月下櫻涙―帰る場所―
――仲睦まじい夫婦であるということ。

囲炉裏の火は、今日も静かに赤く揺れている。
ぱちり、と薪がはぜる音だけが、家の中に流れる時間を知らせていた。
私は針仕事の手を止め、その炎を見つめながら、胸の奥に溜まっていたものに、そっと触れる。

――長い歳月だった。

夫と二人、この家で生きてきた年月は、決して平坦ではなかった。
笑い合った日よりも、言葉を飲み込んだ夜のほうが多かったかもしれない。
それでも、私たちは共に生きてきた。

夫は、昔から変わらない人だ。
声を荒げることもなく、誰かを責めることもない。
人の話を聞くときには、必ず相手の目を見る。
それは、妻である私に対しても同じだった。

若い頃、暮らしが苦しかった頃、明日の米にも困るような日々の中でさえ、彼は私の前で不安や弱さを吐き出すことはなかった。
「大丈夫だ」と言って、いつも穏やかに笑う。
その笑顔を、私は何度も信じ、何度も支えにしてきた。

夫婦というものは、疑わないことが美徳なのではない。
疑う理由のない日々を、何事もなく積み重ねていくことこそが尊いのだと、私は思っている。
夫は、そういう日々を、長い年月をかけて私にくれた。

だからこそ――だからこそ私は、気づいてしまったのだと思う。

ある日、ほんの一瞬。
彼の視線が、確かに私の向こうを見ていた。
それは遠い過去でも、まだ来ぬ未来でもなく、「かつて確かに存在した何か」を静かに見つめる目だった。

問いただすほどのことではない。
責める理由など、どこにもない。
それでも、女というものは、そういう名もない違和感を見逃さない。

それは恋ではなく、執着でも後悔でもない。
もっと静かで、もっと始末の悪いものだ。
人生の途中で、一度だけ触れてしまった光。
それを手に入れなかったからこそ、一生胸の奥で消えずに残り続けるもの。

私は、夫の中にそれがあるのだと、分かってしまった。

けれど、それで夫婦が壊れるほど、私たちの年月は浅くない。
夫は、今日も家に帰ってくる。
疲れた顔で、土の匂いをまといながら、それでも必ず「ただいま」と言う。
私は「おかえり」と答える。

それは儀式ではない。
一日の終わりに、互いが互いの場所に戻ってきたことを確かめるための言葉だ。

食事をし、他愛のない話をする。
天気のこと、近所の噂、若い頃なら笑い飛ばしたような話題ばかり。
それでも、その時間が、私たちを確かに夫婦としてつなぎとめている。

夜、灯を落とす前、彼は何気なく私の肩に手を置く。
探すように、確かめるように触れてくるその手の温もりに、迷いも、ためらいも混じってはいない。
だから私は、「分かってしまったこと」を知らぬふりで包む。

女は、すべてを知る必要はない。
知ってもなお、選び続けることができれば、それでいいのだ。

私たちには、子がいなかった。
欲しくても、授からなかった。

何度、神仏に手を合わせただろう。
何度、朝の体の変化に小さな期待を抱き、そして裏切られただろう。

それでも私は、夫の前では泣かなかった。
夫もまた、私の前で弱音を吐くことはなかった。
ただ二人、黙って季節を越えてきた。

春になれば桜を見上げ、
夏になれば汗を拭い合い、
秋には収穫を分け合い、
冬には同じ布団で寒さを凌いだ。

それだけで、生きてきた。
――それだけで、十分だったはずなのに。

それでも、心のどこかに小さな空白があったことを、私は否定できない。
誰にも言えず、夫にも打ち明けられず、ただ胸の奥に沈めていた想い。

そんな私たちの家に、あの子がやって来た。

最初は、戸惑いしかなかった。
小さな背中、怯えた目、言葉少なな様子。

「この子を預かってほしい」

そう言われた時、私は思わず夫の顔を見た。
夫は何も言わなかった。
ただ一度、深く頷いただけだった。

それだけで、十分だった。

あの子は多くを語らない。
けれど、その沈黙の中に、たくさんの痛みを抱えていることは、すぐにわかった。
私たちもまた、痛みを知っている。
だからこそ、無理に聞くことはしなかった。

朝になれば、温かい飯を出し、
夜になれば、火を落とし、
同じ屋根の下で眠る。

それだけのことが、少しずつ、あの子の表情を変えていった。

気づけば、あの子は笑うようになった。
小さな声で、話すようになった。
そして、時折――私を「母」のような目で見ることがあった。

そのたびに、胸が締めつけられる。
嬉しくて、苦しくて、どうしようもなく愛おしい。

私は、この感情に名をつけていいのか、今でもわからない。
けれど、確かなことが一つある。

それまでの辛い出来事も、
叶わなかった願いも、
胸にしまい込んできた寂しさも、

あの子と、これから過ごす時間を思えば、
すべてが静かに、幸せへと姿を変えていく。

夫も、あの子を見る目が変わった。
言葉は少ないが、その背中が語っている。
この家は、帰る場所なのだと。
血ではなく、想いで結ばれた家なのだと。

私は囲炉裏の火に、そっと薪をくべる。
赤く揺れる炎が、三人の影を壁に映した。

――これでいい。

派手な喜びなどなくていい。
声高な幸福など、いらない。

ただ、この家に灯る温もりが、
あの子の心を包み、
夫の背を支え、
そして私の人生を肯定してくれるなら。

それだけで、私は幸せだ。
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