八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜
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その週末。
「もうこんな時間だ。バイトに行ってくるね!」
李人がコートに腕を通しながら早口に言った。
牧野李人、二十二歳。
私の弟。
あと二ヶ月で大学を卒業するが、困ったことに就職先が決まっていない。
本人は焦る様子もなく、呑気にバイトに精を出している。
「李人! 待って」
ダイニングで経済新聞片手にコーヒーを飲んでいた私は、急いで両手を空けて玄関にいる李人に駆け寄った。
「バイトより今は就職活動を優先しなさい! このままだと四月からニートよ。何のために大学で建築を勉強してきたのかわからなくなるじゃない」
李人は一瞬、気まずい顔をしてから、口をゆっくりと開いた。
「わかってるけど……。今、説教されても」
「李人は就職する気があるように見えないから、姉さんだって不安になるのよ!」
ドアノブに手をかけていた李人だったけど、動きを止めて俯いた。そして、ゆっくりと振り返った。
「あのさ……姉さん。今、貯金はどれくらいある?」
なんとも不安なことを聞いている。私の貯金、つまりそれは我が家の財産ということだ。
「……就職するのに、なぜ家の財産を気にするのよ⁈」
「うちは両親いないし……姉さんばかりに負担をかけられないもんね」
両親がいない。それを言われて、私は一瞬、息を飲んだ。
我が家は、私と李人の二人暮らし。
両親は11年前に交通事故で亡くなった。
私が大学1年生、弟が小学五年生の時だった。
八歳下の李人は両親から甘やかされて育った。
ある日、突然やってきた両親の不幸──。
お葬式を終えた李人は、明らかに活気がなくなり、不登校になった。
いつも自分の部屋から、遠くに見える富士山を眺めている虚ろな目──。
おっとりして、でも素直で真っすぐな李人が家に閉じこもる姿を見るのは辛かった。
だから私は、この小さな弟を自分の力で育てようと決めたんだ。
李人の部屋に入ると、彼がゆっくりと振り返った。
私は李人の頭を優しく撫でた。
「李人。今日から、私がお母さんの代わりになる」
「え?」
李人にできた目の下のクマが虚しかった。胸が苦しかった。
「李人に淋しい思いはさせない。だから、安心しなさい」
「お姉ちゃん……」
李人の下瞼に涙が溜まる。
「私たちの中に、お父さんもお母さんも生きている。だから、二人が笑えるように、一日一回は笑おうよ」
「うっ……うんっ」
つぶらな瞳から大粒の涙が流れ落ちる。そして、小さな李人を胸の中に抱きしめた。
あの日から、私は李人の母親として生きてきたんだ。
だから、お金の心配をされるなんて情けなかった。
私は不穏な空気を出さないように自然に笑いながら、李人の額にデコピンした。
「心配するなんて失礼ね! 私がきちんと稼いでいます」
「……今年の冬のボーナス、少ないって言ってた」
冬の賞与の明細を目にした時の苦い気持ちが甦った。
李人の学費の一部を私は銀行から借りていて、現在も返済中だ。だから、冬の賞与の減額は痛かった。
あの時、何気なくつぶやいた一言を、李人は気にしていたんだ。
「今までが貰いすぎていたのよ。毎月、あなたを養えるくらい充分な月給をいただいているから大丈夫よ」
「へへっ。そうだよね。姉さんは天下の一菱証券の金融ウーマンだもんね!」
「そうよ。だから何かあれば相談して。姉さんがきちんと対応するから」
「……うん。わかった。今日の晩御飯は何?」
「肉じゃがだけど?」
「うわー。姉さんの肉じゃが大好き! 夕飯の時にまた、話するね。行ってきます!」
玄関扉を開くと、振り向きざまに手を振って出ていった。
「李人っ」
思わず手を伸ばして引き留めそうになる。でも、ギリギリで手を止めた。
笑った李人の右頬には、エクボが浮かんでいた。
それは、彼が心から笑えている証拠。
それを見ることができて、私は安堵してしまった。
(私ったら、李人はもう子供じゃないのにね……)
夕飯の時に話す──。
(何を?)
李人が抱える相談事にまた振り回されるのではと、心が重くもなる。
とにかく私は一家の大黒柱として、がむしゃらに働かねばならない。
20:43。
李人がバイトから帰ってくる時間。
私はクツクツ煮えるじゃがいもと豚肉を見つめていた。そろそろ最後の味付けをしようと考えながら、竹串でじゃがいもの火の通りを確かめた。
李人が美味しい物でお腹を満たせるよう、食事だけは手を抜かなかった。
だけど、李人は学生を卒業する。そろそろ自立に向けて、料理も教えていかなければならない。
マイペースな子だから、自分の力で生きていけるまで、私の世話は必要そうだ。
(私の役割はまだまだあるじゃない)
なぜか、つい、鼻歌が出てしまった。
「ただいまー。キルボフェンの苺タルト買ってきたよー!」
玄関扉が開き、李人が帰って来た。
「苺タルト⁈ 絶対、美味しいやつね」
「うん! 夕飯のデザートにしようね!」
姉弟でタルトの入った箱を開けて覗き込み、最高級の笑顔を浮かべた。
夕飯はなるべく二人そろって食べる約束をしている。
今日もいつも通り、TVをつけて夕飯だ。
これは二人きりになった時からの習慣になった。
四人からニ人の食卓となり、音が減ってしまった。
十歳の李人はそれが耐えられず、寂しさを紛らわすためにTVの音を出すようになった。
私たちは肉じゃがを食べ終えてから、苺タルトを切り分けた。
満面の笑みの李人が、大きな口でタルトにかぶりつく。
「苺も甘くてタルトはサクサク。最高に幸せー」
満面の笑みに浮かぶエクボ。これを見せられると、私の心がほっとした。
「やっぱりキルボフェンの苺タルトは最高に美味しい!」
私も自然と口角が上がった。
私たちはスイーツが好きだ。
気持ちが塞ぐとき、スイーツを食べると活力が湧いてくるのだ。
そんなことを繰り返しているうちに、姉弟にとってスイーツは元気の源になっていた。