アンコールはリビングで
1 もち麦と毛玉と神様の素顔
トントントン、トン。
小気味よい包丁の音が、朝の澄んだ空気に溶けていく。
キッチンに立ち込めるのは、優雅なコーヒーの香り……ではなく、黄金色の出汁の香りだ。
鍋の中では、私が厳選した昆布と鰹節から取った一番出汁が、ふつふつと踊っている。
「……うん、いい香り」
私は大きく深呼吸をして、満足げに頷いた。
私の名前は、水沢凪(みずさわ なぎ)。今年で31歳になる。
数え年で言えば、恐怖の「本厄」ど真ん中。
かつては仕事に忙殺され、深夜の揚げ物とアルコールで身体を壊した私だが、今のテーマはズバリ「免疫力向上」だ。
腸内フローラを整え、この厄年を無病息災で乗り切る。それが私の至上命題なのだ。
「……ふわぁ……。おい、凪」
リビングのドアが開き、地を這うような低い声が降ってきた。
振り返ると、そこには身長185センチの巨大な物体が、ドア枠に気怠げに寄りかかっている。
「おはよう、湊。……またすごいね、それ」
私の視線は、彼――早瀬湊(はやせ みなと)の頭頂部に釘付けになった。
芸術的としか言いようがないほど爆発した寝癖。まるで現代アートだ。
国民的スターのオーラは、今朝も布団の中に置いてきたらしい。
「んー……腹減った……」
彼は重たそうに足をひきずって近づいてくると、私の背中にドスンと覆いかかってきた。
背中に感じるズッシリとした重みと、高い体温。
「ちょ、湊! 重いってば。今、お豆腐切るところなんだから」
「……んー。動くな、充電」
私の抗議なんて聞こえないふりをして、彼は私の首筋に顔を埋め、深呼吸するように匂いを嗅いでくる。
吐息が首にかかってくすぐったい。
2歳年下の彼は、外ではキリッとしているくせに、寝起きは驚くほど甘えん坊で、スキンシップ過多だ。
「……凪、また手の上で切ってんのかよ」
私の肩に顎を乗せたまま、彼が私の手元を覗き込んで不満げに鼻を鳴らす。
「見てるこっちがヒヤヒヤすんだよ。その指、怪我したらどうすんだ」
「大丈夫だってば。まな板出すより洗い物減るでしょ?」
「ケチくせぇなぁ……。俺にとっては大切な指なんだから、大事にしろよ」
ボソッと呟かれた言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。
こういう不意打ちの台詞をサラッと言うから、この男は侮れない。
「……ほ、ほら、座ってて! すぐできるから!」
「へいへい…照れんなって」
彼がようやく離れ、ダイニングテーブルにつく。
私は乱れた呼吸を整えながら、さいの目に切った豆腐と、たっぷりのきのこを鍋に投入し、味噌を溶き入れた。
完璧だ。これぞ日本の朝食。
「……よし。できたよ」
お椀と、湯気の立つご飯、そして昨日の残りのひじきの煮物をテーブルに並べる。
「……また茶色いな」
湊がテーブルを見渡し、やれやれと言いたげに眉を寄せた。
「なんかこう、ベーコンエッグとかさぁ、パンケーキとかさぁ、そういう『映える』もん食いたくねぇ?」
「だーめ。湊、昨日ロケ弁で揚げ物食べたって言ってたでしょ? 胃が疲れてるんだから、こういうのが一番いいの」
「ちぇっ。……俺はジャンクなもんが食いてぇんだよ」
「文句言わない。腸内環境整えないと、今度のツアー持たないよ?」
「……はいはい。分かりましたよ、健康オタク様」
彼はふてぶてしく言い返しながらも、大人しく箸を持った。
この「口では反抗するけど、結局私の言うことを聞く」ところが、年下彼氏の可愛いところだ。
「いただきます」
「……いただきます」
彼が味噌汁を一口すする。
その瞬間、不機嫌そうだった眉間の皺が、ふわりと解けた。
「……あー、美味ぇ」
「でしょ? 今日のは昆布多めにしたの」
「……染みるわ。マジで」
彼は二口、三口と続けざまに口に運ぶ。
文句を言いながらも、結局、彼は私の作る地味な和食が大好きなのだ。
愛おしさがこみ上げて、私は頬杖をついて彼を見つめた。
「……ん? なんだこれ」
彼がご飯を口に入れて動きを止めた。
「なんか、すげぇ弾力あんだけど」
「あ、気づいた? もち麦入れてみたの。食物繊維が白米の20倍なんだって」
「……また変なもん入れやがって。ゴム食ってるみてぇだ」
「ゴムじゃないよ、プチプチでしょ? ちゃんと噛まないと消化に悪いからね」
「チッ。……アゴ疲れるんだよ…」
悪態をつきながらも、彼は茶碗一杯のご飯を綺麗に平らげた。
その食べっぷりの良さに、私はこっそりと勝利のガッツポーズをする。
世界中のファンが見たら卒倒するだろう。彼らの推しが、ゴムみたいなご飯を文句タラタラで完食しているなんて。
「ごちそうさん。……さて、行くか」
完食した食器を流しに運ぶと、彼が立ち上がった。
その瞬間、部屋の空気がピリッと変わる。
……はずだったのだが。
「……って、ちょっと待って」
私は彼を呼び止めた。
「湊、まさかその格好でスタジオ行く気?」
彼が着ているのは、首元が若干ヨレて、全体的にうっすら毛玉が見えるグレーのスウェットのセットアップだ。
確かに形は綺麗だが、どう見ても「着古した部屋着」にしか見えない。
「あ? なんでだよ。これ一番しっくりくんだよ」
「しっくりって……それ、私があげたやつだよね? 3年前の誕生日に」
そう。あれは私たちが付き合い始めた頃。
当時まだデビューしたてだった彼に、私が「少しでも良いものを着てほしい」と、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った有名ブランドのスウェットだ。
まさか3年間、こんなになるまで着倒されるとは夢にも思っていなかった。
「もうボロボロじゃん。膝とか出ちゃってるし、新しいの着なよ」
「やだね。これが一番身体に馴染んでんの。……それに」
彼はそこで言葉を切り、視線を泳がせた。
そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟く。
「……これ着てっと、凪と一緒にいるみたいで落ち着くんだよ」
「……え?」
私の顔が一気に熱くなる。
何それ。反則じゃない?
「……なんでもねぇよ! 上着羽織りゃ分かんねぇだろ!」
彼は赤くなった耳を隠すように背を向けると、クローゼットからロングコートを取り出し、強引に毛玉スウェットの上に羽織った。
マスクを目深につけ、キャップを被る。
するとどうだ。
さっきまでの「毛玉男」が、一瞬で「オーラ全開の国民的スター」に早変わりした。
(……悔しいけど、やっぱりかっこいい)
「んじゃ、行ってくる」
「うん。……あ、マスクずれてる!」
私が背伸びをしてマスクを直そうとすると、彼は私の手首を優しく掴んだ。
そして、慣れた様子で身を屈め、マスク越しではなく、マスクをずらして私の唇に軽くキスを落とした。
「……ん」
甘い一瞬。
さっきまでの憎まれ口が嘘のような、熱を帯びた優しい瞳が、至近距離で私を見つめる。
「……お前も、無理すんなよ。厄年とか気にしてビクビクすんな」
「はいはい、余計なお世話ですー」
「ふっ。……じゃあな」
彼がニヤリと笑い、満足げにドアを開ける。
朝の光の中へ、彼は吸い込まれていった。
ガチャリ。
重厚なドアが閉まり、静寂が戻る。
「……はぁ」
私は大きく息を吐き、熱を持った頬を両手で包み込んだ。
瞬時に「彼女モード」のスイッチを切らないと、心臓が持たない。
ここからは戦場だ。
手早く食器を洗い、部屋を片付け、メイクをする。
鏡に映るのは、どこにでもいる中堅会社員の顔。
さっきまで、この国で一番輝く男に溺愛されていたなんて、自分でも信じられない。
「……よし、行くか」
パンプスを履き、私も家を出る。
駅へ向かう道すがら、スマホを開くと、ニュースアプリのトップに彼の名前があった。
『早瀬湊、待望のニューアルバム発売決定』
画面の中の彼は、洗練された衣装を身に纏い、クールに微笑んでいる。
(……さっきまで、ゴムみたいって言いながらもち麦食べてた人が、ね)
駅に着くと、満員電車が口を開けて待っていた。
彼は島崎さん(マネージャー)の運転する快適な車でスタジオへ向かっている頃だろう。
対する私は、おじさんの整髪料の匂いと、誰かの鞄の角に押しつぶされながら会社へ向かう。
「……格差だなぁ」
吊革に掴まりながら、小さく呟く。
住む世界が違う。見ている景色も違う。
それでも、あのボロボロのスウェットを「落ち着くから」と言って着続けてくれる彼が、私の帰る場所なのだ。
電車の揺れに身を任せながら、私は今日一日のタスクを頭の中で組み立て始めた。
彼がスタジオで「神様」になるなら、私はオフィスで「戦士」になるだけだ。
そして夜には、またあのリビングで、二人で笑ってご飯を食べる。
そのために、今日も戦うのだ。
戦いのゴングは、もう鳴っている。
小気味よい包丁の音が、朝の澄んだ空気に溶けていく。
キッチンに立ち込めるのは、優雅なコーヒーの香り……ではなく、黄金色の出汁の香りだ。
鍋の中では、私が厳選した昆布と鰹節から取った一番出汁が、ふつふつと踊っている。
「……うん、いい香り」
私は大きく深呼吸をして、満足げに頷いた。
私の名前は、水沢凪(みずさわ なぎ)。今年で31歳になる。
数え年で言えば、恐怖の「本厄」ど真ん中。
かつては仕事に忙殺され、深夜の揚げ物とアルコールで身体を壊した私だが、今のテーマはズバリ「免疫力向上」だ。
腸内フローラを整え、この厄年を無病息災で乗り切る。それが私の至上命題なのだ。
「……ふわぁ……。おい、凪」
リビングのドアが開き、地を這うような低い声が降ってきた。
振り返ると、そこには身長185センチの巨大な物体が、ドア枠に気怠げに寄りかかっている。
「おはよう、湊。……またすごいね、それ」
私の視線は、彼――早瀬湊(はやせ みなと)の頭頂部に釘付けになった。
芸術的としか言いようがないほど爆発した寝癖。まるで現代アートだ。
国民的スターのオーラは、今朝も布団の中に置いてきたらしい。
「んー……腹減った……」
彼は重たそうに足をひきずって近づいてくると、私の背中にドスンと覆いかかってきた。
背中に感じるズッシリとした重みと、高い体温。
「ちょ、湊! 重いってば。今、お豆腐切るところなんだから」
「……んー。動くな、充電」
私の抗議なんて聞こえないふりをして、彼は私の首筋に顔を埋め、深呼吸するように匂いを嗅いでくる。
吐息が首にかかってくすぐったい。
2歳年下の彼は、外ではキリッとしているくせに、寝起きは驚くほど甘えん坊で、スキンシップ過多だ。
「……凪、また手の上で切ってんのかよ」
私の肩に顎を乗せたまま、彼が私の手元を覗き込んで不満げに鼻を鳴らす。
「見てるこっちがヒヤヒヤすんだよ。その指、怪我したらどうすんだ」
「大丈夫だってば。まな板出すより洗い物減るでしょ?」
「ケチくせぇなぁ……。俺にとっては大切な指なんだから、大事にしろよ」
ボソッと呟かれた言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。
こういう不意打ちの台詞をサラッと言うから、この男は侮れない。
「……ほ、ほら、座ってて! すぐできるから!」
「へいへい…照れんなって」
彼がようやく離れ、ダイニングテーブルにつく。
私は乱れた呼吸を整えながら、さいの目に切った豆腐と、たっぷりのきのこを鍋に投入し、味噌を溶き入れた。
完璧だ。これぞ日本の朝食。
「……よし。できたよ」
お椀と、湯気の立つご飯、そして昨日の残りのひじきの煮物をテーブルに並べる。
「……また茶色いな」
湊がテーブルを見渡し、やれやれと言いたげに眉を寄せた。
「なんかこう、ベーコンエッグとかさぁ、パンケーキとかさぁ、そういう『映える』もん食いたくねぇ?」
「だーめ。湊、昨日ロケ弁で揚げ物食べたって言ってたでしょ? 胃が疲れてるんだから、こういうのが一番いいの」
「ちぇっ。……俺はジャンクなもんが食いてぇんだよ」
「文句言わない。腸内環境整えないと、今度のツアー持たないよ?」
「……はいはい。分かりましたよ、健康オタク様」
彼はふてぶてしく言い返しながらも、大人しく箸を持った。
この「口では反抗するけど、結局私の言うことを聞く」ところが、年下彼氏の可愛いところだ。
「いただきます」
「……いただきます」
彼が味噌汁を一口すする。
その瞬間、不機嫌そうだった眉間の皺が、ふわりと解けた。
「……あー、美味ぇ」
「でしょ? 今日のは昆布多めにしたの」
「……染みるわ。マジで」
彼は二口、三口と続けざまに口に運ぶ。
文句を言いながらも、結局、彼は私の作る地味な和食が大好きなのだ。
愛おしさがこみ上げて、私は頬杖をついて彼を見つめた。
「……ん? なんだこれ」
彼がご飯を口に入れて動きを止めた。
「なんか、すげぇ弾力あんだけど」
「あ、気づいた? もち麦入れてみたの。食物繊維が白米の20倍なんだって」
「……また変なもん入れやがって。ゴム食ってるみてぇだ」
「ゴムじゃないよ、プチプチでしょ? ちゃんと噛まないと消化に悪いからね」
「チッ。……アゴ疲れるんだよ…」
悪態をつきながらも、彼は茶碗一杯のご飯を綺麗に平らげた。
その食べっぷりの良さに、私はこっそりと勝利のガッツポーズをする。
世界中のファンが見たら卒倒するだろう。彼らの推しが、ゴムみたいなご飯を文句タラタラで完食しているなんて。
「ごちそうさん。……さて、行くか」
完食した食器を流しに運ぶと、彼が立ち上がった。
その瞬間、部屋の空気がピリッと変わる。
……はずだったのだが。
「……って、ちょっと待って」
私は彼を呼び止めた。
「湊、まさかその格好でスタジオ行く気?」
彼が着ているのは、首元が若干ヨレて、全体的にうっすら毛玉が見えるグレーのスウェットのセットアップだ。
確かに形は綺麗だが、どう見ても「着古した部屋着」にしか見えない。
「あ? なんでだよ。これ一番しっくりくんだよ」
「しっくりって……それ、私があげたやつだよね? 3年前の誕生日に」
そう。あれは私たちが付き合い始めた頃。
当時まだデビューしたてだった彼に、私が「少しでも良いものを着てほしい」と、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った有名ブランドのスウェットだ。
まさか3年間、こんなになるまで着倒されるとは夢にも思っていなかった。
「もうボロボロじゃん。膝とか出ちゃってるし、新しいの着なよ」
「やだね。これが一番身体に馴染んでんの。……それに」
彼はそこで言葉を切り、視線を泳がせた。
そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟く。
「……これ着てっと、凪と一緒にいるみたいで落ち着くんだよ」
「……え?」
私の顔が一気に熱くなる。
何それ。反則じゃない?
「……なんでもねぇよ! 上着羽織りゃ分かんねぇだろ!」
彼は赤くなった耳を隠すように背を向けると、クローゼットからロングコートを取り出し、強引に毛玉スウェットの上に羽織った。
マスクを目深につけ、キャップを被る。
するとどうだ。
さっきまでの「毛玉男」が、一瞬で「オーラ全開の国民的スター」に早変わりした。
(……悔しいけど、やっぱりかっこいい)
「んじゃ、行ってくる」
「うん。……あ、マスクずれてる!」
私が背伸びをしてマスクを直そうとすると、彼は私の手首を優しく掴んだ。
そして、慣れた様子で身を屈め、マスク越しではなく、マスクをずらして私の唇に軽くキスを落とした。
「……ん」
甘い一瞬。
さっきまでの憎まれ口が嘘のような、熱を帯びた優しい瞳が、至近距離で私を見つめる。
「……お前も、無理すんなよ。厄年とか気にしてビクビクすんな」
「はいはい、余計なお世話ですー」
「ふっ。……じゃあな」
彼がニヤリと笑い、満足げにドアを開ける。
朝の光の中へ、彼は吸い込まれていった。
ガチャリ。
重厚なドアが閉まり、静寂が戻る。
「……はぁ」
私は大きく息を吐き、熱を持った頬を両手で包み込んだ。
瞬時に「彼女モード」のスイッチを切らないと、心臓が持たない。
ここからは戦場だ。
手早く食器を洗い、部屋を片付け、メイクをする。
鏡に映るのは、どこにでもいる中堅会社員の顔。
さっきまで、この国で一番輝く男に溺愛されていたなんて、自分でも信じられない。
「……よし、行くか」
パンプスを履き、私も家を出る。
駅へ向かう道すがら、スマホを開くと、ニュースアプリのトップに彼の名前があった。
『早瀬湊、待望のニューアルバム発売決定』
画面の中の彼は、洗練された衣装を身に纏い、クールに微笑んでいる。
(……さっきまで、ゴムみたいって言いながらもち麦食べてた人が、ね)
駅に着くと、満員電車が口を開けて待っていた。
彼は島崎さん(マネージャー)の運転する快適な車でスタジオへ向かっている頃だろう。
対する私は、おじさんの整髪料の匂いと、誰かの鞄の角に押しつぶされながら会社へ向かう。
「……格差だなぁ」
吊革に掴まりながら、小さく呟く。
住む世界が違う。見ている景色も違う。
それでも、あのボロボロのスウェットを「落ち着くから」と言って着続けてくれる彼が、私の帰る場所なのだ。
電車の揺れに身を任せながら、私は今日一日のタスクを頭の中で組み立て始めた。
彼がスタジオで「神様」になるなら、私はオフィスで「戦士」になるだけだ。
そして夜には、またあのリビングで、二人で笑ってご飯を食べる。
そのために、今日も戦うのだ。
戦いのゴングは、もう鳴っている。
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