元夫と観葉植物
喉の渇きを覚えて、香澄は目を覚ました。
ぼんやりと天井を見つめる。胸の奥に、言葉にならない既視感が広がる。

懐かしい。

次の瞬間、記憶が追いついた。ここは、かつて夫婦で使っていた寝室だ。
すぐ隣から、穏やかな寝息が聞こえる。
香澄は、確かにあの家にいる。かつて暮らしていた、あの場所に。

どうして。

昨夜の記憶は、きれいに抜け落ちている。香澄は息を殺し、恐る恐る左へ視線を移した。
そこにいたのは、上半身裸のまま、静かに眠る元夫だった。
香澄は、思わず自分の身体に視線を落とした。

着ている。

けれど、それは自分の服ではなかった。元夫・豊のTシャツだと気づいた瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。

「……え?」
掠れた声が、喉から零れた。昨夜の記憶は、相変わらず白紙のままだ。

もしかして。私たち、してしまったの?

考えようとした途端、こめかみの奥がずきりと痛んだ。香澄は身を起こし、サイドテーブルに手を伸ばす。
置かれていたグラスの水を掴み、喉を鳴らして一気に飲み干した。豊は気持ちよさそうに眠り続けている。
香澄は胸に湧き上がる問いを飲み込み、音を立てないよう、そっとベッドを抜け出した。
薄暗い部屋でも、すぐにわかる。床には脱ぎ捨てられた服。壁際には無造作に積み上げられた本。
反対側のサイドテーブルには、使ったままのグラスがいくつも並んでいる。

香澄は小さくうんざりしながら、静かに寝室を出た。
かつて二人で暮らした部屋は、見事なまでに散らかり放題だ。
テーブルの上には、開封途中の郵便物や重要そうな紙と、もう役目を終えた紙とが、区別されないまま混在していた。
どれも「汚い」わけではない。ただ、すべてが途中で止まり、そこに置かれていた。
香澄は息を止めた。片づいていないというより、豊の頭の中がそのまま散らばっている。
自分の服を探してみたが、見当たらない。諦めたように、ふうっと息を吐く。

とりあえず、コーヒーでも。

そう思ってキッチンへ向かうと、そこもまた、変わっていなかった。
シンクにはマグカップやグラスが無造作に置かれている。
香澄は、思わず立ち止まる。食器棚の配置も、テーブルの位置も、十年前のままだ。
コーヒーメーカーさえ、同じ場所に鎮座している。

スイッチを入れると、ほどなくして馴染みのある香りが立ちのぼり、ポコポコと小気味いい音がキッチンに満ちていく。
その音を聞きながら、香澄は黙々と汚れた食器をすすぎ、食洗機に並べた。
戸棚を開けると、見覚えのあるマグカップが目に入った。無意識のままそれを取り出し、淹れたばかりのコーヒーを注ぐ。

まだ肌寒い季節だ。香澄はベランダへ続くドアを少しだけ開けた。冷えた空気が、静かに室内へ流れ込んでくる。
ソファに置きっぱなしになっていた豊のカーディガンを肩に羽織り、両手でマグカップを包み込んだ。
一口含む。苦みと温もりが、ゆっくりと身体に広がる。
視線の先には、十年前とほとんど変わらない景色。配置も、見える範囲の建物も、記憶の中と驚くほど同じだ。

……十年、か。

胸の奥で、時間の重みを噛みしめる。そして、ふと疑問が浮かんだ。

私たち、どうして離婚したんだっけ。

思い出せないことが、不思議なほど静かに胸に落ちてきた。ベランダから、室内を振り返る。

……ああ、そうだった。

この光景。片づけられないままの部屋。床に残る物の気配が、記憶を一気に呼び戻す。
あの頃の私は、これに心底うんざりしていた。

豊は、片づけられない男だった。そして香澄は、片づけられる女だった。それも、少し行き過ぎるほどに。
一つ一つを元の場所に戻さずにはいられない。散らかりを見過ごすことができない。片づけても、片づけても、部屋はすぐ元に戻る。
努力は、なかったことのように消えていく。やがて香澄は、疲れ果てた。怒ることさえ、無駄に思えるほどに。

だから、彼の出張中を選んだ。離婚届と、外した指輪をテーブルに置いて。何も言わず、振り返らず、家を出た。
あれは、逃げだったのか。それとも、自分を守るための選択だったのか。
コーヒーを口に運びながら、香澄はふと、豊と出会った頃のことを思い返した。

香澄が豊と出会ったのは、親友・梓の家だった。
仕事を終え、書斎からリビングへ出てきた男と、ふと目が合った瞬間のことだ。
理由はない。ただ、その一瞬で、心を持っていかれた。

豊は大企業で専務秘書を務めており、香澄より六歳年上だった。背筋が伸び、言葉遣いも動作も無駄がなく、感情を表に出さない。
交際を切り出したのは、香澄のほうだった。何度も誘い、何度も断られ、それでも諦めなかった。
慎重で、仕事を優先する男と、直感で動き、感情を隠さない女。正反対だったからこそ、噛み合った。

香澄はマグカップを見つめながら、そっと息を吐いた。

豊は多忙で、なかなか会えなかった。それでも、時間を見つけては香澄のアパートに顔を出してくれた。
仕事帰りに立ち寄り、短い時間を一緒に過ごす。それだけで十分だと思えていたし、香澄は幸せだった。
けれど、いつまで経っても、豊のマンションに招かれることはなかった。
その事実が、少しずつ胸に引っかかり始める。

「ねえ……どうして?」
ある夜、香澄は思い切って切り出した。豊は一瞬、言葉を失ったように視線を逸らす。

「もしかして、ほかに彼女がいるの?」
「……違う」

即答だった。それなのに、続く言葉が出てこない。

「じゃあ、なに?」
「……そうじゃなくて」

沈黙が落ちる。耐えきれず、香澄が畳みかけた。
「私、遊び?」

豊は困ったように眉を寄せ、しばらく黙ったまま。やがて、観念したように口を開いた。
「……俺の家、ごちゃごちゃなんだよ」
「え?」
「片づけられない。かなり散らかってる」

香澄は目を瞬かせる。想定していた答えと、あまりにも違った。
「……汚れ部屋、ってこと?」
「いや……そこまでじゃないと思うけど」

歯切れの悪い返答に、香澄はふっと息を吐いた。
「わかった。今から連れてって」

「え?」
豊の顔が、明らかに強張る。

「嫌だな」
「なんで?」

少し間があって、豊が視線を落としたまま、ぼそりと言った。
「……嫌われたくないから」

思いがけない言葉に、香澄は一瞬、息を止める。
「香澄の部屋、いつもきちんとしてるだろう?」
「うん」
「俺の家は、まったく正反対なんだ」
「え? 意外」

香澄は思わず声を上げた。
「だってユタちゃん、仕事は完璧じゃない。書類だって信じられないくらい丁寧に分類してるし。大げさに言えば、ちょっと神経質なところもある」

豊は苦笑して、肩をすくめる。

「仕事はな。でも、プライベートは駄目なんだ」
「……そうなの?」
「多忙なのもあるけど、単純に苦手なんだよ。片づけるのが」

さらに言い添えるように、豊は続けた。
「それに今日は、出張から直帰でここに来ただろ。たぶん、いつも以上にひどい」
一瞬、逡巡するように唇を噛み、豊は首を振った。
「やっぱり駄目だ。別の日にしてくれ」

即座に、香澄は首を横に振った。
「嫌。今、行きたい」
「香澄……」

少しだけ声を落として、真っ直ぐに言う。香澄は重ねて言い、そっと付け加えた。
「嫌いになんて、ならないよ」

その言葉に、豊はしばらく動かなかった。視線を伏せたまま、深く、ひとつ息を吐く。
諦めとも、決意ともつかない沈黙のあと、ゆっくりと立ち上がった。

「……わかった」
短く、けれどはっきりと。
「行くぞ」

それだけ告げて、先にドアへ向かう背中は、どこか覚悟を決めた男のそれだった。



二人は、豊のマンションのドアの前に立っていた。

「……本当に入るんだな?」
確認するように、豊が言う。香澄は一瞬も迷わず、頷いた。
「ええ。入るわ」

鍵が回り、ドアが開く。途端に、出張中ずっと閉じ込められていた空気が、鼻を突いた。
香澄は顔をしかめることもなく、靴を脱ぎ、ずんずんと中へ入っていく。

「ちょっと、空気替えるわね」
そう言ってベランダのガラス戸を開け放つと、冷えた外気が一気に流れ込んだ。
背後で、豊が照明のスイッチを入れる。白い光が広がり、部屋の全貌があらわになった。
香澄は、言葉を失う。
床一面に広がる衣類。積み上げられた書類の山。読みかけの本、脱ぎ捨てられたジャケット。
豊が、ため息まじりに言った。
「……だから言ったろ?」

「うん。想像以上ね」
香澄はゆっくりと視線を巡らせながら続けた。
「びっくりを通り越してる。何て言えばいいのか、正直わからない」

「いや、ちゃんと言ってると思うぞ」
苦笑まじりの返答に、香澄はふっと息を吐く。
「……ほかの部屋も見てもいい?」
「ああ。たぶん、どこも同じだ」

寝室、書斎、洗面所。一つ一つ覗きながら、香澄はあることに気づいた。散らかってはいる。けれど…

「……ゴミが、あまりないわね」
「ああ。それだけは気をつけてる。このマンション、いつでもゴミを出せるんだ」

視線を巡らせながら、さらに続けた。
「ほら、コードレスの掃除機もあるだろ。俺、片づけは苦手だけど、ゴミはちゃんと捨てる」

言い訳でも開き直りでもない、淡々とした事実の説明だった。
豊はソファに置かれていた衣類をまとめて掴み、そのまま寝室のベッドの上へ運ぶ。

「ねえ……お掃除サービス、雇えば?」

何気なく口にした香澄に、豊はすぐ首を振った。
「雇ったことはある。でもな、基本、知らない他人に家の中を触られるのは嫌なんだ」

香澄は少し考えてから、静かに言った。
「じゃあ……私、片づけよっか?」

その瞬間、豊の表情が変わった。
「やめてくれ」

きっぱりとした声。
「香澄は俺の恋人で、家政婦じゃないだろ」

香澄は一瞬言葉を失い、それからゆっくり首を横に振った。
「うん、違うよ」

否定は柔らかい。
「でも……ここに、私の居場所も欲しいなって思っただけ」

その言葉に、豊は思わず目を見開いた。
「……香澄。今、それを言うか?」

豊の声は低く、戸惑いを含んでいた。
「本気で、言ってるのか」

答えを待つ間も与えず、豊は香澄を引き寄せる。腕の中に収め、顔を覗き込んだ。視線が近い。
呼吸の温度が、はっきりと伝わる距離。香澄は逃げなかった。まっすぐにその目を見返し、頷く。
「うん。本気」

あの夜のことを思い出す。混乱も、戸惑いも、片づけられない部屋も、そのまま抱えたまま。
それでも、豊はプロポーズしたのだ。



香澄は、空になったマグカップに、もう一度コーヒーを注いだ。立ちのぼる香りに、過去と現在がゆっくりと重なっていく。
あのときは、それで十分だと思った。違いごと、受け取れる気がしていた。

若かったのね。

変わらずそこにあるもの。そして、十年前……いや、それ以前から、ずっとそこにあり続けているもの。
過去から今この瞬間まで、時間を越えて残っているもの。香澄は、無意識のうちに視線を壁際へと向けていた。
しばらく、ただ見つめる。記憶と現実が、ゆっくりと重なっていく。

……ああ。あの植物だ。

自分が選び、ここに置いていった観葉植物。手入れのいらない種類を、わざわざ選んだはずだった。
それでも…今、目の前にある葉は、あまりにも青々としている。
まさか、豊が?
かつて一緒に暮らしていた頃、水をやるのも、枯れた葉を摘むのも、いつも香澄の役目だった。それなのに。
目の前の緑は、誰かの無関心の中で育ったとは思えないほど、瑞々しく、整っている。
放っておいて、こんな状態を保てるはずがない。香澄の胸に、どうにも腑に落ちない感覚が残った。
じゃあ、誰が?
香澄の胸に、小さなざわめきが広がる。それは嫉妬とも不安とも違う、過去と現在が不意に交差したときの、違和感だった。
香澄は、もう一度あの観葉植物に視線を戻した。静かに伸びる葉は、何も語らない。

がたっと、物音がした。
香澄が視線を向けると、ベッドルームから豊が出てくるところだった。
久しぶりに目にする、寝起きの元夫。無造作な髪、まだ覚醒しきっていない眼差し。

不意に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。悔しいほどに、相変わらずかっこいい。
香澄はそう思ってしまった自分に、気づかれないよう、そっと視線を逸らした。

「香澄……おはよう」
まだ少し掠れた声で、豊が言った。視線がキッチンに向き、ふっと口元が緩む。

「コーヒー、淹れてくれたのか。ありがとう」
マグカップを手にした豊が、香澄の隣に腰を下ろした。

香澄は一瞬ためらってから、口を開く。
「ねえ……私、どうしてここにいるの?」

「どうして、って?」
不思議そうに聞き返され、胸がざわつく。

「……香澄が言ったんだよ」
「え?」
「一緒に、俺たちの家に帰ろうって」

香澄は目を見開いた。
「……嘘」

豊は小さく、深いため息をついた。
「俺も、驚いた」

「じゃあ……私の服は?」
視線を落とし、思わず問いかける。

「洗濯機」
「え?」
「吐いたんだよ。昨夜」

淡々とした声だった。

「服も汚れて、髪もひどかったから、シャワーさせて、俺のシャツ着せた」
「……ええ!?」
思わず声が裏返る。

香澄の混乱をよそに、豊は静かにコーヒーを口に運んだ。
「……まったく覚えていないのか?」

豊の問いに、香澄は少し考え込む。首を傾げ、眉間にしわを寄せた。
「うーん……覚えているような、いないような」

言葉を探すように視線を彷徨わせてから、ぽつりと続ける。
「……とにかく、迷惑かけてごめんなさい」

豊はすぐに首を振った。
「迷惑じゃなかったぞ」視線を逸らしたまま、低く付け加える。
「……隣に座ってた男に、取られなくてよかった」
「……そう、なの?」

香澄が小さく問い返すと、豊は少しだけ間を置いて、頷いた。
「ああ」

それだけで終わらせるかと思いきや、視線を前に向けたまま、静かに続ける。
「俺は……別れたくなかったからな」

声は低く、感情を誇張することもなかった。けれど、その一言には、十年分の時間が、そのまま詰まっていた。
香澄は、心の中でそっと思った。

……そうだった。

誕生日になると、毎年欠かさず届く、短いメッセージ。「元気か?」それに添えられた、ささやかなお祝いの言葉。
長いやり取りはしない。近況を語り合うこともない。それでも、なぜか、お互いの誕生日だけは、途切れなかった。
完全に繋がりが断たれたことは、一度もなかったのだと、今になって気づく。

「……いつ、私に気づいたの?」
香澄がそう尋ねると、豊は少しだけ考える素振りを見せてから答えた。

「お前たちが、カウンター席に座ったとき」
「あの店、知ってたの?」
「ああ。あそこは、俺の行きつけだ」
「そうなのね……声、かけてくれてもよかったのに」

その言葉に、豊は眉を寄せる。
「男と一緒だったのに、声なんかかけられるわけないだろ」
少し語気が強くなり、続けざまに言った。
「それに、お前も全然俺に気づかなかったし……おまけにすごく楽しそうだった」

言い切ったあと、豊は無言で髪を片手でかきあげた。その仕草に、苛立ちが滲んでいる。
香澄は、はっとする。

……ああ、この癖。

ユタちゃんが、本当は言いたいことを飲み込んだときの仕草だ。昔から、少しも変わっていない。
香澄は、思わず「ふふっ」と小さく笑った。
「……その癖、変わらないね」

豊が、訝しげにこちらを見る。
「ん?」

香澄は笑みを残したまま、けれど視線は外さずに続けた。
「ねえ、あなた、今、何が言いたいの?」

「あの男といて……何が、そんなに楽しかったんだ?」
低く、探るような声だった。続けて、少し間を置いてから付け足す。
「あいつ……独身だろう?それに……」

そこまで言って、豊は言葉を切った。続けようとして、ほんの一瞬、ためらう。
十年越しに向けられるには、あまりにも率直すぎる独占欲だった。
香澄は、思わず目を丸くした。
まさか、そんな感情を向けられるとは思っていなかった。静かにマグカップをローテーブルに置く。
そして、片膝をソファに乗せ、身体ごと豊のほうへ向き直った。
距離が、近い。迷いのない仕草で、香澄は片手をそっと豊の膝に置く。
そのまま顔を見上げ、視線を絡めた。促すように、静かに問いかける。

「それに……って、何?」
少しだけ間を置いて、柔らかく。
「……ユタちゃん?」

豊は、何も言わなかった。沈黙に耐えきれず、香澄が口を開く。
「……あの人は、ただの取引先の人だよ」

豊の視線が、鋭くなる。
「お前、告白されたの、覚えてないのか?」
「うーん……そうだっけ?」

本気で思い出せない様子に、豊は眉間にしわを寄せた。

「まったく。どれだけ飲んでたんだよ」
「普段よりは、多かったかな」
少し照れたように笑って、付け加える。
「打ち上げだったの」
「……あいつと、二人きりで?」

その問いに、香澄は思わず苦笑した。慌てて首を振る。
「違う違う。部署の人たちと一緒。あと、加藤さん、ほら、一緒にいた人ね―その人の部署の人たちも」
「……そうか」
短く言ってから、豊は視線を逸らさずに続けた。
「それで、どうしてあいつと二人でバーなんだ?」

香澄は少し考えるように首を傾げる。
「あー……加藤さんに、個人的に話したいことがあるって言われて」
軽く肩をすくめて続けた。
「せっかく仕事が終わったのに、また改めて会うのは面倒でしょう? だから、このあと少し飲みに行きましょうってことになったの」
「……コーヒーでよかったじゃないか」

即座に返ってきた言葉に、香澄は思わず笑う。
「うーん。でもね」
少し照れたように言い添える。
「気分がよすぎて、もう一杯飲みたい気分だったの。ねえ……私ばっかり話してる」
香澄はふっと息をついて、豊を見る。
「さっきの……それに、って。何を言うつもりだったの?」

豊は一瞬、視線を逸らした。
「……だって、お前、覚えてないんだろう?」
「告白のこと?なんとなく、は覚えてるよ」
香澄は首を傾げる。
豊の眉がわずかに動いた。
「……自分が、どう答えたかは?」
「えーっと……何だっけ?」
豊は、香澄の目をしっかりと見据えて言った。
「いいか、お前は、こう言って―あいつを振ったんだ」

「忘れられない人がいるから、って」

その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が、音を立てずに変わった。香澄は言葉を失い、
ただ、豊の目を見つめ返すことしかできなかった。

豊も、手にしていたマグカップを静かにローテーブルへ置いた。それから、香澄に向き直る。
「……香澄」一呼吸置いて、真っ直ぐに言った。
「忘れられない人って―誰だ?」
問いは短く、曖昧さがなかった。答えをはぐらかす余地を、最初から与えない声音だった。
香澄は、その視線から逃げずに受け止める。十年分の時間が、この一問に凝縮されていることを、はっきりと感じながら。

香澄は、ふっと視線を落とした。
「……誰だって、いいじゃない」
顔を上げないままのその仕草が、答えそのものより雄弁に、香澄の迷いを語っていた。

「よくないんだよ」
低く、はっきりとした声だった。豊はそう言うと、指先で香澄の顎に触れ、ゆっくりと引き上げる。力は強くない。けれど、拒む余地もない。視線を逸らすことも、返事を曖昧にすることもー最初から許されていない、そんな仕草だった。
香澄の顔が上がり、否応なく目が合う。そこにあったのは、怒りではない。冗談でも、気まぐれでもない。
今度こそ答えを聞こうとする男の目だった。

「……え?」
香澄の小さな声に、豊は言葉を続けた。

「お前がここを出ていった頃、俺は――」
一度、言葉を選ぶ。
「専務が社長に就任するタイミングで、今までにない忙しさだった」
視線を落としたまま、淡々と続ける。
「ほとんど、お前と過ごせなかった。家を空けることもしょっちゅうで、気づけば、全部香澄に任せきりだった」
「それなのに、俺は相変わらず片づけられなくて」
自嘲気味に、息を吐く。
「時差のせいで、電話で話すことすら難しかった」

香澄は、ゆっくりと頷いた。
「……そうね」
視線を伏せたまま、静かに言う。

「私も、昇進がかかっていて、かなりピリピリしてたと思う」
少し間を置いて、正直に続けた。
「全然、自分に気持ちの余裕がなかった」

どちらかが悪かったわけじゃない。ただ、同時に余裕を失っていただけ。

「俺は……離婚届を、提出したくなかった」豊は、少しだけ言葉を区切って続けた。
「紙の上だけでもいい。できることなら、香澄を縛っておきたかった」
率直すぎる本音だった。取り繕う気配もない。豊は目を逸らさないまま、言葉を継いだ。
「……でも、それじゃあ、香澄は、前に進めないだろう?…本当は、手放したくなんてなかった……香澄は昨日の会話を、どこまで覚えているんだ?」豊が、静かに聞いた。

加藤との会話は、ほとんど覚えているのだ。
バーで向かい合い、言葉を選びながら応えたことも、加藤が席を立つ、その直前までのやり取りも。

「……お断りしたのは、覚えてる……かな」
そう口にしながら、香澄は小さく首を傾げた。

「香澄……もう一度聞く」豊は一瞬も視線を逸らさず、静かに続けた。
「おまえにとって、忘れられない男は――誰なんだ?」問いは、もう逃がさないという調子だった。
「……あいつはな」
少しだけ語気を落として言う。「それでもいいから、付き合いを始めてくれって頼んだそうじゃないか」

香澄は思わず目を見開く。
「……どうして、それを知ってるの?」
豊は短く答えた。
「お前たちの隣にいたカップルに、丸聞こえだった。彼らが話してるのが、そのまま俺の耳に入ってきた」
そして、決定打のように言う。
「香澄の返事もな」
「『何人かの方とお付き合いさせてもらったんですが、ダメだったんです』」
「『彼じゃないと、ダメなんです』」
「『彼だけなんです』」

豊は、ゆっくりと言葉を区切った。
「……そう言ってたって、また聞きしたぞ」
部屋の空気が、ぴんと張り詰める。香澄は何も言えず、ただ息を詰めた。
「……酔ってたからかも」
香澄はそう言って、視線を逸らした。
「それに、加藤さん……全然タイプじゃなくて」
無理に口角を上げ、笑ってごまかそうとする。自分でも、それが苦しい笑いだとわかっていた。
「もう、帰るね」

立ち上がり、豊の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
腰に、腕が回った。
「……っ」
不意を突かれて、香澄はバランスを崩す。次の瞬間、引き寄せられるまま――豊の膝の上に、すとんと座らされていた。
距離が、ゼロになる。驚きで息をのむ香澄を、豊は逃がさないように、しっかりと腰を支えていた。
「……誤魔化すな……もう、離さない」
豊は低く言った。逃げ場を与えない声だった。
「二度と。絶対に」
言葉は短い。けれど、その腕の力と同じくらい、迷いがなかった。
「あいつが去ってからだ。お前のカクテルを飲むスピードが、急に速くなった。止めようとした、そのとき――」
わずかに息を吸ってから、言葉を継ぐ。
「お前は、初めて俺の存在に気づいた」
香澄の目を、まっすぐに見て。
「笑って言ったんだ。『あー、ユタちゃんだー』って」
声色まで、はっきり覚えているというように。
「『嬉しい。やっと迎えに来てくれたのね』って」

そして、とどめのように。
「……それから、言ったんだよ」
低く、噛みしめるように。
「『一緒に、俺たちの家に帰る』って」

豊は、腕の中の感触を思い出すように、少しだけ力を込めた。
「俺に抱きついてきて――それで、気を失った……言ってくれ、香澄」
低く、切実な声だった。半ば強引に、けれど半ば懇願するように、豊は問いかける。
「誰なんだ?」

香澄は、もう堪えきれなかった。涙が溢れ、声が震える。
「……ユタちゃんだよ」
喉を詰まらせながら、必死に言葉を紡ぐ。
「忘れたくても……忘れられなかった。あなたのことを」

その瞬間、豊は香澄を失わないように強く抱きしめた。
「……香澄、もう一度、結婚してくれ。今度は――もっと、大事にする」
言葉よりも先に、その腕が、何より雄弁だった。

二人の再会を祝福するかのように、外から吹き込んだ風が、観葉植物の葉を静かに揺らしていた。
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