シトラスの魔法が解けるまで

シトラスとの20センチ


中学一年生 冬。



​家庭科の補習の帰り道。あの日も、今日と同じこの道を歩いていた。
本当は下駄箱で手を振って別れるつもりだったのに、どうしても名残惜しくて、結局一緒に校門をくぐることになった。
​隣を歩く瀬戸との距離は、あと少しで肩が触れそうな、20センチあるかないかの距離。
盗み見るみたいに、彼の横顔に視線を送る。やっぱり、好きだな。みんなは気づいていないかもしれないけど、瀬戸は結構イケメンだと思う。特にシュッとした鼻筋と、薄く形の良い唇。
​その綺麗な唇が、不意に動いた。
​「なあ、藤井」
「ふ、ふえ? な、なに、瀬戸?」
​びっくりした……。見惚れていた唇からいきなり言葉が出たから、変な返事になっちゃった。
​「ははっ。どんな返事だよ」
瀬戸が声を弾ませて笑う。その少し幼さを帯びた笑顔でさえ、愛おしいと思ってしまう。恋は盲目とは、こういうことなんだろうか。
​「〜っ! バカにしないでよ! びっくりしただけ」
「隣にいるやつに話しかけられただけで驚くか? 普通」
​そりゃ驚くよ。だって、今私は大好きな人と一緒に帰れてるんだよ!!
嬉しすぎて、今なら無敵になれる気がした。ドクン、ドクン。心臓の音がうるさい。今の返事、全然可愛くなかったよね。瀬戸を前にすると、脳が壊れてしまったみたいに、可愛くない言葉ばかりが出てくる。
​「……おい、藤井。おーい!」
「あ、ごめん」
「ごめんじゃねえよ! 俺の話聞いてたか?」
「うん」
「どこまで?」
「え、と……返事バカにされたとこ」
​聞いてなさすぎて怒られるかと思い、声を小さくして答えると、瀬戸はまた可笑しそうに笑った。
「ふはは、ぜんぜん聞いてねー。じゃあ最初からか。家着いちゃうぞ」
「すみません……」
​申し訳なくて小さくなっていると、瀬戸が不意に、核心を突くようなことを聞いてきた。
​「……お前って、好きな人いんの?」
​脳がフリーズした。
(……目の前にいますけど!?)
いやいや、そんなこと言えるわけない。でも、嘘もつきたくない。
​「……い、いるけど」
「へぇー、どんなやつ?」
「どんなやつって……。とにかく、かっこいい人」
​「へー」
「…リアクション薄っ!! お前が聞いたんだろ!」
​「わり。お前に好きなやついるとはな」
「失礼な!」
「いや、本一筋だと思ってたの」
​本一筋。たしかに私は本が好きだ。そして、彼も本が好き。今私が読んでいるシリーズだって、彼におすすめされたものだ。学期末に表彰される多読賞も、私と彼で一、二位を争っている。でも、「本が好き」と「君が好き」は違うだろ!
​(こいつ……わざとなの? それとも、本当にバカにしてるの……?)
こっちは「本一筋」どころか、瀬戸一筋だってことに気づけ!と言いたい気持ちを必死に飲み込む。
彼の横顔を見つめながら、私はわざと少しぶっきらぼうな声を出し、胸の奥で高鳴る心臓を落ち着かせようとした。
​「……ねえ、瀬戸の言ってる『本一筋』って、恋愛に興味なさそうって意味?」
「んー、まあ。お前の隣には、いつも本があるイメージだからな」
​そう言って笑う彼が放つ、シトラスの香り。
冬の冷たい空気と、彼の香りが混ざり合って、私の世界のすべてを埋め尽くしていく。
​「……意外だったわ。藤井に好きな奴がいるなんて」
瀬戸は前を向いたまま、ぽつりとそう言った。
さっきまで弾んでいた声が、ふっと消える。彼は私の顔を見ようとはせず、ただ一定のリズムでアスファルトを蹴って歩き続ける。
​冬の冷たい空気が、二人の間に流れ込んだ気がした。
歩幅を合わせる足音だけが、やけに大きく響く。
​「……何よ。私だって、好きな人くらいいるよ」
「……ふーん」
​そっけない返事。
あんなに綺麗だと思っていた彼の唇が、今はぎゅっと結ばれて、何を考えているのか少しも読み取れない。
​彼が放つシトラスの香りが、冬の風にさらわれて、私の鼻先をかすめては消えていく。
​「……で、誰なんだよ。その『かっこいい人』って」
​視線を落としたまま、瀬戸がいつもより低い声で聞いてきた。
え、どうしよう。言う? 「隣の君だよ」って?
……言えるわけない。
​っていうか、なんで瀬戸のテンションこんなに低いの? 何かダメなこと言ったっけ。なんで私ばかり答えてるの。私だって、彼に質問していいよね。
​「……あのさ」
「ん、おう」
「……瀬戸は、好きな人……いるの?」
​我ながら、なかなかの勇気を出したと思う。だって、この返事次第で、私の恋は幕を下ろすことになるかもしれないから。
​「へ?」
​「……ふぬけた返事だね」
なんだか、さっきの仕返しができたみたいで、少しだけ誇らしい。
​「で? いるの?」
「……あぁ、いるよ」
​その瞬間、世界から音が消えた。
終わった。
鼻の奥がツンとして、急激に熱くなる。
​「……そ、そうなんだ」
​必死に声を震わせないように答えたけれど、視界がじわじわと滲んでいく。
​「ん? どした? ……お前、泣いてる?」
「……泣いてないから」
「いや、強がんなよ。ほら、俺の方、向いてみ?」
​向けるわけがない。向いたって、泣き顔を見られてバカにされるに違いないんだから。
「向かない」
​「はー……。じゃ、泣いてないってことにしてやるよ」
「『てこと』ってなに!? 泣いてないから!」
​必死に言い返す私に、瀬戸は呆れたように、でもどこか優しい声で続けた。
「はいはい。でも、泣いてる女子はほっとくな、って花梨に言われてっから」
​……ちょっと待って。
「……花梨……って誰?」
​うちの学年にはいない名前。先輩? いや、後輩?
私の知らないところで、瀬戸にそんなアドバイスをする女の子がいるの?
​「花梨?」
「あ……いや、なんでもねぇ」
​瀬戸は急に口を閉ざし、また前を向いて歩き出した。
夕暮れの帰り道に、シトラスの香りと「花梨」という知らない名前だけが、冷たく取り残された。
​モヤモヤする。「花梨」さんが瀬戸の好きな人なの? その人に教えてもらってるから、私に優しくするの?
泣いてるか心配されて、ほんの少しだけ嬉しかった気持ちは、一瞬で黒いものへと変わっていく。
​ヤバイ。涙はおさまった。でも、この黒い気持ちはおさまらない。
​「そ、そう」
沈黙が流れる。気まずい。さっきまではあんなに短く感じていたこの帰り道も、今はすごく長く感じる。足だって重い。まるで、両足に重りがついているかのように。
​「え、えと……」
必死で別の話題を探そうとした私の声は、瀬戸の声にかき消された。
​「で? お前の好きな人は?」
「……えっ」
「その話、終わったよね……?」
「 いーや、お前の好きな人、まだ聞いてない」
​逃がさない、という強い意志を感じる声。
彼はまだ、私の顔を見てはいない。けれど、その隣を歩く温度がさっきよりもずっと近く感じられて、私は言葉を失った。
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