あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第13章|目撃①:車の中

 その日は、結衣の兄――朝霧恒一から突然電話が来た。

『結衣、今どこだ?』

「家だけど……どうしたの?」

『近くまで来てる。顔、見たい。……いや、見なきゃだめな気がする』

 兄の声は硬かった。
 結衣は胸がざわつく。

「分かった。じゃあ、駅前のカフェで……」

『いや。外はやめろ。お前、最近顔色悪い。俺が迎えに行く』

 断る間もなく電話は切れた。

 結衣はスマホを握りしめ、鏡の前に立つ。
 本当に、顔色が悪い。
 唇の色が薄くて、目の下が少し暗い。

(私、そんなに……)

 外に出るのが怖い。
 でも、兄に会えば、少しだけ息ができる気がした。

 結衣はコートを羽織り、家を出た。
 夜風は冷たく、街灯の光が舗道に薄く伸びている。

 門を出て少し歩いたところで、遠くから車のライトが見えた。
 黒いセダン。
 見慣れた車。

 ――九条家の車だ。

 結衣の足が止まる。
 胸が跳ねる。

(蓮さん……? まだ会社のはずじゃ)

 車はゆっくりと路肩に寄り、停まった。
 運転席にいるのは運転手の坂口だ。
 そして、後部座席のドアが開く。

 先に降りたのは、女性だった。

 ヒールがアスファルトを打つ音。
 タイトなコート。細い足首。
 結衣は息を呑んだ。

(……誰)

 街灯の下で、女性が振り向く。
 横顔が見える。
 見覚えのない顔――でも、会社で見るような“綺麗に整えられた”女性だった。

 続いて、後部座席から蓮が降りる。

 スーツの肩は少し崩れていて、ネクタイが緩んでいる。
 疲れているのが分かる。
 それなのに結衣は、疲れを心配するより先に、胸の奥が凍るのを感じた。

(……一緒に、乗ってた)

 女性が何かを言って、蓮が短く頷く。
 声は聞こえない。
 でも、距離が近い。
 “二人で会食”の想像が、目の前の現実に変わってしまう。

 蓮が女性の肩に手を添える――ように見えた。
 実際には、車のドアが閉まりそうで、軽く押さえただけかもしれない。
 それでも結衣の心は、そこだけを切り取ってしまう。

(触れてる)

 あの人には、触れる。
 私には、触れないのに。

 結衣の視界が、一瞬暗くなった。

 女性が小さく頭を下げ、車に戻る。
 坂口がドアを閉める。
 車はまた走り出し、角を曲がって消えた。

 残されたのは、蓮。

 蓮は玄関へ向かって歩き出す。
 結衣はそこに立ち尽くして、声が出なかった。

(今、私は……何を見たの)

 背中に向かって「お帰りなさい」と言えばいい。
 妻なら。
 でも、喉が固まって動かない。

 蓮がふと足を止め、こちらを見た。

 街灯の下で、目が合う。

「……結衣?」

 驚いたような声。
 結衣の胸が、嫌な形に跳ねる。

(驚くってことは、見られたくなかったってことだよね)

 結衣は笑おうとした。
 でも、頬が動かない。

「……お帰りなさい」

 やっと出た声は、震えていた。

 蓮は眉を寄せた。

「……どうした。外に出るな。寒いだろ」

 優しい言葉の形。
 でも結衣は、その優しさを受け取れなかった。

(寒いんじゃない。痛いんだよ)

 結衣は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながら、無理に言った。

「……会食、二件って聞いたから」

 蓮の目が僅かに揺れる。

 その反応だけで、結衣はさらに冷える。
 責めたいのではない。
 ただ知りたいだけなのに、蓮はいつも“守り”に入る。

 結衣は指先を握りしめた。

「……今の方は、誰ですか」

 言ってしまった。
 言葉が空気を切る音がした気がした。

 蓮は数秒、黙った。
 その沈黙が、結衣にとっては致命的だった。

(やっぱり、言えない)

 蓮が低く答える。

「……取引先だ。送っただけだ」

 送っただけ。
 でも“送った”という行為そのものが、結衣の心を刺す。

「……送る必要、あったんですか」

 結衣の声が、冷たくなる。
 止められない。

 蓮の眉がわずかに寄る。

「……危ない時間だ」

 その言葉が、結衣を余計に苦しくさせた。

(私には? 私が一人で待ってる夜は危なくないの?)

 結衣は唇を噛んだ。
 涙が落ちそうになるのを、必死で堪える。

「……そうですよね。優しいですね」

 皮肉に聞こえる自分の声が嫌だった。
 でも、止められなかった。

 蓮の目が、ほんの少しだけ痛そうに揺れた。
 結衣はそれを見てしまって、また苦しくなる。

 蓮は一歩だけ近づいた。
 結衣は反射で半歩下がってしまう。

 その距離が、二人の答えみたいだった。

「……結衣」

 蓮が名前を呼ぶ。
 雨の路地裏で聞いたような柔らかさはない。
 いつもの硬い声。

「……家に入れ」

 結衣は頷いた。
 頷くしかない。

 玄関に入っても、結衣の胸の中の冷たさは消えなかった。

 “車の中に、女の人がいた”
 その映像が、何度も頭の中で再生される。

 ――見てしまった。
 もう、戻れない気がした。
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