あさの微熱が醒めない


꙳.☽



 まるで、空の藍が反転するようで。きらきらする視界とふわふわの思考がきもちよかった。


 お酒はぜんぜん強くないし多く飲まないようにしていたのに、彼との時間が心地よかったからか、美味しく飲みすぎてしまったの。

 
 それと、彼のことをまったく警戒していなかったこともアルコールに手を伸ばしてしまった一因だと思う。



「浅井さん、今日はありがとうございました。こんなに美味しい焼肉、麻子さんに頭が上がりませんね」


「ふふ、美味しかったぁ……っわ、」



 ふらつく足元をコントロールできなくてよろめく。倒れ込んでしまいそうなわたしの身体を支えたのは彼だった。冬のつめたい温度に、溶けて馴染んで重なる体温。

 見上げると、相変わらずの分厚いレンズの眼鏡が視線を遮断していた。



「危ない、浅井さん足元ふらふらです。送っていきます」



 穏やかで丁寧な声色がわたしの鼓膜を揺らす。わたしより年上のはずなのに、この人は出会ってから今日までずっと敬語だ。

 
 タメ口でいいのに、と浮かばせる余白はあるけれど、ただしく考える力はどこかに……そうだきっと、焼肉屋さんに置いてきてしまった。



 ぎゅう、と彼のダークグレーのチェスターコートを握ってしまう。無意識でわたしのわるい癖が出ていた。



「……ねえ、朝霧さん。今日は、かえりたくない」


「何言ってるんですか。浅井さん、酔いすぎです」


「ん〜〜酔ってない。ねえ、かえりたくないの、あさぎりさん、」



 甘ったるい声は、この数年で携えたわたしの武器だ。上目遣いも、パーソナルスペースへの入りかたも、ぜんぶ。


 あいもかわらず捕まらない彼を見上げていれば、不意に分厚いレンズが外された。長い前髪からきれいな末広型二重の瞳がのぞく。思わず息を呑んだ。


 ずっと捕まえられなかった視線はあまりに柔らかくやさしく、それでいて少しだけ危うさが滲んでいた。


 口角が左右対称に緩やかに上がってお手本のような笑みを向けられた。彼の冷たい指先がわたしの頬に触れる。



「……わかりました、いいですよ。その代わり、」


「なぁに?」


「大事にするので、僕の彼女になってください」



 イエスもノーも口にする余白すら与えられずに。触れたくちびるがやさしくて、このまま甘い余韻に流されてしまいたい、なんて思ったのが思考の最後だった。



「僕のところに、おいで」



 雲ひとつない冬空に月が一際大きく輝いていた、そんな一月半ば。あさが遠い、くらいくらい夜のこと。




𓍯




 甘美な余韻に手を取られて目が覚めた。あさのひかりが夢のなかから引き戻す。


 現実に残るのは、なまりのように重い頭と下腹部の違和感。知らない心地のマットレスに、甘い花の香りではない空間。


 何度も経験したことのある目覚めに、感情の全てが絶望に変わる。そのうえで記憶が全くない。なんとおそろしいことか。



「(……絶対一回で済んでないんだけど)」



 積み重なった過去が昨夜を予測する。こういう朝を迎えることは初めてじゃなくて、少し前まではこれが日常だった。だけど今は、この状況がイレギュラーだ。



「おはようございます」


「おは…………って、だ、だれ……!?」



 上向きまつげからひらく視界に飛び込んできたのは、知らない男のひとの綺麗な顔だった。耳の奥に心地のよい低音が響いて、記憶メモリのなかから持ち主を探そうとするけど、うまく探し出せない。


 身に覚えのない人物であることと、朝起きて挨拶を交わすことのふたつに驚いてしまった。……今までのこんな朝は、おはようの4文字を交換しあうことすらなかった。



「誰って、ひどいなあ」




 国宝のようなビジュアルの彼が、乾いた笑みをこぼして眉を下げた。向けられた視線はわたしのそれと交錯したまま絡まり続けている。




「わたし、全然記憶が……あなたは誰で、結局昨日はだれと飲んだんだっけ……」



 同じベッドに横たわる、あまりにも綺麗で芸能人のように整った男の人。


 当然のように何も身につけていない色白の身体、細い指先でゆるやかに髪を掬われる。されるがまま、見つめることしかできなかった。



「……っ、なんか、」


「思い出しました?」


「いや……」



 女の子の触れかたに慣れすぎている。触れられると思い出しそうな、だけど思い出せはしない。加えて、知らないはずなのに見覚えがあるような、ないような。


 あいまいに揺れる寝起きのすっきりしない頭は次の言葉で一気に冷水をかけられたかのように鮮明に色づいた。



「眼鏡かけたらわかりますか?」



 寝起きとは程遠くはっきり話すその人は、おそらくわたしより先に起きていたのだろう。


 彼が近くに置いてあった眼鏡を取った。そうすれば、見覚えの正体がくっきりと浮かび上がる。


 一瞬、言葉に詰まるほどの衝撃に頭をがつんと殴られた感覚だった。だって、だって、そのひとは。



「……な、な、なんで朝霧さんがここに!?」


「ここが僕の家だからですよ。昨日焼肉食べに行きましたね」


「行った……うん、行ったけど、どういうこと!?」


「あ、あと昨日から浅井さんは僕の彼女です」


「ま、まってまって。急展開すぎるし、えっと……あの、この違和感と、その、服着てないのって……わたしもしかして、朝霧さんと……?」


「はい。思い出すためにもう一回、しましょうか?茉耶ちゃん」



 綺麗な顔が視界に映って手を取られれば、かんたんに甘さが蘇る。柔く触れたくちびるの温度が、冷えたこころを溶かしていった。



 ◻︎▫︎



 ──その日知ったのは、あさの微熱。


 太陽が主役になりかけの体温を、ずっと知らなかった。


 この心地良い温度をどうか、ほどいて。


 どうか夢なら、醒めないで。






 
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