あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第22章|離婚届(未提出)

 朝、結衣は静かに起きた。

 蓮の気配はもう家にない。
 寝室の扉の向こうが、いつもより遠い。
 昨夜の言葉がまだ胸に刺さっていて、息をすると痛む。

――あなたの隣にいる人って、私じゃなくてもいいんですよね。

 言ってしまった自分が怖い。
 でも、言わなかったらもっと壊れていた。

 キッチンに立ち、やかんを火にかける。
 湯が沸く音だけが、家の中で生きているみたいだった。

 テーブルの上には、家政婦の名刺。
 結衣はそれを見つめて、ゆっくり息を吐いた。

(役目、終わったんだ)

 誰にも言われていないのに、そう思ってしまう。

 湯気の向こうに、雨の路地裏が浮かぶ。
 段ボール箱。
 濡れた小さな命。
 そして――蓮の声。

「……こわくない。大丈夫」

 あの柔らかい声は、結衣には向けられなかった。
 結衣は自分の胸を押さえた。

(私だって、怖かったよ)

 夫の隣が遠くて。
 言葉がなくて。
 知らない名前が増えていくのが怖かった。

 結衣は食器棚の上段から、白い封筒を取り出した。
 昔、役所の窓口でもらった書類一式。
 使うつもりなんてなかったのに、なぜか捨てられずにしまっていた。

 封筒の中から、離婚届が出てくる。

 真っ白な紙。
 ただの紙なのに、胸がぎゅっと締めつけられる。

(これに名前を書けば……終わる)

 結衣はペンを握った。
 手が震えて、キャップを外すのに時間がかかる。

 名前の欄に、ゆっくりと書き始めた。

 朝霧 結衣。

 書いた瞬間、自分の名前が急に他人のものに見えた。
 九条結衣、になれなかった自分。
 夫の家にいたのに、夫の世界に入れなかった自分。

 結衣は呼吸を整えようとした。
 でも息が浅い。

 蓮の名前を書く欄が、目に刺さる。
 九条 蓮。

 書けない。
 書けたら、楽になるのかもしれない。
 でも、書いたら本当に終わってしまう。

 結衣はペン先を紙に落としかけて、止めた。
 インクが小さく滲む。

(……ごめんね)

 心の中で呟く。
 誰に謝っているのか分からない。
 蓮に?
 自分に?
 それとも、まだ消えない“好き”に?

 結衣はペンを置き、指輪を見つめた。

 左手の薬指。
 薄い輪が、きちんと嵌まっている。

 結婚式の日、蓮は指輪を滑らせながら言った。

「……似合う」

 その一言だけは、結衣の胸に残っている。
 でも、その後の言葉が続かなかった。

 結衣は指輪に指をかける。

 抜けない。
 少し、むくんでいるのかもしれない。

 結衣は水を流し、指を濡らしてからもう一度試す。
 金属が皮膚を擦り、じわりと痛む。

(こんなに……外れないのに)

 心は簡単に外れていってしまう。

 指輪が、やっと抜けた。

 結衣はそれを掌に乗せた。
 小さくて、冷たい。
 なのに、重い。

 結衣はリングケースを開き、指輪をそっと入れた。
 蓋を閉める音が、やけに大きく響く。

 そのとき、玄関の鍵が回る音がした。

 結衣の心臓が跳ねる。
 こんな時間に、蓮が帰るはずがない。
 家政婦? でもまだ早い。

 足音が近づき、リビングの扉が開いた。

「……結衣?」

 蓮だった。

 結衣は息を止めた。
 胸の奥が熱くなり、指先が冷える。

「どうして……」

 蓮はスーツのまま立っていた。
 視線が、テーブルの上に落ちる。
 離婚届。
 リングケース。

 空気が凍った。

 蓮の顔から、色が消える。

「……何だ、それ」

 結衣はすぐに離婚届を伏せようとした。
 でも、遅かった。
 隠す動きが、答えになってしまう。

「……ごめんなさい」

 最初に出たのは、また謝罪だった。
 違う。謝りたいのは、こうなる前に何も言えなかったことなのに。

 蓮が一歩近づく。

「……おい。結衣」

 声が硬い。
 猫に向ける柔らかさはない。
 その事実が、結衣の心をまた削る。

 結衣は視線を落とした。

「……まだ、出してないです」

 それだけは、言わなければと思った。
 “未提出”。
 最後のブレーキ。

 蓮は机の上のリングケースを見つめたまま、低く言った。

「……指輪まで、外したのか」

 結衣は頷いた。
 涙が出そうで、唇を噛む。

「……ごめんなさい」

 蓮の拳が、わずかに握られる。
 怒っているのか、壊れそうなのか分からない。

「……理由を言え」

 結衣は首を振った。

(言ったら、責めることになる)
(責めたくない)
(でも、苦しい)

 結衣の喉が震える。

「……言わなくても、分かると思いました」

 蓮の目が揺れた。
 その揺れが、結衣には“図星”に見える。

 結衣は、椅子の背に手を置き、ゆっくり立ち上がった。

「……私、出ていきますね」

 言った瞬間、胸が痛んだ。
 でも、もう戻れない気がした。

 蓮が言いかける。

「……待て」

 また、その言葉。
 結衣は目を閉じた。

(待て、じゃなくて、どうして、って言ってほしかった)

 結衣は、静かに言った。

「……私、邪魔になりたくないんです」

 望月の声が蘇る。
 “副社長は私が支えます”

 結衣はそれを、現実として受け入れてしまった。

 蓮は言葉を失った。
 結衣の前で、いつも通り“説明できない沈黙”を落とす。

 その沈黙が、結衣の背中を押した。

 結衣はリングケースを持ち上げ、離婚届を封筒に戻した。
 手が震えて、紙の角が擦れる音がする。

 ――未提出。
 でも、心はもう提出してしまったみたいだった。
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