あの娘と私

 「泰子」

 すれ違い様に一人の男性が私の名をこそっと呼び、付箋を私の手のひらに貼ってそして何事もなかったように去っていった。
 「今日、俺のうちで」と付箋には書いてある。

 彼は佐々木涼という。一か月前から付き合いだした私の彼氏だ。

 涼も同期の一人で、配属の前の研修の時に一緒の班だった。当時は私の完全な片思いだった。配属先が別だともう見つめることもできなくなる。それが不安だった。
 ところが、涼と私は偶然同じ事務所に配属になった。なんて幸運!
 彼は明るくて、とても前向きで、私にないものをたくさん持っている。

 そんな涼と仲良くなったのはなぜだったか。

 東京に集められて一か月行われた研修期間。
 班でお弁当をよく食べた。涼は口下手な私を気にしてかよく話を振ってくれた。気遣いのできる優しい彼は、私にとって向日葵のような、心を明るく照らしてくれる存在になった。
 涼が楽し気に話しているのを見るのが私の幸せな時間になった。

 研修も二週間がたち、折り返しになったので班のメンバーで飲みに行くことになった。
 私はお酒に強いほうだ。
 偶々隣の席になった涼のコップを見て、私はあら? と思った。飲み会の始めに乾杯したときの生ビールがほとんど残っていたのだ。
 「お酒、苦手?」
 こそっとたずねた私に、涼は苦笑いをしながら頷いた。
 「ほとんど飲めないんだ。飲み会の雰囲気は好きなんだけどね」

 飲み会も進むと、程よくお酒の回ってきたメンバーの中には、
 「佐々木! ほとんど酒、減ってないじゃないか! 何かたのめよ!」
 と絡んでくる人もいた。

 私は運ばれてくる涼へのお酒をこっそり飲んであげることにした。
 「木寺さんはお酒強いんだね」
 驚いて言った涼に、
 「九州の女だからね」
 と私は答えた。涼は私の言葉に可笑しそうに笑った。

 それがきっかけだった気がする。


 私たちはその日、ポツポツながらも話をして、お互い映画が好きだと知った。

 それ以来、研修の休み時間に互いに好きな映画の情報を交換するようになった。休みの日に一度だけ一緒に映画に行った。好きな人と映画。天にも昇る気持ちだった。

 配属が同じになり、一緒に映画に行ったり、DVDの貸し借りをしたりすることが増えた。それだけでも奇跡的だったのに、

 「俺、木寺さんといると気を使わなくていいし、楽しいな。俺と付き合わない?」

 と涼から言われ、付き合うことになったのだ。

 夢のようだった。



 涼は容姿端麗で目立つような存在ではない。でも、接すると気持ちがいい明るさと前向きさはどことなく田村さんとタイプが似ている気がする。


 私は涼が田村さんのことを好きになるのではないかと心のどこかで恐れている。
 私の杞憂であって欲しい。


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