08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

EP95 前夜(1)

 ユイ・リア・カイドウとミカゲ・カイ・マガミの婚姻式を前日に控えたその夜。
 一度はベッドに入ったものの、深夜になってから目が覚めてしまった。
 キングサイズの大きなベッドにたった一人。
 一度だけミカゲが横で寝たことがあった。
 明日の夜からはもうこのベッドで一緒に寝ることになるだろう。
 そう思うと胸が張り裂けそうだった。

 ユイは左手の薬指を見つめる。
 本当はヒロトから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まるはずだった指。
 今はそこにミカゲから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まっている。

「なんでこんなに切ないの……。やめよ……」

 苦しいのも切ないのも全部、自分が選んだ結果だ。
 今更、後悔してどうするのだ。
 アヤカがユーリの面倒をみてくれている。
 明日のために少しでも寝ておきなさいと、彼女は言ってくれた。
 
 窓からの月光に照らされた純白のウェディングドレスを見つめる。
 母が着たウェディングドレスをリメイクしたものだ。
 今はそのドレスを見るのが辛い。

 ユイは部屋を出て、キッチンへ向かった。
 何がしたかったわけでもない。
 一心不乱に手を動かすことで、忘れたかった。 
 上書きされてしまう自分の未来への恐怖を。
  
 大きな冷蔵庫のそばに、小さな冷蔵庫がある。
 それはユイがひとり暮らしをしていた頃に使用していた冷蔵庫だ。
 今はMathew用のお菓子の食材が入っている。
 Mathewはお菓子作りが気に入ったらしく、趣味なのかスイーツを作る。
 この間は赤い野菜を使って奇抜なクッキーを作っていた。
 
(本当にヒロトが言ったとおりになっちゃったな……)

『マシューはきっとユイの胃袋を掴むと思う』

 ヒロトはそれだけは渡したくないと言っていた。
 あの時はマシューが胃袋を掴むことが確定するのか分からなかった。
 でもあの頃からヒロトにはこの未来が見えていたのだ。

 ユイは苦笑する。
 ヒロトは何もかも分かっていながら――、
 それでも最後に『ずっと君のそばにいると誓う』と言葉を残す、そんな人。
 そんなヒロトに愛されて、どれだけ幸せだっただろう。

 そう思いながら、ユイは生地を丁寧に計量していく。
 昔は計量せずに材料を適当に計ってた。
 マシューにそれを指摘され、丁寧に計量をするようになった。
 すると調理が、驚くほど上達したし味付けに磨きがかかった。
 そんなマシューさえも、もう手の届く場所には居ない。

 ――そう、愛した存在はみんな消えていく。
 だから、もう誰も、愛せない。……愛してはならない。

「……ユイ。どうした……? 眠れないのか?」

 トレイには使用済みのコーヒーカップが6つ載っている。

「あ……」

 入口にはMathewが立っていた。
 黒いシャツにラフな綿パン。
 執事服でも護衛の制服でもない服装のMathewを見るのは初めてだ。

「ちょっと……ね、手を動かしてみたくなったの」

 ざわつく心臓をクールダウンさせながら、ユイは生地を捏ねた。
 Mathewは何も言わない。
 ただ視線を感じる。穏やかだけど熱い……その視線を。
 Mathewはキッチンの脇にあるお菓子のレシピ本を手に取り、開き始めた。
 それはかつて私が使っていたものだ。
 
「……つくる物は、既に決まっているのか?」
「うん。……アーモンドを使ったお菓子にしようと思ってる」   
  
 22ページ目のフロランタン。
 ここに当時からの付箋がまだついてる。
 このフロランタンが気に入って何度も挑戦した。
 でも、いつもうまく焼けなかった。
    
「ユイはこれが好きだったな。何度も作っていた」  
「……覚えているんだね」
「そうだな。焦がすことを懸念して、火力を随分加減していたと思う」

 Mathewは距離を取って、腰かけに座わる。
 よく見ていると思った。
 でもそんな指摘は一度もしたことが無かったと思う。
 
「側にいてくれるの? あの時みたいに」
「ああ。俺がここに居ても良いならな。……独りになりたかったんだろう?」
 
 Mathewはちゃんとわかっている。
 私がここにいる理由を。
 私が必死で維持しようとしている境界線を守ろうとしてくれる。  

「違うよ。ホントはそうじゃない」

 独りになりたかったのではなく、今夜だけはあなたと一緒にいたかった。
 そんな言葉をユイは呑み込んだ。

「全ての熱が境界線を壊すわけではない。熱そのものを否定する必要はない……と思う」
「え……?」

 ユイは耳を疑った。
 今、なんて――?
 思わず手が滑った。
 アーモンドを刻んでいた小さな包丁が、まな板からずれ落ちた。
 乾いた音を立てて床に転がる。
 
「しょうがない奴だな……、気を付けてくれ」   
 
 無表情のまま、Mathewは転がる包丁を拾い、水を貼った桶の中に入れる。
  
「あ、うん。……ありがとう」

 冷静な声でそう言うのが精いっぱいだった。
 Mathewの言葉を理解しようと、受け止めようとすればするほど心臓が高鳴る。

 それから2時間。
 フロランタンは初めて成功した状態で焼き上がった。
 窓に目をやれば、以前マシューとみたあの東雲の光が見える。
 
「今なら1時間でも眠れるはずだ」

 ユイは頷く。
 自分が選んだ道から逃げないとあの日、決めた。
 それはいまも続くのだ。

「おやすみ、Mathew。それとね、……ありがとう」

 その“ありがとう”に言葉にしてはならない想いを隠す。
 熱を否定する必要はないと言いながら、境界線は保たなければならない。

(いつから……? いつから私は……)

 ――あなたを想うのは罪じゃない。でもあなたを想った結果を望んでしまう。  

 去っていくユイの背中をMathewは以前のように追いかけなかった。
 Mathewはただ独りキッチンで沈黙したまま、その目をゆっくりと閉じた。
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