある気がする。都心にある会社の最寄り駅からは、一時間半。彼方にあるはずの終着駅。

 「……嘘、でしょ」

 おい。佐倉《さくら》 美月《みづき》、二十五歳。
 まだボケるには早い。ちょおっと、早いぞ。

 連日の残業続きで限界を迎えていたわたしは、どうやら帰りの電車で寝過ごし、見知らぬ終着駅まで運ばれてしまったらしい。
 時計を見る。血の気が引いてゆく。もう二十四時を廻ってる。明日も朝から仕事なのに。ここからどうやって帰ればいいのか。タクシー代なんていくらかかるのか。
 絶望に打ちひしがれながら、わたしはのろのろと身体を起こそうとした。

 その、とき。

 「……目が覚めたか」

 斜め上、でも、頭のすぐ近く。そこから降ってきたのは、低く、冷たく、そして恐ろしく整ったバリトンボイスだった。
 凍りつく。この声を知っている。いや、知りすぎている。
 一日の半分以上をこの声でなされる指示に従って過ごし、ときには夢の中にまで出てきてわたしを叱責する、絶対君主の声。

 油の切れたブリキのおもちゃのような動きで、わたしは首を巡らせた。
 すぐ隣。さっきまでわたしの頭が垂れていたその場所に、彼の顔はあったのだ。

 工藤 湊《みなと》。三十二歳。
 わが社の営業部副部長にして、泣く子も黙る仕事の鬼。
 通称、氷の工藤。

 彼は腕と長い足とをそれぞれ組み、高級なソファにでも座っているかのような風合いで、終電の固いシートに君臨していた。仕立ての良いダークネイビーのスーツ。緩みの一切ないネクタイ。整髪料で完璧にセットされた黒髪。
 そして、氷点下の眼差し。

 「く、工藤、ふくぶちょ……」
 「おはよう、佐倉。いや、こんばんは、か?」

 口元は笑っているけれど、目は笑っていない。
 脳がパニックを起こす。

 そうだ。わたしたちは一緒に会社を出たのだ。駅までの道、無言で早歩きをする彼の背中を必死で追いかけ、発車ベルが鳴り響くホームへ二人で駆け込んだ。
 満席の車内、唯一空いていた席に並んで座り……そこから先の記憶がない。

 「あ、あの、すみません! わたし、寝てしまっ……て……あ」

 慌てて立ち上がりながら動かした視線が、それを捉えた。釘付けになる。
 工藤副部長の左肩。男物には詳しくはないわたしでもすぐにわかる、数十万円は下らないであろういかにも高級なジャケットの、その肩口から鎖骨にかけて。
 直径でいえば十センチほどか。黒々としたシミがその存在を主張している。

 わたしは、理解した。
 いろいろなことを即座に理解した。
 そうです。これはわたしの口端から溢れたよだれの跡です。
 はい、終わりです。さようなら。
 大変だったけれど思い出いっぱいの、会社員生活。さようなら。

 「……ずいぶんと気持ち良さそうだったな」

 工藤副部長は自身の肩の惨状をちらりと見やり、それからわたしに視線を戻した。

 「君が熟睡していた一時間半、俺はずっと君の枕だった。聞かせてくれ。寝心地はどうだった。硬くはなかったか。できるだけ動かないようにしたつもりではあったがな。おかげでひどく首が凝った」
 「も、もも……申し訳ありませんっ!」

 わたしは勢いよく頭を下げた。後ろでひとつに結んだ髪がぽんと飛び上がる。

 「クリーニング代を……い、いえ、ぜぜ、ぜんぶ、弁償させていただきます! 本当に、本当に……申し訳ありませんっ!」
 「弁償? 君のために終点まで運ばれてしまった俺の拘束料も含めてか?」
 「……う……」
 「冗談だ。顔を上げろ」

 淡々とした声に促され、おずおずと顔を上げる。
 彼は呆れたようにため息をつき、立ち上がった。高い。百八十センチを超えると聞いてる。頭のてっぺんが天井に届きそうだ。

 「行くぞ。折り返し運転はもうない」

 彼はわたしを待つことなく、すたすたとホームへ歩き出した。鞄をひっつかみ、慌ててその後を追う。ヒールの音が深夜のホームに虚しく響く。
 
 改札を抜ける。駅前には街灯がぽつんぽつんと立っているだけで、コンビニの明かりすら遠い。十一月の夜風が冷や汗をかいた肌に突き刺さる。寒い。身も心も、寒い。
 小さな駅だから、駅前ロータリーなどというものもない。ただ、タクシーくらいは何台か止まっているだろうと思っていた。が、甘かった。

 「……居ないな」

 工藤副部長が忌々しげに呟く。
 タクシー乗り場には、わたしたちと同じように終電まで乗り過ごしてしまったであろうサラリーマンが何人か並んでいた。来る気配のないタクシーを待って並んでいる、ゾンビのような顔をした群れ。
 最後尾に並べば、一時間以上は待つことになるだろう。

 「ど、どうしましょう……」

 アプリでタクシーを呼ぶことはできるかもしれない。それでも、並んでいるみんなもそうしているだろう。待つことに変わりない。それに、わたしの自宅までここからタクシーを使えば万札が二枚くらい飛ぶと思われた。

 いや。
 いやいや。違うでしょ、美月。
 わたしのせいで終点まで動けなかった副部長の、ご自宅まで、だ。
 どこだっけ、それ。たしか……わたしの家より、さらに都心寄り、だったかな。
 震える手で財布の中身を確認する。給料日前で心許ない。涙が滲む。カード、使えればいいな……。

 と、副部長がため息まじりに声を出す。

 「佐倉」
 「は、はい!」
 「ついてこい」

 それだけいい置いて、わたしを待たずにくるりと踵を返した。慌ててついてゆく。って、どこへ?
 向かう先は、駅前の通りから一本外れた、薄暗い路地の方だ。

 「ふ、副部長……あの、こんなとこにたぶん、タクシーって、いない……かな……って」
 「タクシーじゃない。こんな寒空の下で探していられるか。とりあえず暖まれる店に行く」
 「え、お店……?」

 戸惑いながらも副部長の背中を追うしかない。
 彼は迷いのない足取りで進んでいく。まるで自分の家の近所を歩いているかのように。
 
 「あ、あの……副部長。この辺り、お詳しいんですか?」
 「……すこし、な」

 彼は歩みを緩めずに答えた。

 「新入社員の頃、研修でこの近くの物流センターに配属されたんだ。半年間、さっきの駅の裏にあるぼろアパートに住んでいた」
 「えっ」

 思わず足が止まりそうになる。
 あの、氷の工藤が? 最短コースで出世街道を走り抜けてきたエリート中のエリートである彼が、こんな都心から離れた場所で現場研修を受けていたなんて。いや、考えてみれば当たり前かもしれないけど、でも……ぼろアパート?

 「意外か?」
 「あ、いえ……その、いまの副部長からは想像がつかなくて」
 「俺にも青臭い時代はあったということだ。まいにち必死に働いて、泥のように疲れて終電で帰ってきては安酒を飲んで寝るだけの生活だったがな」

 ふ、と自嘲気味に笑う横顔が街灯に照らされる。どこか柔らかい、見たことがない表情。わたしの知らない、若き日の工藤副部長。
 意外な一面に胸の奥がわずかにさざめいた。が、それも束の間、重大な事実に気づいてわたしは声を上げた。

 「で、でも、いまからお店に入って始発まで飲んでたら……明日の仕事が」

 時計を見れば、もう深夜一時。
 始発で帰って、シャワーを浴びて着替えて出社したら、睡眠時間はゼロだ。
 今日やり残した資料作りがある。調べ物もしなきゃいけない。なにより今から有休申請などできない。つまり、休めないのだ。

 「あ、あの、わたし、やっぱりタクシーで帰ります! 少しでも寝ないと、明日の仕事、ミスをしてしまいそうで……」

 踵を返そうとしたわたしの腕を、彼の手が掴んだ。ぐい、と強く引き寄せられる。

 「その必要はない」
 「え?」
 「明日は休みにした」
 「……は?」

 思考が停止する。休みにした? 誰が、誰を?
 副部長は片手でわたしの腕を掴みながら、もう一方でポケットからスマートフォンを取り出し、器用に操作して画面をわたしに見せた。会社の勤怠管理システムだ。
 そこには『佐倉美月』と『工藤湊』の欄に、明日の日付で有給休暇の文字がしっかりと入力されていた。おまけに、すでに承認済となっている。

 「承認者は俺だ。さっき通しておいた。君が寝ている間にな」
 「え、えええっ! だ、駄目ですよ、公私混同は! それに、資料が……」
 「資料なら今日の残業で八割方終わっているだろう。残りは明後日からでも間に合う。俺も会議があったが、リスケした。ついでに言えば、有給休暇はズル休みではない。公私混同などという批判はあたらない」

 彼は涼しい顔でスマホをしまうと、わたしを見下ろした。口角を持ち上げる。

 「そもそも、寝不足でふらふらしている部下を出社させたとあっては、俺の管理能力が疑われる。そう思わないか?」
 「うっ……」
 「それに」

 彼は一歩、距離を詰めてきた。
 ふわり。白檀と柑橘を混ぜたような、大人びた香水の匂いが漂う。その匂いはわたしの身体にもついていた。そう、わたしがさっきまで枕にしていた匂いだ。

 「スーツの責任、取ってくれるんだろう?」

 責任、という言葉を、彼は楽しむように転がした。低い声が夜気に溶ける。どきり、と、胸がちいさく跳ねるのを感じた。

 「逃げ場はないぞ、佐倉。君の明日のスケジュールは俺が買い取った」

 有無を言わせない、けれど抗いがたい引力を持った瞳。上司命令という名の、強引な誘惑。答えられないまま、わたしは小さく頷くことしかできなかった。
 彼は満足そうに口角を上げると再び歩き出した。今度はわたしの歩幅に合わせるように、すこしだけゆっくりと。

 ◇
 
 そこからしばらく歩いて、小さな雑居ビルに辿りついた。地下一階、重厚な木の扉の前に立ち止まる。
 扉に取り付けられている小さな板に『Bar NOCTURNE』と刻み込まれている。隠れ家のような、だけどどこか味のある店構えだ。わたしに味なんて、わかるはずもないけど。

 「ここ、ですか?」
 「ああ。こっちに住んでいた頃、給料日だけ通っていた店だ。マスターが口の堅いひとでな。愚痴を聞いてもらっていた」

 彼は懐かしそうに目を細め、ゆっくりと重そうな扉を押し開けた。カラン、と控えめなドアベルの音が鳴る。
 中から流れ出してきたのは、紫煙の香りと静かなジャズの音色、そして暖房の効いた柔らかな空気だった。

 「いらっしゃいま……おや、工藤くん。驚いた」

 カウンターの中にいた白髪のバーテンダーが、目を丸くして迎えた。
 くん、付けで呼ばれる副部長なんて、わたしは初めて見る。会社でも社長くらいにしか許されないんじゃないかな。

 「ご無沙汰しています、マスター。今日はふたりです」
 「おやおや、十年ぶりに訪ねてくれたと思ったら女性連れか。あの工藤くんがねえ。明日は猛暑日だな」

 マスターの言葉に、副部長は少しバツが悪そうに咳払いをした。その肩越しに、マスターは表情を緩めて、いらっしゃい、と口の動きだけでわたしに挨拶をくれた。
 十年ぶり。つまり、彼がここに住んでいた頃以来ということか。
 過去の彼を知る場所に、いま、わたしが連れてこられている。その事実に胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。

 「奥のソファ席、いいですか? 連れが疲れているので」
 「もちろん。ゆっくりしていくといい」

 副部長が示したのは、店の奥、少し狭いところにくの字に並べて置いてあるふたつのソファだった。身体が沈み込むような革張りのひとり掛け用。そこにゆっくりと腰を落とし、背を預け、ほっと息をつく。
 明日の仕事の心配は強制的に消滅させられた。つまり、今夜はもう帰る理由も断る理由もないのだ。思わず、あああ、という声が出た。伸びをする。

 と、副部長も大きく息を吐いた。
 長く細い指を首元へかけ、 緩みの一切なかったネクタイの結び目を無造作に引き下げる。シャツの第一ボタンが外された。露わになった喉に薄暗い照明が影を作っている。わたしは思わず息を呑んで目を逸らし、ついでにその視線の先に壁のハンガーに掛けられたジャケットを見つけてしまった。肩のシミはまだ消えていない。
 いったん伸ばした両腕をゆっくりと引き縮め、わたしは肩をすぼめて神妙な表情をつくった。
 そんな様子を眺めていた副部長は眉を上げ、ふ、という音を出した。

 「なにを飲む? ここはカクテルも美味い」
 「あ、じゃあ……お任せで……」
 「わかった。すみませんマスター、バーボンをロックで。それと、彼女に甘すぎないフルーツカクテルを」

 手を上げて注文を終え、彼はソファに深く身を預けた。
 オフィスの蛍光灯の下で見る彼は、冷徹な上司、という記号そのものだ。それ以上の目で見たこともないし、その他にこのひとを表現する言葉はないと思っていた。
 けれど。この薄暗い照明の下で、その柔らかな横顔を見ていると。
 副部長、という呼びかけが、どこかひどく場違いなもののように思えたのだ。
 
 と、額に落ちた前髪をかき上げ、彼は気怠げな瞳でわたしを捉えた。視線が逃げ場を塞ぐように絡みつく。
 ちょっと前言、撤回。やっぱり怖い。副部長は副部長でした。

 「さて」

 彼は運ばれてきたグラスを受け取ると、狩人のような目をわたしに向けた。

 「時間はたっぷりある。ゆっくりと聞かせてもらおうか。責任を、どう取ってくれるのか」
 「は、はひ……」
 「だが、その前にまずは乾杯だな。俺の古い巣へ、ようこそ」

 そういってグラスを持ち上げる。
 わたしも慌てて綺麗な色のコリンズグラスを持ち上げ、ほんの小さくあわせてみた。ちん、という軽い音。
 
 その音が、わたしの平穏な日常の終わりを告げるものだったというのは、ずうっと後になってわかることだったのだ。

 ◇

 ぴぴぴ、と安っぽい電子音が鳴り響いている。
 カーテンの隙間から差し込む日差しが、容赦なくまぶたを照らす。

 「ん、んん……」

 重い頭を振って、わたしはゆっくりと目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは、黄ばんだ壁紙と、どこか暗い天井。
 身体が痛い。布団は薄くて固いし、枕は冷凍したみたいにゴツゴツしている。

 どこ、ここ。
 って、なんかわたし、こればっかりだな。
 ゆっくりと首を動かし、見回す。自分の部屋じゃない。今度は電車の中でもない。ええと、昨日の夜、わたしはたしか……。

 『責任を取ってもらう』

 脳内で再生される低音ボイスに、わたしはがばっと跳ね起きた。
 そうだ、終電で終点まで行ってしまって、なぜか工藤副部長とバーに行って、それから……それから?
 記憶が曖昧だ。カクテルのあとに飲んだホットウイスキーが美味しくて、緊張の糸が切れて、ふわふわといい気分になったところまでは覚えているけれど。

 「ここ、ビジネスホテル……?」

 見渡す限り、六畳ほどの狭い部屋だ。
 テレビ台とベッドだけで埋まる空間。ユニットバスのドアが半開きになっている。
 どう見ても、ドラマチックな展開が期待されるシティホテルのダブルルームではない。駅前の、一泊五千円くらいの格安ビジネスホテルだ。
 なんでわたし、こんなとこ泊まったんだろう。

 とりあえず顔を洗おうと、ベッドから足を下ろす。
 と、床にあるなにかをぐにゃりと踏んづける感触。

 「……?」

 毛布の塊。
 ベッドの脇のわずかなスペースに、毛布が丸めて置いてある。
 なんだこれ、と見ていると、もぞりとそれが動いた。

 「ひゃ」

 思わずのけぞる。と、毛布の端からなにかが覗いた。誰かの、頭? 見覚えのある髪色、髪型……わずかに寝崩れているけれど、かっちりと整髪料で固めたままの、それ。
 壁側を向いていた身体をこちらに向けたのだろう。窮屈そうに折り曲げられた長い脚がぽんと毛布の上に出る。
 え、これ、って。
 うそ。うそうそ。やめて。

 「……ぐ」

 うめき声を上げ、頭をがしがしと掻きながら工藤副部長は身体を起こした。
 うそじゃなかった。やめてくれなかった。なんで。どうして。
 
 「……なんだか、思いっきり背中を踏まれたような、気がしたが……」
 「ふ、ふふふふ副部長……! な、なんで、そんなところで寝てるんですか」
 「……なんで、だと?」

 彼は不機嫌そうに目を細め、首をこきこきと鳴らした。

 「見てわからないか。ベッドが君に占拠されていたからだ」
 「えっ、あ、はい、申し訳ありません……って、そうじゃなくて!」

 わたしは無意識に着ているものの乱れを確認して、布団を胸元まで引き上げた。周囲をきょろきょろと見回す。

 「なな、なんで、なんで副部長とおんなじ部屋に……っていうか、わたしたちなんでホテル、泊まってるんですか……ていうかていうか、ここ、シングルですよね? え、やだ、なんで、ちょっと待って」
 「うるさい。少し黙れ、頭に響く」

 彼はふらりと立ち上がると、デスクの上に置いてあったペットボトルの水を一気に煽った。喉仏が上下する。乱れたシャツの胸元から覗く鎖骨が妙に生々しい。
 彼は水を飲み干すと、わたしのほうを向いて、深いため息をついてみせた。

 「覚えていないのか? なにも」
 「え、えっと、その……副部長の馴染みのバーで、お酒を飲んで……」
 「そうだ。そして君はホットウイスキーが気に入ったといって、俺がやめとけというのも無視して四杯飲んだ。五杯目を注文しようとしたから実力で阻止したんだが、君は立ち上がって叫んだんだ」

 聞きたくない。すっごく、絶対、ききたくない。
 耳を塞ごうとしたが、その前に言葉が飛び込んできた。

 「副部長のばかやろー、こんな特別な夜くらい好きに飲ませろー、だいたい仕事できすぎなんだよー、もう大好きだこのやろー、だったか」
 「……はい?」
 「それだけ叫んで、ばたんとテーブルに突っ伏した」

 血の気が引く、という言葉がある。でも、足りない。どうせ引くならぜんぶ引き切って身体から抜けちゃえばいいのに。わたしは枯れ木になりたい。
 って、いうか。
 なんか最後に、どさくさに紛れてすごいこと言ってないか、わたし。

 「声をかけても揺り動かしても起きない。タクシーも捕まらない。仕方がないから俺が担いで、店からいちばん近くにあったこのホテルに飛び込んだんだ」
 「か、担い……で……?」
 「ああ。重かった」

 穴があったら入りたい。
 穴がなくても作ってみせましょう。
 存在してごめんなさい。ごめんなさい。
 
 「だが、あいにく満室でな。マスターに電話をして口をきいてもらって、無理やり予備のシングルを開けてもらったんだ。野宿よりはましだろう」
 「……は、はい」
 「さすがに泥酔した部下と同じベッドで寝る趣味はない。かといって、床で寝ている君を踏むのも寝覚めが悪い。結果、俺が床で寝ることになったわけだ。理解したか」

 さすが、副部長。完璧な論理。とてもわかりやすい。わたしのとっちらかった脳でもすぐに状況が把握できた。
 だから、把握すると同時にベッドからずるずると落ち、床に膝をついた。副部長と同じ目線でじっと目を見て、がばっと土下座する。

 「まことに、まことにもうしわけもございません」
 「武士か。いいから顔を上げろ。店に誘ったのは俺だし、ホットウイスキーを勧めたのも俺だ。君が一方的に謝るべきことじゃない。それに……」

 そこで言葉を区切って、横を向く。

 「俺は、楽しかった」
 「……え」
 「誰かと……いや、君と、あんな夜が過ごせるとは思っていなかった。あんなに笑ったのは久しぶりだよ」
 「……」
 「それとも、なにか」

 彼は壁の鏡に向かって、乱れた髪を手ぐしで整え始めた。鏡越しにいたずらめいた視線がわたしを捉える。

 「君としては、同じベッドで、そういうことになったほうが気が楽だったか?」
 「えっ、い、いえ! めめ、滅相もない!」
 「……ふ、冗談だ。意識のない女に手を出しても、面白くもなんともないからな」

 そう言って、彼はにやりと笑ってみせた。
 昨夜、バーでみせた狩人の目を思い出す。

 「ただ、寝顔は愛らしいと、素直に思った。これくらいは言っておこうか」

 どきり、と心臓が跳ねる。
 寝起きの掠れた声でそんなことを言われて反応しないわけがない。

 「さあ、起きろ佐倉。シャワーを浴びて目を覚ませ。俺は朝飯を調達してくる。身支度が済んだら携帯にメッセージを寄越せ。そうしたら部屋に戻る」

 彼はジャケットを手に取り、ぱんぱんと皺を伸ばした。ちらと窓の外に目をやり、口端を持ち上げる。

 「天気もいい。幸先がいいな。やっぱり君は、持っている。その運と図太さ、遺憾なく利用させてもらおう」
 「……え」
 「言っただろう。君の今日は、俺が買い取った。それにこれは、君といっしょじゃなければできないことだ」

 振り返り、朝日を背にして不敵に微笑む。逆光で表情が見えにくいけれど、瞳に宿る、獲物を逃さないと言わんばかりの光だけは見てとれた。
 わたし、と、一緒じゃないと……できない、こと?
 それって……。

 「だが、まずは服だ。そんなよれよれの格好で紹介するわけにはいかないからな」
 「……しょ、しょう、かい……?」

 わざとのように、しばらく言葉を止める副部長。
 藍色がかった瞳で、じっとわたしの目を見つめている。
 それでもやがて、眉をあげた。あげたのは右の手も同じ。それをわたしの頭のうえに運んで、ぽんぽんと叩く。

 「君には、俺の婚約者になってもらう。めんどくさい親戚たちがちょうどこのあたりに固まってるんだ。せっかく時間ができたし、適役が現れたこの機会に済ませてしまいたい」
 「……は」
 「いまは仕事が重要な時期だ。君も知ってるだろう。結婚だの見合いだの、している余裕はない。なに、君の顔さえ見せればみんな黙るだろう。ただし、みな名家ぞろいだ。振る舞いには気をつけてくれよ」

 そう言ってくるりと踵を返し、ううんと伸びをする。
 そのまま片手を上げて部屋を出ていった。

 たぶん、七分間。
 わたしが床にぺたりと座り込み、硬直していた時間。

 「ふ……ふわ、わあああああああ」

 やっと絞り出せた悲鳴は、たぶん蚊の鳴くような音量にしかならなかったと思う。


 <了>




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