あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第1章|形だけの結婚

 玄関の鍵が回る音がした。
 結衣は背筋を伸ばし、エプロンの裾をそっと握る。

「……お帰りなさい」

 九条蓮は、黒いコートの肩に雨の匂いをまとったまま立っていた。視線だけがこちらに来て、すぐに逸れる。
 いつものことだ。結婚して三週間。毎晩の「お帰り」と「ただいま」は、きれいに磨かれたガラスみたいに、触れられない。

「ただいま。遅くなった」

 声は低く、無駄がない。
 それでも、丁寧だった。
 ――丁寧すぎて、余白が怖い。

「夕食、温め直しますね」

「……頼む」

 蓮は靴を揃え、コートを脱ぎ、どこかホテルの部屋みたいに整った動きで廊下を進む。
 その背中を見送るたび、結衣は思う。

(私、今……“奥さん”として見られてるのかな)

 政略結婚。
 そう言ってしまえば簡単だ。家と家の約束で、結衣は九条家の嫁になった。蓮は副社長で、忙しい。
 分かっている。分かっているのに――。

 ダイニングの椅子に座った蓮の前に、結衣は湯気の立つ皿を置く。二人分の箸が、まっすぐ並ぶ。

「……いただきます」

 蓮は手を合わせて、静かに食べ始めた。
 音は立てない。箸の運び方もきれいで、隣にいるのに遠い。

 結衣は同じ動きを真似しながら、何度も言いかけた。
 今日あったこと。会社のことではなく、ただの小さな話。

(新しいマグカップ、買ったんです。あなたの分も……とか)
(今日は、あなたの好きそうな味付けに……とか)

 でも結局、言葉が喉で止まる。
 言って、もし「興味ない」と返されたら。
 笑って「そう」と言って、それで終わったら。

 食事が進むにつれて、沈黙が少しずつ太くなる。
 結衣は箸を置いた。

「……お口に合いました?」

 蓮が顔を上げる。視線が一瞬だけ、結衣の唇に触れた気がした。
 それだけで胸が跳ねるのに、次の言葉が冷静すぎる。

「美味い。ありがとう」

 ありがとう。
 その言葉は嬉しい。
 なのに、なぜか泣きたくなる。

 結衣は笑って頷いた。うまく笑えているか、自信がない。

「よかったです」

 蓮は食器を重ねようとして、ふと止まった。

「……片付けは、明日にしろ」

「え?」

「疲れてるだろ」

 優しい。
 優しいのに、そこまでだ。
 “手を伸ばしてくれる優しさ”ではなく、“距離を保つ優しさ”。

「大丈夫です。私が――」

「……無理するな」

 きっぱり言われると、それ以上、結衣は言えなかった。
 蓮は立ち上がり、椅子を音もなく戻す。

「風呂、先に入っていいか」

「はい。どうぞ」

 すれ違う瞬間。
 肩が触れそうで、触れない。
 結衣は自分から半歩、引いてしまった。

 蓮の足が止まる。

「……結衣」

 名前を呼ばれるだけで、心臓が熱くなる。

「はい」

 蓮は何か言いかけて、飲み込んだ。
 そして、結衣の手元――エプロンの端を握る指に視線を落とす。

「……寒いなら、無理するな」

 それだけ。
 言い終えると、蓮は廊下へ消えた。

 残された結衣は、指先を見つめた。
 握りしめていたエプロンが、少し皺になっている。

(寒いんじゃないよ)

 胸の奥が、じくじくするだけだ。

 結婚式の日。
 蓮は誓いの言葉も、キスも、完璧にこなした。
 でも、目だけはどこか遠くて。
 その遠さが、今も続いている。

 食卓に残る湯気が、ゆっくり薄れていく。
 静かな家の中で、結衣は小さく息を吐いた。

(嫌われてるのかな……)

 答えのない問いを胸に抱えたまま、結衣は台所へ向かった。
 片付けを明日に回せるほど、心は軽くなかったから。
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