八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜



「よかった……」

僕は満面の笑みで顔を上げた。
だけど、黒川ではなかった。

「酸素、吸いますか?」

いきなり酸素ボンベを差し出された。

どうやら高山病を心配してくれたらしい。
僕は即座に首を振った。

「人を待っているんです。お気遣いありがとうございます」

僕は丁寧に返した。

その人は「なら、よかった」と言ってボンベを下げた。

その時、顔がぼんやりと見えた。

肌は白く、色素が薄い感じの人だった。
化粧をしている感じはないけど、綺麗な顔をしている。
ラフなポニーテールに登山服姿なのに、妙に美しく見えた。

(お、お姉さんだっ)

多分、年上の女性だ。

男子校だった僕にとって、年の近い女性に触れ合う機会は滅多になかった。
学校では、安心感のある中年女性ばかりだったから。

僕には、少し年上の女性に対して免疫がゼロだった。
急に恥ずかしくなって、俯いてしまった。

「もうすぐ山頂よ。頑張ってね」

彼女はそう言い残して、僕に向いていた足先を山頂へと向けた。

(話しかけられたっ。ドキドキしちゃったよ!)

恥ずかしさと時間への焦りで、僕は身体を揺らしてソワソワし始めた。

やはり、黒川が来る気配は全くない。
あの顔色では、もう無理かもしれない。

(黒川のところに戻ろう)

そう決断した時だった。

「ねえ、今ならご来光に間に合うわよ」

そう僕に声をかけたのは、先ほど酸素を渡そうとしてくれたあの女性だった。

どうやら、僕のところまで引き返してきたらしい。

「人を待っていたら、せっかくのご来光を見逃してしまう。一緒に行こう」

そう言って、戸惑う僕に手を差し伸べてきた。

僕は一気に身体が熱くなって、言われるがまま立ち上がり、腕を引かれてしまった。

(ひゃっ~、どうしよう。
女性に触られている。
ドキドキしちゃうよぉ)

低酸素のせいなのか、女性への照れのせいなのか。
理由のわからない動悸がひどかった。

だけど、目視でも山頂にあと少しで着くのがわかった。

(このまま二人で行くのかな)

僕は、なぜかとても楽しくなってきていた。

「急に話しかけてごめんね。君、いくつ?」

「十五です」

「やっぱり……。私、十四歳の弟がいるの。きっと同じくらいだろうなと思って、声をかけちゃった」

「ど、どうしてですか?」

「私、面倒を見てしまう性分なのよ。許してね」

色白の彼女は顔だけ僕に振り返り、眉を下げて笑ってくれた。

(うわぁ、綺麗な人……)

僕は足元など見ずに、彼女の後ろ姿だけをじっと見つめて歩いた。

「あの……弟さんは一緒ではないのですか?」

「もう先に行ってるの。引きこもりだった子なのよ。それなのに、今じゃ私を置いてけぼりにするんだから。成長したのよね」

女性は息を切らしながらも、スピードを落とさず進んでいく。

「君はなぜ富士登山を?」

女性に富士登山の理由を聞かれ、僕は正直に答えてしまった。
黒川は叔父ということにして。

「部屋から出ない僕を……叔父が心配して、登山に誘ってくれました」

すると、その女性が足を止め、上半身ごと僕に振り返った。

「それなら、あなたもご来光を見たら人生が変わるわよ」

「そんなにですか?」

「言葉では言い表せないエネルギーを感じるの。体験してみて」

「はい……」

「ほらっ、もう山頂よっ」

女性が、さらに息を切らしながら教えてくれた。

山頂の面積は想像より狭く、人でごった返していた。

その中から男の子が小走りで僕らのほうへやって来た。

「姉さん! 早く、ご来光の時間だよっ!」

「李人(・・)!」

彼女が手を挙げる。
そして、僕に振り返った。

「あれが私の弟なの」

その子は僕に似ていた。

坊ちゃんヘアで細身で、とても穏やかな表情をした少年だった。

「そちらは誰?」

李人くんが不思議そうに僕を見てきた。

「途中で人を待ってたの。ご来光に間に合わないよって、一緒に登って来たのよ。初めての富士登山なんだって」

「うわー、そうなの。じゃあ、こっちに来てよ!」

今度は李人くんに腕を掴まれてしまった。

案内されたのは、人だかりから少し離れた場所だった。

「ここは人が少ないから、ご来光をゆっくり見ることができるよ」

「で、でも僕が前に出たら、みなさんが見えなくなってしまいます」

僕がそう遠慮すると、女性が柔らかく笑った。

「今日はあなたの番よ」

そう言って、僕の背中を優しく押してくれたんだ。

僕は目の前に広がる壮大な雲海を見た瞬間、心を鷲づかみにされた。

まるで海のように雲が眼下一面に広がり、下界を覆いつくしていた。

そして、雲の地平線からオレンジと黄色の光線が差し込んできた。

(こんな景色、初めて見る……)

すでに僕は、瞬きもできなくなっていた。

徐々に雲から光線が漏れ出す。

そこから一気に、周囲が光に包まれた。

雲海も、僕たちも、強烈なオレンジ色に染まってゆく。

同時に、今まで感じたことのない温かさを感じた。

清い空気が身体を駆け抜けると、細胞が一気に活性化して弾けそうになる。

ドクンドクンと、力強い血潮のざわめきが聞こえてくる。

視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚。

すべての感覚器が未知のエネルギーに驚き、騒ぎはじめる。

僕は、その光がもつ神秘の景色に圧倒されてしまった。

僕の深部が熱くなってゆく。

今までに感じたことがないほどに。

胸の奥が大きく揺さぶられる。

苦しいくらいに。

涙が無自覚に流れ、我慢できずに嗚咽が始まった。

外気は冷たいのに、身体の芯から発熱してくる。

その熱が、凍てついた僕の心の氷を溶かしてゆく。

自分の手のひらを広げて見た。

無意識に握りしめていた手のひらに、血が循環して赤く色づいていた。

僕は生きている。

生きているんだ。

それは、僕が初めて「生きている」という実感を味わえた瞬間だった。






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