本当はあなたに言いたかった

第31章|結菜の置き手紙(未遂)

 夜更けの自室は、音が少なかった。
 時計の針が進む音と、カーテンの隙間から入る風の音だけ。
 静かなはずなのに、結菜の胸の中はうるさい。

 ——婚約発表は目前。
 ——社内は“追い風”と言う。
 ——鷹宮の条件は整った。
 ——朝霧家は揺れない。

 揺れているのは、結菜だけだ。

 結菜はドレッサーの前に座り、ペンを握った。
 白い便箋。
 角の揃った封筒。
 書き出しの一行目を、何度も何度もやり直している。

 《拓真へ》
 それだけが、綺麗に書けた。
 それ以外は、書けない。

 栗色の巻き毛が肩に落ち、結菜はそれを指で耳にかけた。
 可愛らしい顔を鏡が映す。
 その顔は、令嬢の顔だ。
 でも今だけは、娘の顔になりたかった。

 結菜は、息を吸って、書いた。

 《ごめんね》

 たった四文字で、目の奥が熱くなった。
 ごめん。
 ごめん、と言うほど、何に謝っているのか増えていく。

 ——嘘をついたこと。
 ——逃げたこと。
 ——触らないでと言ったこと。
 ——好きなのに、守るふりをしたこと。

 結菜はペン先を止め、紙を見つめた。
 涙が落ちそうになって、睫毛の奥で止める。
 泣いたら、負ける。
 泣いたら、可哀想な令嬢になる。

 結菜は、次の行を書いた。

 《本当は、あなたに言いたかった》

 言いたかった。
 過去形にした瞬間、胸が痛い。
 言いたかったのに、言わなかった。
 言わなかったから、今こうなっている。

 結菜は、唇を噛んだ。

 (言えば、全部壊れる)

 父の言葉が蘇る。
 《片岡に漏らすな》
 祖父の言葉が刺さる。
 《余計な感情は捨てろ》
 鷹宮の穏やかな声が、さらに鎖を増やす。
 《波風を立てないでください》

 波風を立てたら、朝霧が揺れる。
 朝霧が揺れたら、結菜が原因になる。
 結菜が原因になったら、拓真は壊れる。

 ——だから、言えない。

 結菜は、震える手で続けた。

 《でも、言えなかった》

 紙の上に、ぽたりと小さな雫が落ちた。
 結菜は慌てて手の甲で拭う。
 拭った跡が、薄く滲む。
 文字が歪む。

 滲んだ文字が、結菜の心みたいだった。

 結菜は深呼吸し、次の言葉を書こうとして——止まった。

 《見合い》
 という単語が、頭の中で浮かぶ。
 書いた瞬間に、全てが現実になる。
 書かなくても現実なのに、書いたら拓真に届いてしまう。

 (届いたら、拓真は動く)

 動いたら戦争だ、と黒崎が言った。
 戦争になったら、結菜が一番困る。
 結菜が守りたい朝霧が、傷つく。
 結菜が守りたい拓真が、傷つく。

 だから——

 結菜は、紙の上に書けない。

 結菜は代わりに、別の行を書いた。

 《私がいなくても、あなたは大丈夫》

 嘘。
 自分に言い聞かせるための嘘。
 拓真に言いたい言葉じゃないのに、書いてしまう。
 書いてしまうほど、自分が弱い。

 結菜はペンを置き、紙を見た。
 《ごめんね》
 《本当は、あなたに言いたかった》
 《でも、言えなかった》
 《私がいなくても、あなたは大丈夫》

 どれも、拓真に読ませたくない言葉だった。
 読ませたら、拓真は否定する。
 否定して、動いて、壊す。

 結菜は、封筒を手に取った。
 そこに便箋を入れる寸前で、手が止まる。

 (……これを渡すのは、助けを求めることだ)

 助けを求めるな、と父は言った。
 朝霧は助けを買う側だ、と。
 結菜は朝霧の令嬢として、それを守らなければならない。

 結菜は目を閉じた。
 拓真の声が耳の奥で蘇る。

『なんで黙ってた』
『俺を信用してないのか』
『守りたいのに守れねぇ』

 結菜は、息が苦しくなった。
 この手紙を送れば、拓真はきっと来る。
 来てしまう。
 そして拓真は、結菜を抱きしめるか、怒鳴るか、どちらかだ。
 どちらにしても、噂が燃える。

 (言えば、全部壊れる)

 結菜は、ゆっくりと便箋を取り出した。
 封筒から外す。
 手紙を“送らない”という選択肢を、選ぶ。

 そして——

 結菜は便箋を、真ん中から破いた。

 紙が裂ける音は、思ったより大きかった。
 静かな部屋に、痛いほど響く。

 一枚。
 もう一枚。

 文字の部分が、裂けていく。
 《拓真へ》が、二つに割れる。
 《ごめんね》が、ちぎれる。
 滲んだインクが、さらに滲む。

 破れた紙片が、膝の上に落ちる。
 まるで、結菜の言えなかった言葉の残骸みたいだった。


 結菜は紙片を見つめ、笑った。
 笑うしかない。

「……馬鹿みたい」

 馬鹿みたいに好きで、馬鹿みたいに言えない。

 結菜は破れた紙を、そっとゴミ箱に落とした。
 落とした瞬間、胸の奥で何かがぎゅっと縮む。

 これで、拓真には届かない。
 届かないから、朝霧は守られる。
 届かないから、波風は立たない。

 ——届かないから、結菜は一人だ。

 結菜は立ち上がり、窓辺に近づいた。
 夜の街が光っている。
 誰もが自分の生活を続けている。

 結菜はガラスに指先を当て、ぽつりと呟いた。

「……私、何してるんだろ」

 答えは返らない。
 返らないまま、結菜は令嬢の顔を作る練習をする。
 明日も笑って立つために。

 婚約発表前夜が近づいている。
 整えられた未来が、もうすぐ“確定”になる。

 結菜は、もう一度だけ、心の中で拓真の名前を呼んだ。

 (拓真……ごめん)

 言葉は、紙にも、声にもできないまま。
< 31 / 42 >

この作品をシェア

pagetop