親友に婚約者を奪われた毛虫令嬢は、腹黒王子様に捕獲されてしまった〜この溺愛からはきっと逃れられない〜
3 ティナの宝物
「マーシャル侯爵家から、正式に婚約破棄の申し入れがあった」
お父様に呼び出され執務室に行くと、父は私を鋭いグレーの瞳で一瞥し、渋い表情で大きく息を吐いた。
「元はお前がビーン男爵令嬢を虐めたのが原因らしいな。アシュトン伯爵家の名に泥を塗るような真似をしおって!」
「……いえ、私はそのようなことは……っ」
「事の真偽はどうでもよい」
反論しようとするが、お父様に遮られてしまう。
「折角、侯爵家との縁談を結んでやったのに、この役立たずが。お前の母親と一緒だな」
お母様のことを言われ、私はぎゅっと拳を握り顔を伏せる。
「申し訳ございません」
頭を下げることしかできなかった。
「まぁ、いい。もう戻れ」
「はい……、失礼いたしました」
執務室からの帰り、屋敷の廊下で父の後妻である義母と、五歳になる異母弟のハリーとばったり出くわした。
義母はブラウンの長い髪を緩く巻いた、妖艶な美女だ。ハリーも義母に似て、とても可愛らしい顔立ちをしている。
「ティナさん、聞いたわ。婚約破棄されたんですってね?」
「は、はい……」
「気を落とさないでね」
目を細め微笑むと、ハリーを連れて歩いていった。遠ざかる二人の背中を見つめながら、一つ息を吐く。
父と平民出身の義母は恋人同士だったが、先代のアシュトン伯爵である祖父の猛反対に遭い、母との政略結婚が決まったのだと、伯母から聞いたことがある。そんな経緯からか、父と母は不仲だった。
母は伯爵家から嫁ぎ、跡継ぎの男児を授かることはできずに、私が十一歳の時に病で亡くなる。元々病弱だったという母と共に、私はずっと領地で過ごしていた。
母亡き後も私はそのまま十五歳まで領地で過ごし、デビュタントの年から王都で暮らし始めた。父のことは正直苦手だし、義母も悪い人ではなさそうだが、どう接すればいいか分からないでいる。
自室に戻り、私は本棚から蝶図鑑を取り出す。この図鑑は十五年ほど前に母が買ってくれた。何度も何度も繰り返し見ていたせいか、表紙は擦り切れボロボロになってしまっているが、この本は今でも私の大切な宝物だ。
私がまだ三、四歳くらいだった時のこと。庭園で葉っぱを一心不乱に食べている、緑の身体に黒い縞模様の芋虫を見つけて、その可愛い姿に釘付けになった。
「わぁ! あなただぁれ? むししゃん? もくもくたべてるわ。あ、そうだわ」
私は芋虫のいる葉っぱをむしり取り、母の部屋へと連れていった。
「おかーしゃま、このこ、おにわにいたの。なあに?」
母に葉っぱを差し出すと、私と同じヘーゼルの瞳を見開いた。
「あら、これはキアゲハの幼虫だわ」
「きあげはー? よーちゅ?」
「そうよ。ティナも知ってるでしょ? お庭でヒラヒラ飛んでいる蝶々ちゃんよー」
「ちょーちょ! しってる!」
「この子が大きくなると、あの蝶々ちゃんになるのよ」
(このムニムニのクネクネが、あのヒラヒラのちょうちょになるんだ!)
私は感動して、それから毎日庭園で芋虫や、毛虫を観察するようになる。そんな私に母がこの蝶図鑑を贈ってくれた。母が亡くなった後に私の心の支えになってくれたのは、この図鑑と虫たちだった。
だから、私は知らなかったのだ。あの過ちを犯すまで。
十三歳の時、三つ年上のピーター様と婚約が決まる。
私とピーター様は庭園を散歩するが、会話は続かないし、緊張と不安でどうしたらいいか分からない。そんな時、草むらで私の最推し、クマケムシを発見した。
クマケムシは全身こげ茶色のモフモフした毛並で、不器用そうな姿がどこか自分に似ているような気がしていた。
私は嬉しくなって毛虫を手のひらに乗せると、ピーター様にその子を見せる。
「ピーター様、見てください。クマケムシです! クマケムシはヒトリガという蛾の幼虫なのですが、見た目によらず動きが速く――きゃっ」
私が意気揚々と語っていると、ピーター様は突然私の手を払い除けた。
「やめろっ! そんなもの二度と僕に見せるな、気持ち悪いっ!」
そう怒鳴りつけ、ピーター様は私を残し去っていった。
その時初めて気付いたんだ。
(……私は気持ち悪いの? だったら、この『好き』は秘密にしなければならないんだわ……)
図鑑を腕に抱えソファに座ると、私は丁寧にページをめくる。
「あ、あったわ。モルフォ蝶」
図鑑に描かれた蝶は全てモノクロなのだが、細部の名称や、特徴、色など詳しく書かれている。
「ん~、やっぱり南国メイコブの蝶なのよね。どうしてこの国にいたのかしら?」
南国メイコブは蝶の国と呼ばれているほど、様々な蝶が生息している。
「あ、そういえば、あの蝶も」
キャビネットに視線を送る。そこにはガラスケースに入った赤と黒の模様の蝶が飾られている。図鑑には載っていないが、南国メイコブの蝶がモデルのレプリカだ。昨年ケイシー様から頂いたものだった。
ビーン男爵家は新しい事業で、貴重な蝶のレプリカを貴族相手に販売して成功したのだという。
私は仲良くなったケイシー様に、勇気を出して虫好きなことを打ち明けた。そのあと、
『これ試作品なのだけど、よかったらティナ様にあげるわ』
そう言ってケイシー様が手渡してくれた。私は嬉しくて、大事に飾っていたのだけど。
「あの時にはもう、私を裏切っていたの……?」
そう思うと再び胸の奥が苦しくなる。
親友も婚約者も同時に失ってしまった。
ソファの背もたれに寄りかかり目を閉じると、宙を舞う青いモルフォ蝶が瞼の裏に映し出される。
(本当に綺麗だった……。……そうよね。あんな貴重な蝶に出会えたんだもの、悪いことばかりではないわ)
そう考えると沈んだ気分が少し浮上してくる。
その時、ふと金色の光が脳裏をかすめたので、目を開けた。
庭園で、レノックス殿下と初めてお話ししたことを思い出す。夜会などでお見かけした時はいつもキラキラ輝いていて華やかな方だという印象だったけど、一人で庭園の端の茂みにいるなんて驚いた。
『凄いな、詳しいんだね』
殿下は私の知識を不快に思わず、素直に受け入れてくれた。
「きっともう、殿下とは話すことなんてないんだろうな……」
ぼんやりと天井を仰いでいると、段々と瞼が重くなってくる。
蝶を見つめる殿下の綺麗な横顔を、本当はもう少し眺めていたかったな、現実と夢の狭間でそう思いながら眠りに落ちていった。
お父様に呼び出され執務室に行くと、父は私を鋭いグレーの瞳で一瞥し、渋い表情で大きく息を吐いた。
「元はお前がビーン男爵令嬢を虐めたのが原因らしいな。アシュトン伯爵家の名に泥を塗るような真似をしおって!」
「……いえ、私はそのようなことは……っ」
「事の真偽はどうでもよい」
反論しようとするが、お父様に遮られてしまう。
「折角、侯爵家との縁談を結んでやったのに、この役立たずが。お前の母親と一緒だな」
お母様のことを言われ、私はぎゅっと拳を握り顔を伏せる。
「申し訳ございません」
頭を下げることしかできなかった。
「まぁ、いい。もう戻れ」
「はい……、失礼いたしました」
執務室からの帰り、屋敷の廊下で父の後妻である義母と、五歳になる異母弟のハリーとばったり出くわした。
義母はブラウンの長い髪を緩く巻いた、妖艶な美女だ。ハリーも義母に似て、とても可愛らしい顔立ちをしている。
「ティナさん、聞いたわ。婚約破棄されたんですってね?」
「は、はい……」
「気を落とさないでね」
目を細め微笑むと、ハリーを連れて歩いていった。遠ざかる二人の背中を見つめながら、一つ息を吐く。
父と平民出身の義母は恋人同士だったが、先代のアシュトン伯爵である祖父の猛反対に遭い、母との政略結婚が決まったのだと、伯母から聞いたことがある。そんな経緯からか、父と母は不仲だった。
母は伯爵家から嫁ぎ、跡継ぎの男児を授かることはできずに、私が十一歳の時に病で亡くなる。元々病弱だったという母と共に、私はずっと領地で過ごしていた。
母亡き後も私はそのまま十五歳まで領地で過ごし、デビュタントの年から王都で暮らし始めた。父のことは正直苦手だし、義母も悪い人ではなさそうだが、どう接すればいいか分からないでいる。
自室に戻り、私は本棚から蝶図鑑を取り出す。この図鑑は十五年ほど前に母が買ってくれた。何度も何度も繰り返し見ていたせいか、表紙は擦り切れボロボロになってしまっているが、この本は今でも私の大切な宝物だ。
私がまだ三、四歳くらいだった時のこと。庭園で葉っぱを一心不乱に食べている、緑の身体に黒い縞模様の芋虫を見つけて、その可愛い姿に釘付けになった。
「わぁ! あなただぁれ? むししゃん? もくもくたべてるわ。あ、そうだわ」
私は芋虫のいる葉っぱをむしり取り、母の部屋へと連れていった。
「おかーしゃま、このこ、おにわにいたの。なあに?」
母に葉っぱを差し出すと、私と同じヘーゼルの瞳を見開いた。
「あら、これはキアゲハの幼虫だわ」
「きあげはー? よーちゅ?」
「そうよ。ティナも知ってるでしょ? お庭でヒラヒラ飛んでいる蝶々ちゃんよー」
「ちょーちょ! しってる!」
「この子が大きくなると、あの蝶々ちゃんになるのよ」
(このムニムニのクネクネが、あのヒラヒラのちょうちょになるんだ!)
私は感動して、それから毎日庭園で芋虫や、毛虫を観察するようになる。そんな私に母がこの蝶図鑑を贈ってくれた。母が亡くなった後に私の心の支えになってくれたのは、この図鑑と虫たちだった。
だから、私は知らなかったのだ。あの過ちを犯すまで。
十三歳の時、三つ年上のピーター様と婚約が決まる。
私とピーター様は庭園を散歩するが、会話は続かないし、緊張と不安でどうしたらいいか分からない。そんな時、草むらで私の最推し、クマケムシを発見した。
クマケムシは全身こげ茶色のモフモフした毛並で、不器用そうな姿がどこか自分に似ているような気がしていた。
私は嬉しくなって毛虫を手のひらに乗せると、ピーター様にその子を見せる。
「ピーター様、見てください。クマケムシです! クマケムシはヒトリガという蛾の幼虫なのですが、見た目によらず動きが速く――きゃっ」
私が意気揚々と語っていると、ピーター様は突然私の手を払い除けた。
「やめろっ! そんなもの二度と僕に見せるな、気持ち悪いっ!」
そう怒鳴りつけ、ピーター様は私を残し去っていった。
その時初めて気付いたんだ。
(……私は気持ち悪いの? だったら、この『好き』は秘密にしなければならないんだわ……)
図鑑を腕に抱えソファに座ると、私は丁寧にページをめくる。
「あ、あったわ。モルフォ蝶」
図鑑に描かれた蝶は全てモノクロなのだが、細部の名称や、特徴、色など詳しく書かれている。
「ん~、やっぱり南国メイコブの蝶なのよね。どうしてこの国にいたのかしら?」
南国メイコブは蝶の国と呼ばれているほど、様々な蝶が生息している。
「あ、そういえば、あの蝶も」
キャビネットに視線を送る。そこにはガラスケースに入った赤と黒の模様の蝶が飾られている。図鑑には載っていないが、南国メイコブの蝶がモデルのレプリカだ。昨年ケイシー様から頂いたものだった。
ビーン男爵家は新しい事業で、貴重な蝶のレプリカを貴族相手に販売して成功したのだという。
私は仲良くなったケイシー様に、勇気を出して虫好きなことを打ち明けた。そのあと、
『これ試作品なのだけど、よかったらティナ様にあげるわ』
そう言ってケイシー様が手渡してくれた。私は嬉しくて、大事に飾っていたのだけど。
「あの時にはもう、私を裏切っていたの……?」
そう思うと再び胸の奥が苦しくなる。
親友も婚約者も同時に失ってしまった。
ソファの背もたれに寄りかかり目を閉じると、宙を舞う青いモルフォ蝶が瞼の裏に映し出される。
(本当に綺麗だった……。……そうよね。あんな貴重な蝶に出会えたんだもの、悪いことばかりではないわ)
そう考えると沈んだ気分が少し浮上してくる。
その時、ふと金色の光が脳裏をかすめたので、目を開けた。
庭園で、レノックス殿下と初めてお話ししたことを思い出す。夜会などでお見かけした時はいつもキラキラ輝いていて華やかな方だという印象だったけど、一人で庭園の端の茂みにいるなんて驚いた。
『凄いな、詳しいんだね』
殿下は私の知識を不快に思わず、素直に受け入れてくれた。
「きっともう、殿下とは話すことなんてないんだろうな……」
ぼんやりと天井を仰いでいると、段々と瞼が重くなってくる。
蝶を見つめる殿下の綺麗な横顔を、本当はもう少し眺めていたかったな、現実と夢の狭間でそう思いながら眠りに落ちていった。