八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜



「これを受け取って、身を引けとおっしゃるんですか?」

「お金にお困りのようだから。弟さんの留学費もあの子に工面させて、本当に卑しい姉弟ね」

 李人まで馬鹿にされた気がして、膝の上で拳を握った。

「弟が帰国したら、少しずつ返金していきます」

「そうやって、いつまでもあの子につきまとうつもりね。でも、今日であなたの顔を見るのは最後よ」

 朝倉さまが小切手を指差した。

「これと交換に、祐二と別れなさい」

(どこまで馬鹿にするのよ。飛びつくわけないでしょう)

 私は辛酸を嘗めて、ここまで生きてきた。
 窮地に追い込まれてからの巻き返しなら、何度も経験してきたんだから。

 私はじっと小切手を見据えた。

「あの、本当にこんなに頂いても、よろしいのでしょうか?」

「……頭、悪いのね。これで手を引きなさいって言っているでしょう」

 朝倉さまがイライラしたように足を組み替えた。
 私は淡々と続けた。

「私が手切れ金をもらって祐二さんにお別れをお伝えしても、状況は変わらないと思いますよ」

「どういうこと?」

 私はゆっくりと口角を上げる。

「だって、祐二さんは私に夢中ですから」

 満面の笑顔を浮かべた。

 朝倉さまは「はあ?」と、拍子抜けしたような声を漏らす。

(事実だもの。私は嘘なんてついてない)

「私が別れたいと言っても、祐二さんが離れてくれないでしょうね」

 私は眉を下げ、わざとらしく首を振った。

 あの年まで私のために童貞を死守した漢ですよ。
 離れるわけがない。

「く、黒川! あなた、祐二を説得したのではないの?」

「実は奥さまっ、失敗に終わりまして……」

 黒川さんが申し訳なさそうに深く頭を下げた。
 怒りが高まった朝倉さまが、いきなり立ち上がった。

「それでは、ここで交渉する意味がないじゃないの! なにをやっているのよっ」

 黒川さんは頭を上げない。
 少しだけ可哀想になった。

「あの……一応、祐二さんに打診してみるので、この手切れ金はいただいてもよろしいでしょうか?」

 私はそっと小切手に手を伸ばした。

 すると黒川さんが、カルタ取り選手のような速さでそれを奪取した。

 私の手が宙に取り残される。
 瞬きをしながら、小切手の消えたテーブルを見つめた。

 三人しかいない部屋の空気が、ぴたりと止まる。

「──牧野瞳子。いい度胸をしているわね」

 朝倉さまが足を崩し、ゆっくりと立ち上がる。
 私は彼女を見上げた。
 彼女の額に、うっすらと青筋が立っているのが見えた。そして、会心の笑顔を見せてくる。

「なら、最後にいいことをあなたに教えてあげるわ」
「なんでしょう」

 私は眉を寄せて、彼女を見据える。
 朝倉さまは腕を組み、黒川さんを振り返った。

「黒川。この方は祐二のいくつ年上なの?」

「七つでございます」

「七つ! そんなに年上なのね!」

 黒川さんと小芝居をして、私と朝倉くんの年齢差を強調してきた。

(改めて指摘されると……心が痛い!)

 思わず目を細めてしまった。

「祐二は年上女を選んで、私の代わりにしようとしているのね」

「え?」

「主人が亡くなって、私が代わりに懸命に働いたわ。熱を出して寂しがるあの子の手を振り解いてまで。だから、あの子は不安になるといつも私にこう言うのよ」

 私は指を握り込み、次の言葉に息を飲んだ。

「『行かないで、そばにいて』ってね」

「あっ──……」

 ミラーハウスでの彼の言葉がよぎる。

──行かないで!

 私の中で、すべてが腑に落ちた。

 朝倉くんは、目の前から私が消えたことで、幼少期の体験から不安になった。
 フラッシュバックだったんだ。

 寂しいときに、母親が消えてしまったように。

「あの子は母親の代わりを探しているだけ。それを愛と勘違いしてはダメよ」

「違います。祐二さんと私は愛し合って……」

 なぜだろう。言葉が続かなかった。
 この母親の言葉が、深く心に突き刺さってくる。

 身に覚えがないわけじゃない。

 勤務中も、彼はいつも私のそばから離れようとしなかった。
 いつも私の後を追ってきた。

(それは──母親の安心感を求めていたから?)

 私の心が黒い水を吸い出し、一気に重くなる。

「あなたから母親業を取り上げたら、何も残らない。中身は空っぽ。いつかあなたは、あの子に飽きられるわ」

 朝倉さまが、私を上から覗き込む。
 その目には、憐れみが浮かんでいた。

 そんなことはないと反論したいのに、身体が動かない。
 だって、見抜かれてしまったと思ったから。

 そうだ。
 私は朝倉くんのような能力もない。
 何か特別なものを持っているわけでもない、中身のない人間だ。

 それが怖くて、認めたくなかった。

 反撃する力が、削がれていく。
 顔を上げることもできず、ただ項垂れるしかなかった。

 朝倉さまがコツコツとピンヒールを鳴らして、私の真横に立った。

「傷つく前に、あなたから離れなさい」

 私の肩を二回たたく。
 そして、身体を翻した。

「黒川、帰るわよ」

 ピンヒールの音が廊下に響いていた。
『勝者は私』と宣言されたようで、耳を塞ぎたくなった。

 私はそっと、目を伏せた。




「牧野くんっ。大丈夫だったかね!」

 高松支店長が、すごい音を立てて扉を開いた。
 その音で、私は我に返った。

「は、はい。でも……交渉が……」

 私は口ごもってしまった。
 しかし、支店長は笑顔だった。

「しばらくは牧野くんの担当で様子を見るとのことだ。頑張りたまえよ!」

「そ、そうなんですか?」

 たぶん、それは駆け引きの材料なのだろう。

 私が別れを選ばなければ、責任を私に押しつけ、担当を降ろさせる。
 そして、私の評価を一気に下げる。

 姑息なやり方だ。

 だが、経営者として自分の持つカードを最大限に利用する、優秀なやり手なのだろう。

 しかし、美麗さんは甘い。

 私と朝倉くんが結婚すれば、美麗さんは親族になる。
 社内規定により、親族の担当はできないため、自動的に外されるだけだ。

 美麗さんは脅威ではない。

 けれど、聞き捨てならない言葉が、胸に重く残ってしまった。

「牧野くん、朝倉さまの忘れ物だ。ご連絡しておいてくださいね」

「はい」

 手渡されたのは、四つ折りにされた一枚の印刷紙だった。

 そこには『薬剤情報提供書』と印字されていた。

 これは、薬局で発行される、医師から処方された薬剤についての説明書だ。

 氏名は──朝倉美麗。

 私が気になったのは、そちらではなかった。

 用紙の端に手書きで書かれていた、黒川さんの連絡先のほうだった。






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