あなたの隣にいたのは、私じゃなかった
第23章|対峙:質問が刺さる
リビングの空気が、紙みたいに薄くなっていた。
テーブルの上には、封筒。
離婚届。
リングケース。
蓮の視線がそこから離れない。
結衣は、その視線に耐えられなくて、指先を握りしめた。
「……理由を言え」
蓮の声は低い。
怒っているのか、壊れそうなのか分からない声だった。
結衣は首を振った。
言えば、責めることになる。
でももう、責めずに終われるところまで来てしまっている。
結衣は息を吸い、覚悟して口を開いた。
「……望月さんに、言われました」
蓮の眉が僅かに寄る。
「望月が?」
結衣は頷く。
喉が熱くて、声が掠れる。
「私が……不安で。あなたの帰りが遅い日が続いて……」
「家政婦さんのことも、どうしてなのか分からなくて……」
「それで、望月さんに電話したんです」
蓮の指先が、僅かに強張った。
結衣はその変化を見てしまって、胸が痛む。
(やっぱり……触れたらいけない場所だったんだ)
結衣は続ける。
「そしたら望月さんが……」
結衣は目を閉じた。
あの声が、そのまま蘇る。
「『副社長は、私が支えます』って」
沈黙が落ちた。
結衣は目を開けた。
蓮の顔は動いていない。
でも、瞳の奥が僅かに揺れている。
結衣は、震える声で言った。
「それだけじゃなくて……」
「『奥様は静かにお過ごしください』って」
「『邪魔にならないことも、奥様の役目』だって……」
言い終えた瞬間、結衣の喉が締まった。
涙が出そうになる。
でも出したら、負ける気がした。
蓮は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、結衣には怖かった。
否定してほしい。
怒ってほしい。
望月に向けてでも、いいから。
でも蓮は――何も言わない。
結衣は、その沈黙に耐えきれなくなった。
「……蓮さん」
呼ぶ声が、小さく震えた。
「私、ずっと……分からなかったんです」
結衣は笑おうとして、できなかった。
唇が痛い。
「あなたが何を考えてるのか」
「どうして触れてくれないのか」
「どうして、私には話してくれないのか」
蓮の肩が、わずかに動いた。
息を吸ったのかもしれない。
結衣はその小さな動きに、また期待してしまう。
でも、期待はいつも外れる。
結衣は、テーブルの端に指先を置いた。
自分の体を支えるために。
「会社での噂も、見てしまったものも……全部、私の中で一本になってしまって」
結衣の視界が滲む。
それでも続けた。
「私は……あなたの隣にいるべき人じゃないんだって、思うようになって」
言葉を吐くたび、胸が削れる。
でも、言わないと終われない。
結衣は、最後に――一番痛い質問を口にした。
「ねえ、蓮さん」
蓮が結衣を見る。
結衣は、自分の胸の中の最後の糸を引きちぎるように言った。
「私は、あなたの何ですか」
静寂。
蓮の目が大きくなる。
驚きと、焦りと、言葉にできない痛みが混ざる。
結衣は待った。
返事を。
たった一言でいい。
“妻だ”でも、“大切だ”でも、“必要だ”でも。
でも――。
蓮の口が少し開いて、閉じる。
視線が揺れる。
言いたいのに言えない顔。
沈黙が落ちる。
結衣の胸の中で、何かが完全に折れた。
(……答えられない)
それが、答えだった。
結衣は笑ってしまった。
涙が落ちるより先に、笑ってしまう。
「……そっか」
声が、乾いていた。
「ごめんなさい。変なこと、聞きましたね」
結衣はリングケースに手を伸ばし、それを蓮の前にそっと置いた。
指輪は冷たい。
結衣の心も、同じ温度になっていく。
「……これ、返します」
蓮の手が動かない。
受け取らない。
受け取れない。
結衣は立ち上がった。
膝が震えたけれど、立てた。
「離婚届は、まだ出してません」
「でも……私の気持ちは、もう……」
言い切れなかった。
言い切ったら、最後になるから。
蓮がようやく声を出す。
「……待て。結衣」
その“待て”は、結衣の心を引き止めなかった。
結衣は首を振る。
「待つの、もう……疲れました」
結衣は小さく頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
その言葉が、夫婦の最後の挨拶みたいで、結衣の胸が痛んだ。
でも結衣は、泣かなかった。
泣いたら、また戻ってしまうから。
結衣は寝室へ向かい、扉を閉めた。
背後で、蓮の足音が一歩だけ近づいて、止まる気配がした。
でも、扉は開かなかった。
結衣はベッドに座り込み、胸を押さえた。
――私は、あなたの何ですか。
答えがない夜は、
結衣の心を静かに殺していった。