八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜
「コーヒー淹れるね」
「うん。僕はアメリカンで」
「了解」
私がキッチンでコーヒーを入れてダイニングに戻ると、李人はすでにタルトを食べ終えてTVを見ていた。
「姉さん。今、骨董品の価格が爆上がりしているんだって。この壺が三百万だってよ。ホームセンターでも売ってそうなのに」
「骨董品は人によって価値が違うからね。欲しいと思えば高値で買うし、いらないとなれば安値で売る。正規の価格なんて、あってないようなものよ」
「ふーん。でも価値あるものなら自分の目で見てみたい気持ちはわかるな。僕もセントポール大聖堂をこの目で見てみたいもん」
李人はコーヒーには口をつけないで、空想の中で建築物を眺めていた。夢中になると目の前のものが見えなくなる。こういうところも可愛いのだけどね。
「姉さん。実際に見てきていいかな?」
突拍子もない提案をされて、口をつけたカップが揺れてこぼれそうになった。
「卒業旅行ってこと?」
「そうではなくて……」
李人が膝に手を揃えてモジモジしだした。
「もしかして、お金はいくらあるかって訊ねたのは、旅行に行きたいから?」
「いや……そうじゃなくて」
李人はなんとも歯切れが悪かった。じりじりした私は訊ねる。
「はっきり伝えなさい」
「……わかった。実は僕、イギリスに留学したい!」
「りゅ、留学?」
想定外の申し出に、飲み込んだ苺タルトが逆流してきそうだった。
「イギリスの歴史的建造物を実際に見て、建築の学びを深めたいんだ」
李人は急に表情を引き締めてきた。どうも本気らしい。
「留学は単身よ? 李人には早いわ!」
李人はまだ手のかかる子。一人で海外の生活なんて無理に決まっている。
そんな私の心が顔に浮かんでいたのだろう。李人は真剣な表情で訴える。
「バイトでまかない飯も作っているし、仲間づくりだってできているよ! 姉さんが心配するほど、僕は子供じゃないよ!」
まさかの事実に、私は衝撃で口を開けたまま、返すことができなかった。
バイト先では食事を作っていたなんて。
「生意気なことを言ってごめん。僕、姉さんにたくさん助けられているのに」
私は李人が安心する言葉を掛けたいのに、出てこない。そんなことないと首を振ることしかできなかった。
「姉さん、僕が引きこもりになった時から毎年、富士山登山に連れ出してくれたよね」
「あ……そうだったわね」
思い出す、あの頃の記憶。
私は母親代理を宣言して、必死にこの子を助けようとしていた。
しかし、大学生の私は、引きこもる小5の弟に手をこまねいた。
ある日、自宅マンションのベランダで一人佇んでいた時、遠くに見える富士山が目に留まった。
理由はなかった。
だけど、あの山を登頂できたら何かが変わる気がした。
そして、後ろ向きな李人を励ましながら、富士山登山に挑戦したんだ。
初登頂できた時、山頂から見下ろした景色を、私たちは忘れることができなかった。
「姉さん、僕、来年もここに来る!」
エクボを浮かべて、泣き笑いをしていた李人を見た時、挑戦して本当によかったって、私も泣いたんだ。
そこから毎年、李人が二十歳になるまで、姉弟で登山に挑戦してきた。
「僕、初めて登頂できた時の感動、ずっと覚えているよ。あの日から生きているって感じるようになったんだ。今、学びたいって気持ちがあるのも幸せだし、それに向かって努力している自分にもびっくりなんだ」
多分、思い付きではなく、この子なりにずっと考えてきたのだろう。
「李人はあの日を境に変われた。今もその気持ちを大事にしているのね」
「うん。全部、姉さんのおかげだよ。感謝しています」
真剣に訴える李人の顔は、いつも見ているあどけなさが消えている。
いつからこんな大人びた顔ができるようになったのだろう。
私はいつだって李人の隣で世話をしてきたはずなのに、私の知らない李人が目の前にいた。
鼻の奥がきゅんと痛んだ。目の視界が揺れた。
李人が私から離れて、知らない世界に旅立とうとしている。
この子はもう親離れをしたがっている。
いつかは訪れると覚悟はしていたことなのに……。
私は痛む鼻を軽くすすって微笑んだ。
「李人が就職を選択しなかったのも、そのせい?」
「うん。バイトをしてお金を貯めているけど足りないんだ。どうしてもそこは姉さんの力を借りないと実現できなくて……」
李人のこの気持ちも大切にしてあげたい。
そうすべきなのに、できない。
私はこの子を手放すのが不安で仕方がなかった。
そして、リアルな金銭事情が頭を掠る。
教育ローンも返し終えてないのに、留学費をどう工面する?
そうよ。資金の問題もあるわ。簡単に留学を認めることは難しい。
「やっぱり無理かな?」
眉を下げて悲しそうな顔をする李人を見ると、胸が痛んだ。
両親だったら必死に働いて工面するはずだ。私だって、この子のためならそうする。
だけど……
「具体的な計画を教えて。現実問題、資金の問題もあるからね」
「うん、わかった! 明日、大学に行って情報をもらってくるよ」
「そうね。具体的なことは詳細を調べてからね」
「ありがとう、姉さん。今度、鳳凰ホテルのガレットデロワを食べに行こう。バイト代で奢るから!」
李人の頬にエクボが浮かんだ。
嬉しいはずなのに、なぜか今はそれが苦しく感じてしまう。
私は李人の留学に、賛成しているのか否か、どっちとも取れる返事しかできなかった。


