あなたの隣にいたのは、私じゃなかった
第14章|猫にだけ優しい声=私には優しくない
あの夜から、結衣の中で何かが静かに変わった。
蓮が「取引先だ」と言ったこと。
「危ない時間だ」と言ったこと。
それ自体は、正しいのかもしれない。
でも結衣の胸に残ったのは、言葉よりも――映像だった。
黒い車。
後部座席。
女性の足首。
蓮の横顔。
そして、“私には触れない手”が、彼女には動いた気がした瞬間。
(私、何を見てしまったんだろう)
結衣は朝、洗面台の鏡の前で自分の顔を見つめた。
目が少し腫れている。
泣かなかったはずなのに、泣いた人の顔だった。
――気づかなければよかった。
気づいたら、戻れない。
蓮はいつも通り出社し、いつも通り短い言葉だけ残した。
「……行ってくる」
「……いってらっしゃい」
結衣の声は、空気に溶けた。
蓮は振り向きもしない。
振り向かないのではなく、振り向けないのかもしれない。
でも、結衣には同じだった。
昼過ぎ、真琴からメッセージが来た。
『今日、会える? 顔色悪いよ。』
結衣は返信できなかった。
“悪い”のは顔色だけじゃない。
心のほうが、もうどこかで折れている。
夕方、結衣は近所のスーパーへ出た。
帰り道、足が勝手に遠回りを選ぶ。
あの路地裏。
あの声を聞いてしまった場所。
(また、いるわけない)
そう思っても、足は止まらない。
結衣は自分が怖かった。
角を曲がった先の路地は、夕暮れの光が薄く滲んでいる。
濡れたアスファルトはもう乾いて、昨日の雨が嘘みたいだ。
――そして、いた。
段ボール箱の代わりに、小さなキャリーケース。
その横にしゃがむ、見慣れた背中。
(……蓮さん)
結衣の心臓が音を立てた。
蓮はスーツのまま、キャリーの扉を少し開けて、中に向かって声を落としている。
「……怖いか。……大丈夫」
結衣は、息が止まった。
その声。
あの雨の日と同じ、柔らかい声。
喉の奥が熱くなる。
「すぐ、温かいところに連れて行く。……我慢しろ」
猫が小さく鳴く。
蓮の口元が、ほんの少しだけ緩む。
結衣は、立っているだけで胸が痛くなった。
(私には、そんな声で話さない)
夫婦なのに。
同じ家にいるのに。
結衣に向けられるのは、いつも“指示”か“事務的な優しさ”だけだ。
――寝ろ。
――気にするな。
――問題ない。
それに比べて、猫には。
結衣は視線を落とし、買い物袋の持ち手を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛い。
そのとき、背後から軽い足音がした。
「九条さん!」
明るい声。
結衣の背中がひやりとする。
白いレインコートの女性――小春が駆け寄ってきた。
今日は雨じゃないのに、彼女はやっぱり“そこにいる”のが自然に見える。
「ルル、元気そう。よかった……!」
小春はキャリーを覗き込み、猫に話しかける。
「ほら、ルル。九条さんが来てくれたよ。よかったね」
ルル。
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
小春の声は、結衣が知らない“優しさの空気”で満ちていた。
蓮は短く頷く。
「……任せる」
「はい。……本当にありがとうございます」
小春は笑った。
その笑顔が、結衣の胸を刺す。
(ありがとう、って言ってる)
蓮は“ありがとう”と言われることを嫌がらない。
結衣の「ありがとう」には、いつも短く返すだけなのに。
結衣の心が、音を立てて削れていく。
(私、何してるんだろう)
妻なのに。
夫の“知らない顔”を見て、嫉妬して、傷ついて。
みっともない。
でも、止められない。
蓮がふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
結衣は反射的に、身を隠そうとしてしまった。
恥ずかしくて。
見てしまった自分が。
でも遅かった。
蓮の目が結衣を捉える。
空気が止まる。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は硬い。
猫に向けた声とは、違う。
その違いが、結衣の胸を決定的に痛くした。
(やっぱり。私は、違う)
小春が結衣に気づいて、慌てて頭を下げた。
「あっ……奥様ですよね。すみません、突然。私は――」
結衣は聞こえないふりをした。
聞いたら、名前を知ってしまう。
関係を知ってしまう。
結衣は笑顔を作ってしまう。
勝手に、妻の仮面を被る。
「……大丈夫です」
声が震えたのを、誰にも気づかれないように。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣の心臓が跳ねる。
でも、その一歩が怖い。
「……説明する」
蓮が低く言った。
結衣は首を振った。
自分でも驚くほど、強く。
「……いいです」
言ってしまった瞬間、胸が裂けそうになる。
本当は“聞きたい”のに、言えない。
でも、今さら聞いても意味がない気がした。
聞いたら、もっと惨めになる気がした。
結衣は買い物袋を抱え直し、蓮の横をすり抜けた。
「……帰ります」
蓮が何か言いかける。
でも結衣は足を止めなかった。
背中に、猫の鳴き声が聞こえる。
小春の「大丈夫だよ」という声が聞こえる。
蓮の低い「……任せた」が聞こえる。
――全部、結衣の知らない温度だった。
家へ向かう道で、結衣は自分の胸を押さえた。
息が苦しい。
(私、愛されてない)
その言葉が、現実の形になっていく。
猫にだけ優しい声。
私には、ない声。
結衣の自己肯定感は、雨で溶けるみたいに、静かに崩れていった。
蓮が「取引先だ」と言ったこと。
「危ない時間だ」と言ったこと。
それ自体は、正しいのかもしれない。
でも結衣の胸に残ったのは、言葉よりも――映像だった。
黒い車。
後部座席。
女性の足首。
蓮の横顔。
そして、“私には触れない手”が、彼女には動いた気がした瞬間。
(私、何を見てしまったんだろう)
結衣は朝、洗面台の鏡の前で自分の顔を見つめた。
目が少し腫れている。
泣かなかったはずなのに、泣いた人の顔だった。
――気づかなければよかった。
気づいたら、戻れない。
蓮はいつも通り出社し、いつも通り短い言葉だけ残した。
「……行ってくる」
「……いってらっしゃい」
結衣の声は、空気に溶けた。
蓮は振り向きもしない。
振り向かないのではなく、振り向けないのかもしれない。
でも、結衣には同じだった。
昼過ぎ、真琴からメッセージが来た。
『今日、会える? 顔色悪いよ。』
結衣は返信できなかった。
“悪い”のは顔色だけじゃない。
心のほうが、もうどこかで折れている。
夕方、結衣は近所のスーパーへ出た。
帰り道、足が勝手に遠回りを選ぶ。
あの路地裏。
あの声を聞いてしまった場所。
(また、いるわけない)
そう思っても、足は止まらない。
結衣は自分が怖かった。
角を曲がった先の路地は、夕暮れの光が薄く滲んでいる。
濡れたアスファルトはもう乾いて、昨日の雨が嘘みたいだ。
――そして、いた。
段ボール箱の代わりに、小さなキャリーケース。
その横にしゃがむ、見慣れた背中。
(……蓮さん)
結衣の心臓が音を立てた。
蓮はスーツのまま、キャリーの扉を少し開けて、中に向かって声を落としている。
「……怖いか。……大丈夫」
結衣は、息が止まった。
その声。
あの雨の日と同じ、柔らかい声。
喉の奥が熱くなる。
「すぐ、温かいところに連れて行く。……我慢しろ」
猫が小さく鳴く。
蓮の口元が、ほんの少しだけ緩む。
結衣は、立っているだけで胸が痛くなった。
(私には、そんな声で話さない)
夫婦なのに。
同じ家にいるのに。
結衣に向けられるのは、いつも“指示”か“事務的な優しさ”だけだ。
――寝ろ。
――気にするな。
――問題ない。
それに比べて、猫には。
結衣は視線を落とし、買い物袋の持ち手を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛い。
そのとき、背後から軽い足音がした。
「九条さん!」
明るい声。
結衣の背中がひやりとする。
白いレインコートの女性――小春が駆け寄ってきた。
今日は雨じゃないのに、彼女はやっぱり“そこにいる”のが自然に見える。
「ルル、元気そう。よかった……!」
小春はキャリーを覗き込み、猫に話しかける。
「ほら、ルル。九条さんが来てくれたよ。よかったね」
ルル。
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
小春の声は、結衣が知らない“優しさの空気”で満ちていた。
蓮は短く頷く。
「……任せる」
「はい。……本当にありがとうございます」
小春は笑った。
その笑顔が、結衣の胸を刺す。
(ありがとう、って言ってる)
蓮は“ありがとう”と言われることを嫌がらない。
結衣の「ありがとう」には、いつも短く返すだけなのに。
結衣の心が、音を立てて削れていく。
(私、何してるんだろう)
妻なのに。
夫の“知らない顔”を見て、嫉妬して、傷ついて。
みっともない。
でも、止められない。
蓮がふと顔を上げた。
視線がこちらへ向く。
結衣は反射的に、身を隠そうとしてしまった。
恥ずかしくて。
見てしまった自分が。
でも遅かった。
蓮の目が結衣を捉える。
空気が止まる。
「……結衣」
名前を呼ぶ声は硬い。
猫に向けた声とは、違う。
その違いが、結衣の胸を決定的に痛くした。
(やっぱり。私は、違う)
小春が結衣に気づいて、慌てて頭を下げた。
「あっ……奥様ですよね。すみません、突然。私は――」
結衣は聞こえないふりをした。
聞いたら、名前を知ってしまう。
関係を知ってしまう。
結衣は笑顔を作ってしまう。
勝手に、妻の仮面を被る。
「……大丈夫です」
声が震えたのを、誰にも気づかれないように。
蓮は一歩だけ近づいた。
結衣の心臓が跳ねる。
でも、その一歩が怖い。
「……説明する」
蓮が低く言った。
結衣は首を振った。
自分でも驚くほど、強く。
「……いいです」
言ってしまった瞬間、胸が裂けそうになる。
本当は“聞きたい”のに、言えない。
でも、今さら聞いても意味がない気がした。
聞いたら、もっと惨めになる気がした。
結衣は買い物袋を抱え直し、蓮の横をすり抜けた。
「……帰ります」
蓮が何か言いかける。
でも結衣は足を止めなかった。
背中に、猫の鳴き声が聞こえる。
小春の「大丈夫だよ」という声が聞こえる。
蓮の低い「……任せた」が聞こえる。
――全部、結衣の知らない温度だった。
家へ向かう道で、結衣は自分の胸を押さえた。
息が苦しい。
(私、愛されてない)
その言葉が、現実の形になっていく。
猫にだけ優しい声。
私には、ない声。
結衣の自己肯定感は、雨で溶けるみたいに、静かに崩れていった。