療養先から戻ったら、婚約者が異母妹とキスをしていた
プロローグ
エトラフィア国の王都は、思っていたよりもずっと暖かかった。
ベルトン国で療養していた頃は、肌を刺すような冷たい風に日々さらされていたのに。今は、春の香りが柔らかく空気に溶け込み、胸いっぱいに吸い込むたび、安堵が広がっていく。
ローレッタは、落ち着かない気持ちを抑えきれずにいた。窓に映る自分の姿をちらりと見やる。琥珀色の瞳に癖のある焦げ茶色の髪。
どこにでもある組み合わせだ。もう少し華やかだったらと思わなくもないが、十分に綺麗だと自分に言い聞かせる。無意識のうちに、指が髪に触れてその乱れを直す。
「お嬢様、あまり動かないでください。怪我をしますよ」
向かいの席に座る侍女のリズが、呆れたようにたしなめる。ローレッタは浮いていた腰をそっと下ろした。
「だって……ようやくジャスタス様に会えるのよ? 落ち着いてなんていられないわ!」
思わず笑みがこぼれる。婚約者と一年ぶりの再会。それは、ずっと夢に見てきた瞬間だ。
けれど、不安が胸をかすめる。
最初は頻繁に届いていた手紙も、次第に減っていき、ここ三カ月はまったく音沙汰がなかった。一時帰国の知らせを送ったのに、返事も来ていない。
(……ううん。きっと、忙しいだけよ。全部、ジャスタス様に任せてしまったから)
「ねえ、もう少し馬車を急がせて」
「お嬢様、アークライト公爵邸までもう間もなくです」
リズの言葉に、ローレッタは窓の外に目を向ける。懐かしい屋敷が少しずつ近付いてくるのが見えて、自然と口元が緩んだ。
アークライト公爵家は建国時から王家と血縁関係にあり、国にとって今も欠かせない一門だ。その屋敷で育った日々を思い返すと、ようやく戻ってこられたのだという安心感が胸に広がる。
代々、公爵家は精霊の森を守る役割を担い、魔力を代償に精霊の力を得ることで、国の豊穣を維持してきた。
だが、二年前、ちょうど十六歳の誕生日を迎えた直後、ローレッタは命を落としかけていた。
魔力症――魔力が枯渇することで命を削る、治療法のない〝死病〟。
十二歳で母を亡くした後、ローレッタは公爵家の役割である精霊の森の管理をひとりで担うことになった。婿入りした父には頼ることができず、精霊の力を無理に使い続けた代償は、あまりにも大きかった。
薬も治療法もない中、わずかな望みを求めて情報を探し続け、やっと辿り着いたのが、ベルトン国の魔力症研究所だった。
ベルトン国では魔力症が国家的な問題とされ、この病によって有能な貴族の子息たちが次々と命を奪われていく、もしくは限られた命を静かに終えようとしている。
悩んだ末、精霊の森を婚約者であるジャスタスに託し、ローレッタは国を離れたのだった。
「……驚くかしら。ちょっと元気になりすぎたくらいよね」
療養前はやせ細っていた体も、今はだいぶ元に戻ってきた。鏡を見るたび、自分でも驚くくらいだ。
「びっくりして腰を抜かすかもしれませんね」
「別人じゃないか、なんて言われたりして」
ふたり顔を見合わせ笑い合いながらも、胸の奥がじんと熱くなる。
一年前、こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
治療にはまだ長い時間かかるけれど、こうして元気に戻ってこられた――それだけで十分だ。
「今頃、ジャスタス様はなにをしているかしら?」
「お嬢様をお迎えする準備で、大忙しだと思いますよ」
「ふふ、そうかも」
ローレッタは、優しかったジャスタスの姿を思い出す。どんな時も、細やかな気遣いを欠かさない人だった。
(きっと、今も変わらず待っていてくれる)
その想いが胸を温かく包み込み、再会の瞬間がますます待ち遠しくなる。
やがて馬車が止まり、ローレッタは御者の手を借りて外へ出た。待っていた家令カイネルが一歩前に出て、深々と頭を下げる。
「ローレッタお嬢様、お帰りなさいませ。ご無事でなによりです」
「ただいま。ジャスタス様はもう来ている?」
「はい。サロンにいらっしゃいますが……」
「わかったわ!」
いても立ってもいられず、ローレッタはドレスの裾をつまんで、足早に邸内へ駆け出した。
――君がいないと寂しい。必ず帰ってきてくれ。約束だ。
新緑のような緑の目を少し潤ませながら告げられた彼の言葉が、耳の奥で蘇る。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(もうすぐ、会える!)
笑顔のまま、ローレッタは長い廊下を駆け抜ける。
そして、サロンの扉の前で立ち止まった。
深く息を吸って、目を閉じる。ドレスも、髪も、気合も――完璧。
自分にそう言い聞かせながら、ローレッタはそっと扉に手をかけた。
ベルトン国で療養していた頃は、肌を刺すような冷たい風に日々さらされていたのに。今は、春の香りが柔らかく空気に溶け込み、胸いっぱいに吸い込むたび、安堵が広がっていく。
ローレッタは、落ち着かない気持ちを抑えきれずにいた。窓に映る自分の姿をちらりと見やる。琥珀色の瞳に癖のある焦げ茶色の髪。
どこにでもある組み合わせだ。もう少し華やかだったらと思わなくもないが、十分に綺麗だと自分に言い聞かせる。無意識のうちに、指が髪に触れてその乱れを直す。
「お嬢様、あまり動かないでください。怪我をしますよ」
向かいの席に座る侍女のリズが、呆れたようにたしなめる。ローレッタは浮いていた腰をそっと下ろした。
「だって……ようやくジャスタス様に会えるのよ? 落ち着いてなんていられないわ!」
思わず笑みがこぼれる。婚約者と一年ぶりの再会。それは、ずっと夢に見てきた瞬間だ。
けれど、不安が胸をかすめる。
最初は頻繁に届いていた手紙も、次第に減っていき、ここ三カ月はまったく音沙汰がなかった。一時帰国の知らせを送ったのに、返事も来ていない。
(……ううん。きっと、忙しいだけよ。全部、ジャスタス様に任せてしまったから)
「ねえ、もう少し馬車を急がせて」
「お嬢様、アークライト公爵邸までもう間もなくです」
リズの言葉に、ローレッタは窓の外に目を向ける。懐かしい屋敷が少しずつ近付いてくるのが見えて、自然と口元が緩んだ。
アークライト公爵家は建国時から王家と血縁関係にあり、国にとって今も欠かせない一門だ。その屋敷で育った日々を思い返すと、ようやく戻ってこられたのだという安心感が胸に広がる。
代々、公爵家は精霊の森を守る役割を担い、魔力を代償に精霊の力を得ることで、国の豊穣を維持してきた。
だが、二年前、ちょうど十六歳の誕生日を迎えた直後、ローレッタは命を落としかけていた。
魔力症――魔力が枯渇することで命を削る、治療法のない〝死病〟。
十二歳で母を亡くした後、ローレッタは公爵家の役割である精霊の森の管理をひとりで担うことになった。婿入りした父には頼ることができず、精霊の力を無理に使い続けた代償は、あまりにも大きかった。
薬も治療法もない中、わずかな望みを求めて情報を探し続け、やっと辿り着いたのが、ベルトン国の魔力症研究所だった。
ベルトン国では魔力症が国家的な問題とされ、この病によって有能な貴族の子息たちが次々と命を奪われていく、もしくは限られた命を静かに終えようとしている。
悩んだ末、精霊の森を婚約者であるジャスタスに託し、ローレッタは国を離れたのだった。
「……驚くかしら。ちょっと元気になりすぎたくらいよね」
療養前はやせ細っていた体も、今はだいぶ元に戻ってきた。鏡を見るたび、自分でも驚くくらいだ。
「びっくりして腰を抜かすかもしれませんね」
「別人じゃないか、なんて言われたりして」
ふたり顔を見合わせ笑い合いながらも、胸の奥がじんと熱くなる。
一年前、こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
治療にはまだ長い時間かかるけれど、こうして元気に戻ってこられた――それだけで十分だ。
「今頃、ジャスタス様はなにをしているかしら?」
「お嬢様をお迎えする準備で、大忙しだと思いますよ」
「ふふ、そうかも」
ローレッタは、優しかったジャスタスの姿を思い出す。どんな時も、細やかな気遣いを欠かさない人だった。
(きっと、今も変わらず待っていてくれる)
その想いが胸を温かく包み込み、再会の瞬間がますます待ち遠しくなる。
やがて馬車が止まり、ローレッタは御者の手を借りて外へ出た。待っていた家令カイネルが一歩前に出て、深々と頭を下げる。
「ローレッタお嬢様、お帰りなさいませ。ご無事でなによりです」
「ただいま。ジャスタス様はもう来ている?」
「はい。サロンにいらっしゃいますが……」
「わかったわ!」
いても立ってもいられず、ローレッタはドレスの裾をつまんで、足早に邸内へ駆け出した。
――君がいないと寂しい。必ず帰ってきてくれ。約束だ。
新緑のような緑の目を少し潤ませながら告げられた彼の言葉が、耳の奥で蘇る。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(もうすぐ、会える!)
笑顔のまま、ローレッタは長い廊下を駆け抜ける。
そして、サロンの扉の前で立ち止まった。
深く息を吸って、目を閉じる。ドレスも、髪も、気合も――完璧。
自分にそう言い聞かせながら、ローレッタはそっと扉に手をかけた。
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