終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩の執着に囚われました〜
「あの……もうすぐ終点に着きますよ。起きられますか?」
「………え………?」
ゆっくりと温かな手がトントンと控えめに右肩を叩いて、桐谷雪那は、ハッと意識を取り戻した。
けれど画面を開いたままフリーズしたパソコンのようにやたらと重い頭はなんらの情報処理もしてくれない。雪那ができたのは重たい瞼だけをどうにか持ち上げることくらいだ。そのままグラグラと揺れる視界に、人の姿は映らない。乗車した時にはかなりの人数がいたはずだが、今は座席の前に苛立って立つ人がいないどころか、横一列の対面座席には顔自体をめぐらせて視界をひろげてもポツリポツリと足が見えるくらいだった。
「ぇ………なんで……」
「大丈夫ですか?」
再度、左斜め上から聞こえる低くも高くもない落ち着いた男性の声。
もう一段階、五感が戻ってくる。
ズキリと首筋が鈍く痛んだ。左に向かってかなり痛い。何かに頭が当たっている。硬い。ガタン、と一つ大きな揺れがあってぐらりと体が傾いだ。勢い余って頭がずるりと滑り落ちそうになる。体勢を整えたところでやっと雪那の頭は急速に状況を理解した。
「す、すみませんっ!私ったら!!」
隣の男性に寄りかかって寝てしまっていたのだ。しっかりと起き上がり、一気に冷や汗が吹き出してくる。それと同時にゆっくりと電車が止まった振動が来た。
『灰田瀬西、灰田瀬西。終点です。この電車は車庫に入ります。ご乗車できませんのでご注意ください』
知らない駅名と終点らしいアナウンスに、ヒヤリとさらに背中が冷たくなった気がした。視界をグラングランとさせていた酔いも一気に冷めた。
「あああの、本当に申し訳ありませんでした!」
涎を垂らしていなかったか不安になり、慌てて顎を擦る。深々と頭を下げてから顔を上げた先には、形のいい色白の輪郭と眉を隠すような長さの前髪に対してさっぱりと短く切られた横髪に囲われた顔の中で特徴的と言える垂れ目の青年がいた。
(うわ……美形……っ)
雪那はこんな彼に寄りかかって呑気に眠りこけていた自分を恥じた。いくら泥酔するほど飲んでいたからと言ってこれはない。役得などと思うよりも羞恥で死にそうだと思った。
本当にすみません、と彼の顔をなるべく見ないようにし改めてペコペコ頭を下げた後、雪那は慌てて電車を降りた。反対側のホームに急いで向かおうとしたところ、後ろから声がかかる。
「あの……もしかして乗り過ごしですか?もう反対側の電車ありませんよ」
「え……っ」
雪那は一昨年のボーナスで清水の舞台から飛び降りるつもり奮発して買った時計を見た。みんながスマホやスマートウォッチが便利だというなか、宝石が入った時計を見ると頑張った自分を思い出し背筋が伸びるので愛用していた。今日ばかりは、それはひどく苦い気持ちも思い起こさせるが。短針は11、長針は3を少し過ぎたところだった。
「え、こんな時間で……?」
「びっくりですよね。実は俺もさっき起きたところで、慌てて戻りの電車を調べたらもう朝の時刻しか出なくて……」
「嘘……でしょう……」
雪那は屋根もない吹き晒しのホーム上で肩からかけたカバンの取手をにぎりしめたまま固まった。
(嘘……もう引き返す電車もないの?ここどこかもわからないのに……?)
今日は風が強い。冬というのをしっかりと感じさせる身を切るような空気の冷たさが、手袋のない手、マフラーのない鼻先を凍らせ、温かだった車内と散々接種したアルコールのせいでどこか熱っていた体を容赦なく冷やしていく。
早くスマホを出して駅名から宿泊先を探さなければ。頭はそう指示しているのに、急速に冷えたせいかガチガチと歯が鳴って、何なら血の気が引いてきた。ついでに胃の中のアルコールがぐるぐると回りだし、社会人としてあってはならない事態を引き起こしかねない予感すらした。
「あの、大丈夫ですか……?」
何故かご迷惑をかけたイケメンは雪那に話しかけ続けてくる。話しかけられたら答えなければならないではないか。知らない人がいると、雪那はとにかく強がる傾向にある。弱いところを他人に知られたくないのだ。
ーー本当、お前は最後まで可愛げがないな!まさに鉄の女だよ!
吐き捨てられた言葉が脳裏に蘇る。
「あ……えぇ、どうも………大丈夫、かと。ご親切に、どうも……見ず知らず、のこんな無礼な人間に……ご親切に……ええ……でも大丈夫なので……」
うるさい、とその幻聴を振り払い、雪那は、引き攣った笑みと強がりの言葉を吐き出した。ぐわんぐわんと耳鳴りがして、未だLEDではない電灯のオレンジの灯りはあるはずなのに、目の前が暗くよく見えない。
早くこの人がどこかに行ってくれないかな。そうしたらトイレに駆け込んで……いいえ、今でも行けばいいの。でも一回しゃがみたいな。そもそもトイレどこよ。こっち改札しかない。まさか駅にトイレないことはないでしょうに……ああダメ座りたい。早く行ってよ、もう。
心配してくれる相手に身勝手に腹を立てていると、自然と俯いていた視界に、先の尖ったおしゃれな革靴がやたらと近く見えた。
「……見ず知らずって。もしかして、全然気がついてないです?忘れちゃいました?ショックだなぁ……俺です。橋谷ですよ。読み間違い仲間だった、橋谷玲司です。桐谷リーダー」
その言葉に、雪那はとっさに顔を上げ、目を見開いた。黒に侵されていた視界に、光度も彩度も変わらず足りていないが、オレンジの光が戻ってくる。
目の前に立つ明らかに顔のいい彼。ウールの仕立ての良さそうなコートとスーツをしっかり着こなしていて肩幅も体の厚みもある。5センチヒールを履いた雪那より頭半分まだ高い背丈。
いや誰?
雪那は咄嗟にそう思ったが、今時の男の人らしい細い顎におさまる薄い唇の右下に小さな黒子が二個並んでいるのを見つる。「口の下に黒子がある方がたに、目元に黒子がある方がや、とかキャッチネームつけましょうか」と笑った声が急速に蘇った。そうすると、突如、もっと全体的にモサモサな丸い髪型で、黒縁眼鏡のフレームにつくほど長くて厚い前髪でろくに顔がわからなかった口元に黒子がある彼の姿が重なる。
「……………………はしたに?……はしやくん?」
「ええ。きりたにさん?お久しぶりですね」
嬉しそうな声を出し、目の前の彼がパッと鮮やかに微笑んだ。
人懐っこい笑顔は緊急案件により会議室で夜を明かしたときを思い出させる。先ほどまで張り詰めていた緊張の糸が一気に切れた。
三年前に退職した別部署の後輩。二、三件のプロジェクトで、営業としてSEの彼の関わる案件に携わっただけ。それだけなのに何となく、鎧でガチガチの雪那が何となく自然体で話せた稀有な存在。
そう認識した途端、ドッと冷や汗が出てきて全身の力が抜けてしまった。カバンを掴む手が震え、ずるりと肩から半分紐が落ちた。根性で止めていた胃のむかつきが上限を超える。
「橋谷くん……ひさし……、う、ぇ………、ちょっと、ムリ……かも………」
「え、桐谷さん……っ?!」
その場にしゃがみ込んだ雪那の頭上から焦った声が聞こえた。
**
「大丈夫です?水飲めます?」
「………申し訳ないです」
雪那はベッドに横になったまま、差し出された冷えた水のペットボトルを受け取った。
玲司があの場でコンビニで買ったビニール袋を持っていなければ、社会的に死んでいた。いや、もはや他人と言える元同僚ーー同僚と言えるほど近しい関係でなかった気もするーーの前で、アルコールと独特の匂いがするものを思い切り吐き出した時点で、半分以上死んでるだろう。でも、ソレを見られず汚さなかったことをぐるぐる回る視界の中で感謝した。
三円かけて袋を買ってくれてありがとう橋谷くん、神、とオエオエしながら感謝した。
駅の片隅でそんな汚い雪那の背をさすり、買った時は温かかったんですけどすみません、と謝りながら、小さなお茶のペットボトル差し出した玲司はどれだけできた子だろう。SEにしては、そういえば気遣いが上手いと思ったことも思い出す。なにせ偏屈な相手が多いので。
朦朧としてぼろぼろになった雪那を嫌がることもなく、テキパキと処理をして、さっさと駅近くのビジネスホテルを予約してくれた手腕は見事すぎる。
「すみません、この辺りほぼホテルがないみたいで、空きがなくて。ダブルなんですけど……」
「いえ、こちらがこんなイケメンと……本当に申し訳ない。ごめんなさい。クズでごめんなさい……」
弱りきった顔をする玲司にグデングデンになりながら何度も謝った。謝らなくていいですよと玲司はぐにゃぐにゃの雪那の腕を肩にかけ、腰に手を回しながら引きずるようにして連れて行ってくれた。
完全に酔っ払ったおじさんのテイであった。
部屋に入り、少し眠ってやっと人心地ついた雪那は、起き上がれはしなかったが、頭はだいぶスッキリしていた。どんなに飲んでも記憶を飛ばしたことはない。死にたい。
枕に顔を埋めた雪那は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
「まだ気持ちが悪いです?」
「いえ、自分が埋まる穴をどうやって掘るかなと思っているところです。橋谷さんにこんな迷惑をかけて……」
「ふは、埋まらなくていいですよ。ていうか何で敬語です?先輩じゃないですか」
「三年以上前の同じ会社の人なんて、他人でしょう」
「他人」
柔らかだった玲司の声が急速に強張った。ここまで親切にしてもらって失礼だったと焦る。
「いえ、恥ずかしいところ見られてそれで先輩面できるわけないでしょう」
「そんなこと。いつもパーフェクトだった桐谷さんの隙のある一面が見れて、俺としては役得ですよ」
「は……?」
目の前で吐かれてグデングデンな女を引きずって諸々手配して役得って何?と雪那は胡乱げになった。
「嫌味です?」
「まさか。何でそう取りました?」
「橋谷さんかっこいいから。こんなイケメンって知りませんでした。前髪長くて………あっ、彼女とか誤解されません?そうなったら申し訳なさすぎて。きちんとご説明しますよ」
「いや、彼女なんてずっといないんで大丈夫ですよ」
「またまた。こんな素敵な男性を世の中の女が放っておくわけがないじゃないですか」
「いや、本当ですって。素敵って、桐谷さんに言われるなら嬉しいです。でも、あの、桐谷さんこそ彼氏とか……」
「………いないよ」
当然の切り返しに子供っぽいムッとした口調になったのは、この状況を招いた元彼への苛立ちを思い出したからだ。やけ酒をしたのは雪那であり、八つ当たりなのはわかっているが、口調が尖るのは仕方がない。
傷口はパックリひらいたままで、瘡蓋になるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「………そんなに飲んだのは失恋した、とか?」
玲司の声が何ともいえない響きになった。気を遣わせてしまったと雪那は後悔したが、いま腹の中にあるのは怒りと強い虚しさだった。
これは失恋なんかじゃない。多分もう恋ではなかった。打算だった。でも傷ついた。自分ががむしゃらにやってきたことを否定されるのは誰でも気分が良くない。
だから強がった。
「いいえ、捨ててやったの」
「……ふは。桐谷さんらしい。せっかくですから、クールビューティーに捨てられた哀れな男の話を聞かせてくださいよ。桐谷さんのたくさんの申し訳ないの代わりに」
玲司は知り合った当初から何となく、人馴れしてなさそうな見た目と違って、懐に入るのが上手い人だと感じていた。雪那のプライドと罪悪感を煽って口を軽くさせる。
「………別になんにも楽しくない話よ」
「他人に話したら楽しくなるかもしれませんよ?」
横目でちらりと見た玲司の顔はニンマリ笑っていて、散々クライアントの愚痴を言い合った徹夜ガンギマリの夜明けのコーヒーを思い出した。
*
雪那は大手システムベンダーの営業である。
入社して以来営業一筋。体育会系の部活で培ってきたフットワークの軽さと前向きメンタル、そして、文系とはいえ情報系学部を出て、創作活動をする親友を後押しする意図でホームページやら諸々のシステムを自作するという趣味が生き、早期から優秀な営業成績を収めてきた。そうなると重要プロジェクトにも選抜新人として抜擢され、ますますエリート営業街道を駆け上がっていく。
女のくせに、とか、女が下駄履かせてもらって、とか色々言われることを時代遅れの負け惜しみと鼻で笑い飛ばして邁進してきた。26歳で初めて小さくともプロジェクトリーダーを任され、以降いくつものプロジェクトに携わった。30歳で早期昇格枠で主任に抜擢されると同時に、とある新作システムの営業チーフまで任された。比較的優良企業が多い地域を任されたのは若手を潰さない配慮かもしれない。独身女で過去3回もの転勤も残業も休日出勤も一切を厭わない雪那は、女性活躍成果主義、流行りのコンテンツにピッタリなのだ。ワークライフバランスは一秒もないが。
しかし上げ馬を逃すつもりなどない。
と、勢い込んで臨んだはずのプロジェクトだった。確実に取れるだろうと踏んでいた昔から付き合いがある企業の受注を逃すまでは。
廉価な新しいスタートアップの会社と競合になっていたのは知っていたが、過去の実績と保守サービスの厚さを十分に売り込んできたはずだった。だというのに相手のサービスのレベルがかなり高かったと残念な電話を受け取ったときには目の前が真っ暗になった。
他に比べたら比較的小さめとはいえ数億円の失注だ。社内ではまだ桐谷には早かったのでは、との声も聞こえてきた。
その後もコンペの都度、同じ会社名を聞くようになる。遂には上司もサポートで入った。それでも今日、また、負けたのだ。
雪那は比較的挫折を知らずに生きてきた。努力して叶わないと思ったことはなかった。けれど、こんなにも選ばれない経験は初めてで、完全に打ちのめされていた。
雪那は、初めて慰めてほしいと他人を必要とした。何年振りというくらいの定時で上がり、付き合って5年にもなる交際相手に電話をした。出なかった。
いつもの精神状態の雪那だったらそれで諦めていただろう。けれど今日ばかりは、どうしても、話を聞いて欲しかった。
おそらくは、逃げようとしたのだ。仕事がうまくいかないなら彼が将来のことを考えてくれるのでは、と傲慢に思った。だからバチが当たった。
『何で呼んでもいないのに勝手に来るんだよ!』
もらってはいたが使ったことはほぼない合鍵で彼の家を訪ねたら、知らない女とベッドイン。
そりゃあチャットも既読にならないわけだ。
一緒に飲もうと買ってきた高いワインを取り落とさなかったのはひとえに勿体無いからである。案外冷静で、はは、と引き攣って笑った。
『金は持ってるからまだキープしておいてもよかったけど、邪魔すんなら出てけよ。いつもいつも仕事だってドダキャンして喜んで尻尾を振ってたくせに、お前の都合がいいときだけすり寄って来るな』
確かに。何度約束しても守れず、マメな連絡もせず、放っておいたのは事実である。
浮気されたって文句の一つも言えない。いや浮気というよりもはや雪那がキープと吐き捨てられる二番手の女に成り下がっていたのだ。もしかしたら二番手以下。
『仕事で失敗しただが何だか知らないけど、稼げないお前なんか養う気あるわけないだろ。持ってるものもこれ見よがしに高い、金食い虫だしさ。鍵返してさっさと出てって』
いつか、年収の話になったら、顔が引き攣っていた。ご褒美時計にも「今時、時計かよ。そんな無駄な金の使い方するなんて」と文句を言っていた。
自分のお金で自分の好きな物に投資して何が悪い。
稼いでいるんだから奢ってよ、と高いレストラン指定してホテル代も出して機嫌を損ねないように気を遣って夜を過ごして。付き合ってもらう時間にかけるよりもよほどたくさん満たされる
けれど、まだ、一人で生きる覚悟は決まらず、それなりの惰性で一緒に過ごせる相手としてキープしていた。人のことを言えたものではない。ただ、雪那はその状況でも他の男と関係を持とうとは一度として思わなかった。
だから。
『一言でも別れ話してからその大したモノでもないキノコを他の女に突っ込まない限り、あんたは二股男に変わりないわ。三股かも四股かもしれないけど。あとお金食い虫はそっち。安月給で他の子に貢げるなら大したものね』
元彼と呼ぶに成り下がった男は、顔を真っ赤にして「関係ねえだろ!」と怒鳴った。これ多分図星だな、とスウェット下半身しか身につけてない男に合鍵を投げつける。
『お邪魔しました。好きなだけ続きをどうぞ。気分が悪いからここに残ってるものがあれば全て捨てておいて。それくらいはやってよね』
『こう言う時でも顔色一つ変えずに平然としてるところが本当、鉄の女だよな。ついてけねえわ』
『あっは、女は自分より下じゃないと自尊心が保てない矮小な男はこちらからお断り。あ、キープでないそこの彼女さん。その人、給料日前になると人に奢らせようとするから気をつけてね』
『お前にだけだよ!』
『あらそう?じゃあ浮いたお金がなくなる分頑張って。貸したお金は返してくれなくていいわ』
『はぁ?お金まで借りてたの?!お金持ちじゃなかったの!?』
ずっと彼の腕にしがみついてこちらをじっと睨んでいたふわふわボブの巨乳のお嬢さんが彼を問い詰め出した。三十オーバーの貧乳に見せつけるからこんなことになるのだ、と鼻を鳴らしてそのまま部屋を出て行った。
*
「うわ、そりゃひどい修羅場ですね」
「修羅場というほどでもなかったけど……。それで、行きつけのバーでワインを持ち込んで飲んで、そのままワインもウイスキーも飲んで………それで……そう、知らない男性に話しかけられてからあんまり記憶がなくて……」
浴びるように飲んでいた時の記憶だけがひどく曖昧だ。確かに常にない精神状態でショックを受けていたのかもしれない。
強がってはいたが、5年は長かった。
大学時代の友人だった元彼。出会った頃の思い出、再会してからの思い出。気の置けない仲だった。途中、転勤になっても、頑張れよ、と快く送り出してくれた。それに甘えすぎていたのかもしれない。いつからこんな歪んでしまったのだろうと、悲しくて仕方がなかったのだ。
『一人ですか?』
マスターに三十路女に今更キッツイよぉ、仕事もうまくいかないしぃ、とクダを巻いていたところで、隣からかけられたその言葉は思い出せるのに全く顔が思い出せない。
はは、とベッドの端に腰かけていた玲司が笑ったのがわかった。
少しだけ体を預けたマットレスがぎしり、と軋む。彼が完全にベッドに乗り上げてすぐ隣に座ったのだ。体を傾けて全身伸びたままの雪那の真っ直ぐな黒髪を撫でてくる。
「誘われたんですよ。桐谷さん、綺麗だから」
「え、そんなわけないわ」
どう見てもグデグデの酔っ払いだった。飲んだ酒瓶を並べて見て見てマスターと騒いでいた迷惑な酔客。
雪那はパッと見からきつそうな見た目だ。自分のお高い価値を知ってる女、よほど自信のある男じゃなきゃいけねえよ、隙がない、と同僚に言われる。男友達は多い方だと思うけれど、友人からも見た目は潔癖そうだし中身はマジ男だから対象外と言われ続けた。
綺麗なんて、今やバレンタインにチョコをくれる女性社員たちにしか言われない。
そんな女を誘う男がいるものか。
そう伝えると、くすくすと明るい声が返ってきた。
「きっとその男は自分に自信があったんですよ。なのに逃げられて……ショックだったでしょうね?」
「逃げ……、ああ思い出した。そうだわ。肩を抱かれてゾワッとしたから走って逃げたんだった」
「ゾワってしたんですか?」
雪那の脳裏に「終電があるから!マスター、帰る!お会計!!」と店中に響く声で叫ぶ自分が蘇る。もう、あのバーには行けないかもしれない。それからまるで酔ってないかのようにヒールでカツカツと駅まで一心不乱に歩いて、それでやって来た電車に飛び乗って、たまたま空いていた席に座ったところで………完全に一切記憶がない。どれだけ唸ってもぶっつり切れた闇しかない。
多分、寝ていたのだ。そしていつからから玲司にもたれかかって寝ていたと。
やらかした。
そうして気がついたら都内行きとは真反対の路線の終着駅で完全グロッキーになり、ホテルでこの状況。
情けない。
雪那は顔を手で覆ってため息をついた。
「ああ本当、情けない。そもそもコンペにこんなに負け続けるとか……悔しい。本当なんなのよ、ユースアラウンド社。ことごとく私の担当顧客に営業かけてきて……。でも悔しいのはあのシステム、ちょっとプレゼン聞いてるだけでもよくできてるのよね。うちの会社もああいう顧客要望に手の届くカスタマイズをしてほしいものだわ。営業意見なんてほとんど開発に反映されないんだもの」
「ふふ、嬉しいなあ。あれはね、雪那さんがあったらいいなって語ってたものをいっぱい詰め込んだんです」
「……ん?」
突然、雪那と名前を呼ばれたこともその文脈も全部が引っかかった。
のそりと顔を上げると、今にも触れそうなほどの近くに玲司の顔があった。左目の下にある黒子がはっきりと動いたのがわかるほど目を見開き切れ長の瞳を丸くする。
そんな雪那の頬に、次の瞬間、ふにゅと柔らかな感触があった。
「え……っ」
「ねえ、転職しません?ユースアラウンドは雪那さんに認めてもらうために作ったんですよ。その雪那さんが製品を売り込んでくれたら最高だなあ」
「は……?」
ウチ、営業はあんまり強くないから雪那さん顧客狙いで一点集中なんですよね、と彼は笑う。そのまま手櫛で一気に全て前髪を上げたその顔をじっと見て、思考が止まった。
見たことがある……ような……これに銀縁メガネをかけたら……?
「あっ、西岡通商ですれ違ったユースアラウンドの担当…?!いやていうか、バーで声かけてきた人っ?」
「あはは、やっとわかってもらえました?ちなみに担当じゃなくて一応、社長です。CEOって言い方の方が今時?」
「はい?」
情報が過多である。
気分は悪くなくなったが、まだまだポンコツなままの脳のCPUが処理速度を爆下げしている。無意味に唇を動かし、結局声にならなかった雪那を見て、また玲司はにっこりと笑う。
「雪那さん、ベロベロに酔ってるのにほんとガード固いんだもん。ほーんと、高嶺の花だよね。ゾワッとしたってひどいなあ。でも最後の最後は詰めが甘いよね」
「えっ、橋谷くん?!……ちょっ」
丁寧だった言葉遣いが突如砕けたものになったことも混乱した。体の前に手が回り仰向けにさせられると、そのまま両手を一掴みにベッドに押し付けられる。
体の上に自分のものじゃない圧を感じた。
目を見開いて視線を上げれば、爽やかイケメンになった、そして、にっくき商売敵となった、介抱してくれた元後輩の顔が、明らかに男の顔になっている。
「え……、なに……っ?」
「わかりますよね?男女がベッドの上で二人きり。早めに同意がもらえると嬉しいかなと」
「どういう……んっ?」
ちゅっ。
今度は唇に柔らかな感覚が一瞬だけ触れた。
全ての時間が止まり、少ししてから彼の親指が頬をゆっくりとなぞっている感覚に気がつく。その瞬間、ぼっと頬に熱がこもった。
「ヒェ……えっ?」
視線の先で、やっぱりあの嬉しそうな印象的な笑顔の玲司がいた。
「好きです、雪那さん」
「は?え?す、好き……?は?好き?なんで??」
「そのあたりは一晩かけてじっくり、ゆっくりわかりってもらいます。何でも質問してください。この時を5年も待ったんです。憎たらしい彼氏ともやっと別れてくれたことだし、本日、何が何でも雪那さんをオトす所存です」
「……え、いえ、所存と言われても……?」
唖然とした雪那において、とにかくなぜ店に置いてきたはずの男が、同じ電車で終点まで隣に座っていたのかが一番聞きたいことだった。
「………え………?」
ゆっくりと温かな手がトントンと控えめに右肩を叩いて、桐谷雪那は、ハッと意識を取り戻した。
けれど画面を開いたままフリーズしたパソコンのようにやたらと重い頭はなんらの情報処理もしてくれない。雪那ができたのは重たい瞼だけをどうにか持ち上げることくらいだ。そのままグラグラと揺れる視界に、人の姿は映らない。乗車した時にはかなりの人数がいたはずだが、今は座席の前に苛立って立つ人がいないどころか、横一列の対面座席には顔自体をめぐらせて視界をひろげてもポツリポツリと足が見えるくらいだった。
「ぇ………なんで……」
「大丈夫ですか?」
再度、左斜め上から聞こえる低くも高くもない落ち着いた男性の声。
もう一段階、五感が戻ってくる。
ズキリと首筋が鈍く痛んだ。左に向かってかなり痛い。何かに頭が当たっている。硬い。ガタン、と一つ大きな揺れがあってぐらりと体が傾いだ。勢い余って頭がずるりと滑り落ちそうになる。体勢を整えたところでやっと雪那の頭は急速に状況を理解した。
「す、すみませんっ!私ったら!!」
隣の男性に寄りかかって寝てしまっていたのだ。しっかりと起き上がり、一気に冷や汗が吹き出してくる。それと同時にゆっくりと電車が止まった振動が来た。
『灰田瀬西、灰田瀬西。終点です。この電車は車庫に入ります。ご乗車できませんのでご注意ください』
知らない駅名と終点らしいアナウンスに、ヒヤリとさらに背中が冷たくなった気がした。視界をグラングランとさせていた酔いも一気に冷めた。
「あああの、本当に申し訳ありませんでした!」
涎を垂らしていなかったか不安になり、慌てて顎を擦る。深々と頭を下げてから顔を上げた先には、形のいい色白の輪郭と眉を隠すような長さの前髪に対してさっぱりと短く切られた横髪に囲われた顔の中で特徴的と言える垂れ目の青年がいた。
(うわ……美形……っ)
雪那はこんな彼に寄りかかって呑気に眠りこけていた自分を恥じた。いくら泥酔するほど飲んでいたからと言ってこれはない。役得などと思うよりも羞恥で死にそうだと思った。
本当にすみません、と彼の顔をなるべく見ないようにし改めてペコペコ頭を下げた後、雪那は慌てて電車を降りた。反対側のホームに急いで向かおうとしたところ、後ろから声がかかる。
「あの……もしかして乗り過ごしですか?もう反対側の電車ありませんよ」
「え……っ」
雪那は一昨年のボーナスで清水の舞台から飛び降りるつもり奮発して買った時計を見た。みんながスマホやスマートウォッチが便利だというなか、宝石が入った時計を見ると頑張った自分を思い出し背筋が伸びるので愛用していた。今日ばかりは、それはひどく苦い気持ちも思い起こさせるが。短針は11、長針は3を少し過ぎたところだった。
「え、こんな時間で……?」
「びっくりですよね。実は俺もさっき起きたところで、慌てて戻りの電車を調べたらもう朝の時刻しか出なくて……」
「嘘……でしょう……」
雪那は屋根もない吹き晒しのホーム上で肩からかけたカバンの取手をにぎりしめたまま固まった。
(嘘……もう引き返す電車もないの?ここどこかもわからないのに……?)
今日は風が強い。冬というのをしっかりと感じさせる身を切るような空気の冷たさが、手袋のない手、マフラーのない鼻先を凍らせ、温かだった車内と散々接種したアルコールのせいでどこか熱っていた体を容赦なく冷やしていく。
早くスマホを出して駅名から宿泊先を探さなければ。頭はそう指示しているのに、急速に冷えたせいかガチガチと歯が鳴って、何なら血の気が引いてきた。ついでに胃の中のアルコールがぐるぐると回りだし、社会人としてあってはならない事態を引き起こしかねない予感すらした。
「あの、大丈夫ですか……?」
何故かご迷惑をかけたイケメンは雪那に話しかけ続けてくる。話しかけられたら答えなければならないではないか。知らない人がいると、雪那はとにかく強がる傾向にある。弱いところを他人に知られたくないのだ。
ーー本当、お前は最後まで可愛げがないな!まさに鉄の女だよ!
吐き捨てられた言葉が脳裏に蘇る。
「あ……えぇ、どうも………大丈夫、かと。ご親切に、どうも……見ず知らず、のこんな無礼な人間に……ご親切に……ええ……でも大丈夫なので……」
うるさい、とその幻聴を振り払い、雪那は、引き攣った笑みと強がりの言葉を吐き出した。ぐわんぐわんと耳鳴りがして、未だLEDではない電灯のオレンジの灯りはあるはずなのに、目の前が暗くよく見えない。
早くこの人がどこかに行ってくれないかな。そうしたらトイレに駆け込んで……いいえ、今でも行けばいいの。でも一回しゃがみたいな。そもそもトイレどこよ。こっち改札しかない。まさか駅にトイレないことはないでしょうに……ああダメ座りたい。早く行ってよ、もう。
心配してくれる相手に身勝手に腹を立てていると、自然と俯いていた視界に、先の尖ったおしゃれな革靴がやたらと近く見えた。
「……見ず知らずって。もしかして、全然気がついてないです?忘れちゃいました?ショックだなぁ……俺です。橋谷ですよ。読み間違い仲間だった、橋谷玲司です。桐谷リーダー」
その言葉に、雪那はとっさに顔を上げ、目を見開いた。黒に侵されていた視界に、光度も彩度も変わらず足りていないが、オレンジの光が戻ってくる。
目の前に立つ明らかに顔のいい彼。ウールの仕立ての良さそうなコートとスーツをしっかり着こなしていて肩幅も体の厚みもある。5センチヒールを履いた雪那より頭半分まだ高い背丈。
いや誰?
雪那は咄嗟にそう思ったが、今時の男の人らしい細い顎におさまる薄い唇の右下に小さな黒子が二個並んでいるのを見つる。「口の下に黒子がある方がたに、目元に黒子がある方がや、とかキャッチネームつけましょうか」と笑った声が急速に蘇った。そうすると、突如、もっと全体的にモサモサな丸い髪型で、黒縁眼鏡のフレームにつくほど長くて厚い前髪でろくに顔がわからなかった口元に黒子がある彼の姿が重なる。
「……………………はしたに?……はしやくん?」
「ええ。きりたにさん?お久しぶりですね」
嬉しそうな声を出し、目の前の彼がパッと鮮やかに微笑んだ。
人懐っこい笑顔は緊急案件により会議室で夜を明かしたときを思い出させる。先ほどまで張り詰めていた緊張の糸が一気に切れた。
三年前に退職した別部署の後輩。二、三件のプロジェクトで、営業としてSEの彼の関わる案件に携わっただけ。それだけなのに何となく、鎧でガチガチの雪那が何となく自然体で話せた稀有な存在。
そう認識した途端、ドッと冷や汗が出てきて全身の力が抜けてしまった。カバンを掴む手が震え、ずるりと肩から半分紐が落ちた。根性で止めていた胃のむかつきが上限を超える。
「橋谷くん……ひさし……、う、ぇ………、ちょっと、ムリ……かも………」
「え、桐谷さん……っ?!」
その場にしゃがみ込んだ雪那の頭上から焦った声が聞こえた。
**
「大丈夫です?水飲めます?」
「………申し訳ないです」
雪那はベッドに横になったまま、差し出された冷えた水のペットボトルを受け取った。
玲司があの場でコンビニで買ったビニール袋を持っていなければ、社会的に死んでいた。いや、もはや他人と言える元同僚ーー同僚と言えるほど近しい関係でなかった気もするーーの前で、アルコールと独特の匂いがするものを思い切り吐き出した時点で、半分以上死んでるだろう。でも、ソレを見られず汚さなかったことをぐるぐる回る視界の中で感謝した。
三円かけて袋を買ってくれてありがとう橋谷くん、神、とオエオエしながら感謝した。
駅の片隅でそんな汚い雪那の背をさすり、買った時は温かかったんですけどすみません、と謝りながら、小さなお茶のペットボトル差し出した玲司はどれだけできた子だろう。SEにしては、そういえば気遣いが上手いと思ったことも思い出す。なにせ偏屈な相手が多いので。
朦朧としてぼろぼろになった雪那を嫌がることもなく、テキパキと処理をして、さっさと駅近くのビジネスホテルを予約してくれた手腕は見事すぎる。
「すみません、この辺りほぼホテルがないみたいで、空きがなくて。ダブルなんですけど……」
「いえ、こちらがこんなイケメンと……本当に申し訳ない。ごめんなさい。クズでごめんなさい……」
弱りきった顔をする玲司にグデングデンになりながら何度も謝った。謝らなくていいですよと玲司はぐにゃぐにゃの雪那の腕を肩にかけ、腰に手を回しながら引きずるようにして連れて行ってくれた。
完全に酔っ払ったおじさんのテイであった。
部屋に入り、少し眠ってやっと人心地ついた雪那は、起き上がれはしなかったが、頭はだいぶスッキリしていた。どんなに飲んでも記憶を飛ばしたことはない。死にたい。
枕に顔を埋めた雪那は自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
「まだ気持ちが悪いです?」
「いえ、自分が埋まる穴をどうやって掘るかなと思っているところです。橋谷さんにこんな迷惑をかけて……」
「ふは、埋まらなくていいですよ。ていうか何で敬語です?先輩じゃないですか」
「三年以上前の同じ会社の人なんて、他人でしょう」
「他人」
柔らかだった玲司の声が急速に強張った。ここまで親切にしてもらって失礼だったと焦る。
「いえ、恥ずかしいところ見られてそれで先輩面できるわけないでしょう」
「そんなこと。いつもパーフェクトだった桐谷さんの隙のある一面が見れて、俺としては役得ですよ」
「は……?」
目の前で吐かれてグデングデンな女を引きずって諸々手配して役得って何?と雪那は胡乱げになった。
「嫌味です?」
「まさか。何でそう取りました?」
「橋谷さんかっこいいから。こんなイケメンって知りませんでした。前髪長くて………あっ、彼女とか誤解されません?そうなったら申し訳なさすぎて。きちんとご説明しますよ」
「いや、彼女なんてずっといないんで大丈夫ですよ」
「またまた。こんな素敵な男性を世の中の女が放っておくわけがないじゃないですか」
「いや、本当ですって。素敵って、桐谷さんに言われるなら嬉しいです。でも、あの、桐谷さんこそ彼氏とか……」
「………いないよ」
当然の切り返しに子供っぽいムッとした口調になったのは、この状況を招いた元彼への苛立ちを思い出したからだ。やけ酒をしたのは雪那であり、八つ当たりなのはわかっているが、口調が尖るのは仕方がない。
傷口はパックリひらいたままで、瘡蓋になるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「………そんなに飲んだのは失恋した、とか?」
玲司の声が何ともいえない響きになった。気を遣わせてしまったと雪那は後悔したが、いま腹の中にあるのは怒りと強い虚しさだった。
これは失恋なんかじゃない。多分もう恋ではなかった。打算だった。でも傷ついた。自分ががむしゃらにやってきたことを否定されるのは誰でも気分が良くない。
だから強がった。
「いいえ、捨ててやったの」
「……ふは。桐谷さんらしい。せっかくですから、クールビューティーに捨てられた哀れな男の話を聞かせてくださいよ。桐谷さんのたくさんの申し訳ないの代わりに」
玲司は知り合った当初から何となく、人馴れしてなさそうな見た目と違って、懐に入るのが上手い人だと感じていた。雪那のプライドと罪悪感を煽って口を軽くさせる。
「………別になんにも楽しくない話よ」
「他人に話したら楽しくなるかもしれませんよ?」
横目でちらりと見た玲司の顔はニンマリ笑っていて、散々クライアントの愚痴を言い合った徹夜ガンギマリの夜明けのコーヒーを思い出した。
*
雪那は大手システムベンダーの営業である。
入社して以来営業一筋。体育会系の部活で培ってきたフットワークの軽さと前向きメンタル、そして、文系とはいえ情報系学部を出て、創作活動をする親友を後押しする意図でホームページやら諸々のシステムを自作するという趣味が生き、早期から優秀な営業成績を収めてきた。そうなると重要プロジェクトにも選抜新人として抜擢され、ますますエリート営業街道を駆け上がっていく。
女のくせに、とか、女が下駄履かせてもらって、とか色々言われることを時代遅れの負け惜しみと鼻で笑い飛ばして邁進してきた。26歳で初めて小さくともプロジェクトリーダーを任され、以降いくつものプロジェクトに携わった。30歳で早期昇格枠で主任に抜擢されると同時に、とある新作システムの営業チーフまで任された。比較的優良企業が多い地域を任されたのは若手を潰さない配慮かもしれない。独身女で過去3回もの転勤も残業も休日出勤も一切を厭わない雪那は、女性活躍成果主義、流行りのコンテンツにピッタリなのだ。ワークライフバランスは一秒もないが。
しかし上げ馬を逃すつもりなどない。
と、勢い込んで臨んだはずのプロジェクトだった。確実に取れるだろうと踏んでいた昔から付き合いがある企業の受注を逃すまでは。
廉価な新しいスタートアップの会社と競合になっていたのは知っていたが、過去の実績と保守サービスの厚さを十分に売り込んできたはずだった。だというのに相手のサービスのレベルがかなり高かったと残念な電話を受け取ったときには目の前が真っ暗になった。
他に比べたら比較的小さめとはいえ数億円の失注だ。社内ではまだ桐谷には早かったのでは、との声も聞こえてきた。
その後もコンペの都度、同じ会社名を聞くようになる。遂には上司もサポートで入った。それでも今日、また、負けたのだ。
雪那は比較的挫折を知らずに生きてきた。努力して叶わないと思ったことはなかった。けれど、こんなにも選ばれない経験は初めてで、完全に打ちのめされていた。
雪那は、初めて慰めてほしいと他人を必要とした。何年振りというくらいの定時で上がり、付き合って5年にもなる交際相手に電話をした。出なかった。
いつもの精神状態の雪那だったらそれで諦めていただろう。けれど今日ばかりは、どうしても、話を聞いて欲しかった。
おそらくは、逃げようとしたのだ。仕事がうまくいかないなら彼が将来のことを考えてくれるのでは、と傲慢に思った。だからバチが当たった。
『何で呼んでもいないのに勝手に来るんだよ!』
もらってはいたが使ったことはほぼない合鍵で彼の家を訪ねたら、知らない女とベッドイン。
そりゃあチャットも既読にならないわけだ。
一緒に飲もうと買ってきた高いワインを取り落とさなかったのはひとえに勿体無いからである。案外冷静で、はは、と引き攣って笑った。
『金は持ってるからまだキープしておいてもよかったけど、邪魔すんなら出てけよ。いつもいつも仕事だってドダキャンして喜んで尻尾を振ってたくせに、お前の都合がいいときだけすり寄って来るな』
確かに。何度約束しても守れず、マメな連絡もせず、放っておいたのは事実である。
浮気されたって文句の一つも言えない。いや浮気というよりもはや雪那がキープと吐き捨てられる二番手の女に成り下がっていたのだ。もしかしたら二番手以下。
『仕事で失敗しただが何だか知らないけど、稼げないお前なんか養う気あるわけないだろ。持ってるものもこれ見よがしに高い、金食い虫だしさ。鍵返してさっさと出てって』
いつか、年収の話になったら、顔が引き攣っていた。ご褒美時計にも「今時、時計かよ。そんな無駄な金の使い方するなんて」と文句を言っていた。
自分のお金で自分の好きな物に投資して何が悪い。
稼いでいるんだから奢ってよ、と高いレストラン指定してホテル代も出して機嫌を損ねないように気を遣って夜を過ごして。付き合ってもらう時間にかけるよりもよほどたくさん満たされる
けれど、まだ、一人で生きる覚悟は決まらず、それなりの惰性で一緒に過ごせる相手としてキープしていた。人のことを言えたものではない。ただ、雪那はその状況でも他の男と関係を持とうとは一度として思わなかった。
だから。
『一言でも別れ話してからその大したモノでもないキノコを他の女に突っ込まない限り、あんたは二股男に変わりないわ。三股かも四股かもしれないけど。あとお金食い虫はそっち。安月給で他の子に貢げるなら大したものね』
元彼と呼ぶに成り下がった男は、顔を真っ赤にして「関係ねえだろ!」と怒鳴った。これ多分図星だな、とスウェット下半身しか身につけてない男に合鍵を投げつける。
『お邪魔しました。好きなだけ続きをどうぞ。気分が悪いからここに残ってるものがあれば全て捨てておいて。それくらいはやってよね』
『こう言う時でも顔色一つ変えずに平然としてるところが本当、鉄の女だよな。ついてけねえわ』
『あっは、女は自分より下じゃないと自尊心が保てない矮小な男はこちらからお断り。あ、キープでないそこの彼女さん。その人、給料日前になると人に奢らせようとするから気をつけてね』
『お前にだけだよ!』
『あらそう?じゃあ浮いたお金がなくなる分頑張って。貸したお金は返してくれなくていいわ』
『はぁ?お金まで借りてたの?!お金持ちじゃなかったの!?』
ずっと彼の腕にしがみついてこちらをじっと睨んでいたふわふわボブの巨乳のお嬢さんが彼を問い詰め出した。三十オーバーの貧乳に見せつけるからこんなことになるのだ、と鼻を鳴らしてそのまま部屋を出て行った。
*
「うわ、そりゃひどい修羅場ですね」
「修羅場というほどでもなかったけど……。それで、行きつけのバーでワインを持ち込んで飲んで、そのままワインもウイスキーも飲んで………それで……そう、知らない男性に話しかけられてからあんまり記憶がなくて……」
浴びるように飲んでいた時の記憶だけがひどく曖昧だ。確かに常にない精神状態でショックを受けていたのかもしれない。
強がってはいたが、5年は長かった。
大学時代の友人だった元彼。出会った頃の思い出、再会してからの思い出。気の置けない仲だった。途中、転勤になっても、頑張れよ、と快く送り出してくれた。それに甘えすぎていたのかもしれない。いつからこんな歪んでしまったのだろうと、悲しくて仕方がなかったのだ。
『一人ですか?』
マスターに三十路女に今更キッツイよぉ、仕事もうまくいかないしぃ、とクダを巻いていたところで、隣からかけられたその言葉は思い出せるのに全く顔が思い出せない。
はは、とベッドの端に腰かけていた玲司が笑ったのがわかった。
少しだけ体を預けたマットレスがぎしり、と軋む。彼が完全にベッドに乗り上げてすぐ隣に座ったのだ。体を傾けて全身伸びたままの雪那の真っ直ぐな黒髪を撫でてくる。
「誘われたんですよ。桐谷さん、綺麗だから」
「え、そんなわけないわ」
どう見てもグデグデの酔っ払いだった。飲んだ酒瓶を並べて見て見てマスターと騒いでいた迷惑な酔客。
雪那はパッと見からきつそうな見た目だ。自分のお高い価値を知ってる女、よほど自信のある男じゃなきゃいけねえよ、隙がない、と同僚に言われる。男友達は多い方だと思うけれど、友人からも見た目は潔癖そうだし中身はマジ男だから対象外と言われ続けた。
綺麗なんて、今やバレンタインにチョコをくれる女性社員たちにしか言われない。
そんな女を誘う男がいるものか。
そう伝えると、くすくすと明るい声が返ってきた。
「きっとその男は自分に自信があったんですよ。なのに逃げられて……ショックだったでしょうね?」
「逃げ……、ああ思い出した。そうだわ。肩を抱かれてゾワッとしたから走って逃げたんだった」
「ゾワってしたんですか?」
雪那の脳裏に「終電があるから!マスター、帰る!お会計!!」と店中に響く声で叫ぶ自分が蘇る。もう、あのバーには行けないかもしれない。それからまるで酔ってないかのようにヒールでカツカツと駅まで一心不乱に歩いて、それでやって来た電車に飛び乗って、たまたま空いていた席に座ったところで………完全に一切記憶がない。どれだけ唸ってもぶっつり切れた闇しかない。
多分、寝ていたのだ。そしていつからから玲司にもたれかかって寝ていたと。
やらかした。
そうして気がついたら都内行きとは真反対の路線の終着駅で完全グロッキーになり、ホテルでこの状況。
情けない。
雪那は顔を手で覆ってため息をついた。
「ああ本当、情けない。そもそもコンペにこんなに負け続けるとか……悔しい。本当なんなのよ、ユースアラウンド社。ことごとく私の担当顧客に営業かけてきて……。でも悔しいのはあのシステム、ちょっとプレゼン聞いてるだけでもよくできてるのよね。うちの会社もああいう顧客要望に手の届くカスタマイズをしてほしいものだわ。営業意見なんてほとんど開発に反映されないんだもの」
「ふふ、嬉しいなあ。あれはね、雪那さんがあったらいいなって語ってたものをいっぱい詰め込んだんです」
「……ん?」
突然、雪那と名前を呼ばれたこともその文脈も全部が引っかかった。
のそりと顔を上げると、今にも触れそうなほどの近くに玲司の顔があった。左目の下にある黒子がはっきりと動いたのがわかるほど目を見開き切れ長の瞳を丸くする。
そんな雪那の頬に、次の瞬間、ふにゅと柔らかな感触があった。
「え……っ」
「ねえ、転職しません?ユースアラウンドは雪那さんに認めてもらうために作ったんですよ。その雪那さんが製品を売り込んでくれたら最高だなあ」
「は……?」
ウチ、営業はあんまり強くないから雪那さん顧客狙いで一点集中なんですよね、と彼は笑う。そのまま手櫛で一気に全て前髪を上げたその顔をじっと見て、思考が止まった。
見たことがある……ような……これに銀縁メガネをかけたら……?
「あっ、西岡通商ですれ違ったユースアラウンドの担当…?!いやていうか、バーで声かけてきた人っ?」
「あはは、やっとわかってもらえました?ちなみに担当じゃなくて一応、社長です。CEOって言い方の方が今時?」
「はい?」
情報が過多である。
気分は悪くなくなったが、まだまだポンコツなままの脳のCPUが処理速度を爆下げしている。無意味に唇を動かし、結局声にならなかった雪那を見て、また玲司はにっこりと笑う。
「雪那さん、ベロベロに酔ってるのにほんとガード固いんだもん。ほーんと、高嶺の花だよね。ゾワッとしたってひどいなあ。でも最後の最後は詰めが甘いよね」
「えっ、橋谷くん?!……ちょっ」
丁寧だった言葉遣いが突如砕けたものになったことも混乱した。体の前に手が回り仰向けにさせられると、そのまま両手を一掴みにベッドに押し付けられる。
体の上に自分のものじゃない圧を感じた。
目を見開いて視線を上げれば、爽やかイケメンになった、そして、にっくき商売敵となった、介抱してくれた元後輩の顔が、明らかに男の顔になっている。
「え……、なに……っ?」
「わかりますよね?男女がベッドの上で二人きり。早めに同意がもらえると嬉しいかなと」
「どういう……んっ?」
ちゅっ。
今度は唇に柔らかな感覚が一瞬だけ触れた。
全ての時間が止まり、少ししてから彼の親指が頬をゆっくりとなぞっている感覚に気がつく。その瞬間、ぼっと頬に熱がこもった。
「ヒェ……えっ?」
視線の先で、やっぱりあの嬉しそうな印象的な笑顔の玲司がいた。
「好きです、雪那さん」
「は?え?す、好き……?は?好き?なんで??」
「そのあたりは一晩かけてじっくり、ゆっくりわかりってもらいます。何でも質問してください。この時を5年も待ったんです。憎たらしい彼氏ともやっと別れてくれたことだし、本日、何が何でも雪那さんをオトす所存です」
「……え、いえ、所存と言われても……?」
唖然とした雪那において、とにかくなぜ店に置いてきたはずの男が、同じ電車で終点まで隣に座っていたのかが一番聞きたいことだった。