八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜



地下駐車場から上階へと繋がる階段を上がっていった。
一階の居室へ続く扉は、テンキーロック式の電子錠だった。朝倉くんが暗証番号を入力すると、電子音がして扉が開く。

彼が扉を押さえてくれて、私は先に朝倉邸へ足を踏み入れた。
目に飛び込んできたのは、光沢感のある大理石の廊下だった。

(自宅の床が大理石?)

一歩を踏み出すと、コツコツとハイヒールの音が響く。その後ろから、朝倉くんの上質な革靴の足音が続いた。

(ここは、本物だ。美麗さんの言う通り、私は場違いかもしれない)

まるで伏魔殿に迷い込んだような錯覚を覚える。
廊下の先には仕切りのない吹き抜けの大広間が広がっていた。大きな窓から光が差し込み、広々とした空間をさらに際立たせている。

「……すごい」

圧倒された私の口から出たのは、その言葉だけだった。

「祐二さま、牧野さま。ようこそいらっしゃいました」

白髪の燕尾服の男性が穏やかな声で迎えてくれた。
執事の黒川さんだ。

「お車での移動でお疲れでしょう。お茶をお入れしますので、どうぞおかけください」

「兄と母はどちらにいるんですか?」

朝倉くんは周囲を見回した。
五年ぶりの実家なのに、懐かしむ様子はない。

「貴浩さまは、すぐにいらっしゃいます。お待ちください」

黒川さんはそう言って頭を軽く下げた。

「長居する気はない。結婚の報告を済ませたら、すぐに出る」

朝倉くんは不愛想にそう言うと、私の腰に手を添えてソファへ誘導してくれた。
ひび割れひとつない、手入れの行き届いた本革に腰を沈める。なめらかな感触に、思わず背筋が伸びた。

「失礼します」

お盆にティーセットを乗せて、中年の女性が入ってきた。
不快を感じさせない薄化粧。前髪や後れ毛まで綺麗にシニオンネットでまとめられている。

「どうぞ」

声だけをかけると、女性はすぐに退室した。
そつのない対応。
仕事のできる家政婦なのだとわかる。

(でも、なんだろう。冷たい感じがする)

「瞳子さん、いただきましょう」
「……ええ」

朝倉くんに促されてティーカップを手に取った。
開口部の大きなカップには、金の縁取りが施されている。骨董の知識が皆無な私でも、高級なものだとわかった。
慣れ親しんでいる朝倉くんは、気に留めることなく紅茶を飲んでいる。

(朝倉くんには、これが当たり前……)

朝倉くんは、生まれた時からこれが当然の生活だった。
これを維持するために、美麗さんはどれほどのものを背負ってきたのだろう。
そう考えると、なんだか切なくなった。

そのとき、奥の扉がゆっくりと開いた。
そこから若い男性が、優しい笑顔を浮かべて入ってくる。

「祐二っ、久しぶりだな!」

目尻を下げ、嬉しそうに朝倉くんのもとへ歩み寄る。

「兄さんっ!」

朝倉くんの硬かった表情が、一気に緩んだ。
彼も立ち上がり、兄のもとへ急いだ。

「祐二、五年ぶりだな! 顔も身体も立派な大人になった」

「はい。ありがとうございますっ」

あの朝倉くんが、照れたように答えている。
兄弟の良好な関係が伝わってきて、見ている私まで微笑ましくなった。

「そちらが婚約者の牧野瞳子さんだね」

「そうです。紹介しますね」

私は急いで立ち上がった。緊張で、お腹の前で手を組んでしまう。

「初めまして。牧野瞳子です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

やや早口になった私を気遣うように、朝倉くんが優しく声をかけてくれる。

「兄は優しい人間です。そんなに緊張しないでください」
「ええ」

貴浩さんが穏やかな眼差しで私に笑いかけた。

「瞳子さん、とお呼びしてもいいですか?」
「もちろんです」

貴浩さんの声や身のこなしから、温和な人柄が伝わってくる。
顔立ちは母親である美麗さんにそっくりだった。猫っ毛の頭髪をふんわりと整え、白のハイネックにチャコールのテーラードジャケットを合わせている。
その姿は、上級紳士という言葉がよく似合っていた。

貴浩さんもソファに座り、私たちと一緒にお茶をいただくことになった。

「母は支度に少しばかり時間が必要そうだ。その間に、祐二に相談したいことがあるんだ」

紅茶を一口飲んで、貴浩さんは切り出した。

「ああ……では、場所を移しましょう」

「いや、瞳子さんにも話を聞いてもらいたいんだ。祐二と結婚するなら、今後のことは瞳子さんにも共有したほうがいい」

朝倉くんが心配そうな目で私を見る。
きっと、朝倉家の問題に私を巻き込みたくないのだろう。

しかし、私は覚悟を決めてきた。
この問題は、私も一緒に背負うつもりだ。

「大丈夫よ。私はあなたの妻ですから」

困惑する彼に、私は余裕の笑みを返した。

「さすが、この朝倉家と結婚を決めた女性だ。肝が据わっています」

貴浩さんが感嘆の声を漏らす。

「兄さんっ、やめてください。僕は瞳子さんを無駄に関わらせたくはないんですっ」

「祐二……申し訳ない。私が不甲斐ないばっかりに……」

そう言って、貴浩さんは手元に視線を落とした。

「兄さんの体調はいかがなんですか? 胃潰瘍で入院したと黒川に聞きました」

「ああ。先週、退院したが、医師からストレスは減らせと注意を受けたよ」

「ストレスは、母ですね?」

「まぁ、そうだ。私と母上の経営方針は相容れない。私は名ばかりの社長で、実際に鳳凰グループの決定権を握っているのは母上だ」

貴浩さんは苦しそうに息を吐いた。

「私が経営改革をしようものなら、罵倒され、否定される。何度も抗おうとしたが……気がついたら、自分の胃がボロボロになっていたよ」

その声には、どうしようもない悔しさが滲んでいた。

「鳳凰グループの社長は兄さんです! もっと強気にいくべきですっ」

朝倉くんが語気を強める。

「そう思ってやってきた。だが、母は事業を私に譲り渡す前に株式会社を設立し、株主も役員も母と旧知の仲間で固めた。私の方針が気に入らなければ、総会で退任騒ぎを起こす。結局、母の意向を通さざるを得ない。私も、さすがに疲れてしまったよ」

貴浩さんの顔に影が落ちた。

「なぜ母は表舞台に出てこないのですか?」

「母はいまだに父の過ちを許してはいない。ホテル業そのものに強い関心があるわけでもない」

「では、なぜ……」

「お爺様が蒐集した骨董品が心配なのだよ」

貴浩さんは静かに続けた。

「五つ星の鳳凰ホテルの格式を保つために、母の私財である一流の骨董品が使われている。大事な宝が人質となって、簡単には手を引けないのだろう」

その説明で、朝倉家の事情が少し見えてきた。
美麗さんは、浮気をして亡くなった夫を恨んでいる。
それでも自分と父親の宝が絡むホテル業を、おざなりにはできなかった。
ようやく家業を貴浩さんに譲ったものの、経営に口を出し続け、その結果、貴浩さんは心身ともに追い詰められてしまったのだ。

あの気の強い美麗さんに、穏やかな貴浩さん。
この組み合わせなら、こうなってしまうのも無理はないように思えた。

朝倉くんは、ただ黙って聞いていた。

「この仕事は、私には不向きのようだ。妻とも話し合い、家業から離れようと考えている」

貴浩さんの発言に、朝倉くんが顔を上げた。

「ではっ、鳳凰グループはどうなるのですか? 母が再任することを了承したのですか?」

貴浩さんは、諦めたように首を振った。

「その気はないそうだ。浮気夫の事業など、二度と関わらないと」

「では……っ」

さすがの朝倉くんも、言葉に詰まった。

貴浩さんが、まっすぐ弟を見つめる。

「祐二に託したいと考えている」

朝倉くんと私は、その提案に衝撃を受けた。

黒川さんは微動だにしない。
彼は貴浩さんの思いを知っていたのだろう。

「無理ですっ、僕にはっ」

朝倉くんが動揺し、短く答える。

「私より祐二のほうが、経営者に向いている。大学の学費を自ら稼いで自立し、海外にも足を運んで人脈を広げた。その行動力と度胸、賢さは私を上回っているよ」

朝倉くんには商才がある。
それは私も認めている。

「私は社長の座を降りる。祐二、鳳凰グループを引き継いでくれないだろうか」

貴浩さんが背を正し、改まって頭を下げた。

突然の家督譲渡の提案だった。

追い詰められても華麗に切り抜ける話術を持つ朝倉くんでさえ、口ごもってしまう。

「……無理ですよ。僕には……」

社長の座を譲る。
こんな深刻な打診を受けるとは、想像もしていなかったのだろう。

朝倉くんの表情が、来たときとは比べものにならないほど深刻なものになっていた。

そのとき、貴浩さんのスマホの着信音が鳴った。

「すまない」

貴浩さんは席を外し、しばらくして戻ってきた。

「祐二、瞳子さん、すみません。妻から連絡で、子供が発熱してしまったようです。一旦、家に帰ることにします」

「帰るって、兄さんもこの家を出たのですか?」

朝倉くんが驚いて身体を揺らす。
貴浩さんは嘆息し、ゆっくりと口を開いた。

「ああ……妻に同居の限界がきてね。妻と私の健康を守るために、この家を出ることにしたよ」

その視線は下がっていた。
かなり悩んだ末の決断なのだと思われた。

「致し方ありません。この家から人が離れていくのは、母上の自業自得ですから」

朝倉くんも、貴浩さんに同情していた。

私は天井の高い、広いリビングを見回した。
少し慣れたせいか、家の印象が変わってきた。
広々とした空間は寒々としている。
少しの乱れも許さない潔癖さが、家全体から感じられた。
そして私は、窮屈さを感じ始めていた。

(この家から、人のぬくもりを感じない。美麗さんは、本当にそれでいいのだろうか)

胸が苦しくなった。

貴浩さんは続ける。

「こんなに重い話をすることになって、本当に申し訳ない。しかし、前向きに検討してほしい」

貴浩さんが神妙な面持ちでそう言った。
朝倉くんの膝の上に置かれた拳が、強く握られたままだった。
それに気がついた貴浩さんが、空気を変えるように手を叩いた。

「この件とは切り離して、祐二と瞳子さんの結婚は祝福しているよ。改めて私の家族を紹介させてほしい」

「ええ、喜んで」

「では、また連絡する」

「わかりました……」

戸惑う朝倉くんは、その場に立ち上がり、貴浩さんを見ていた。

「お先に失礼します。瞳子さん、またお会いしましょう」

「はい……」

私も起立して、貴浩さんに会釈をした。
貴浩さんは、またあの優しい眼差しに戻っていた。
美麗さんの心も穏やかになれば、貴浩さんのような柔らかな印象になるのかもしれない。
息子たちに厳しい態度で接する美麗さんのことを思うと、やはり少し切なくなる。

朝倉くんは、貴浩さんの後ろ姿を無言で追っていた。
もっと話したいことがあったのかもしれない。
けれど、どうしようもない事情であることを、彼自身も理解しているように見えた。

やがて朝倉くんが私に振り向いた。

「瞳子さん、気分を害してすみませんでした」

「ううん。結婚するなら、朝倉くんの身に起こることは知っておきたいから」

「瞳子さん……極力、迷惑を掛けないようにしますので」

朝倉くんの切ない瞳を見ていられなかった。

今の生活を継続する。

彼が思い描いていた未来。
それが崩れるかもしれない。

簡単に答えを出せる問題ではない。

美麗さんも交えて議論しなければならない重大な件なのに……。







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