あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第27章|追いかける(派手じゃない誠実さ)

蓮は会社に戻るなり、秘書室へ向かった。

 歩きながら、手紙の一文が何度も頭を殴る。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました』

 結衣は、それを蓮に伝えた。
 伝えたのに、蓮は答えられなかった。
 その沈黙が、結衣を追い出した。

 蓮は秘書室のドアを開けた。
 いつもならノックをする。
 でも今日は、できなかった。

「望月」

 呼び捨ての声に、室内の空気が一瞬固まる。
 望月玲香は顔を上げ、完璧な微笑を作った。

「副社長。お呼びでしょうか」

 蓮は机の前まで歩き、低く言った。

「……結衣に、何を言った」

 望月の表情が、僅かに揺れる。
 揺れたのは一瞬で、すぐに整う。

「奥様と、何かございましたか」

 蓮の指先が強張った。

「答えろ」

 望月は息を整え、静かに言った。

「奥様から、家政婦の件で問い合わせがございましたので」
「状況を説明し、奥様には無理をなさらないようにと」

 蓮は一歩踏み込む。

「“副社長は私が支えます”と言ったな」

 望月の瞳が僅かに揺れた。
 否定しない。
 それが答えだった。

「……副社長が多忙でいらっしゃるのは事実です」
「私の職務として、支えるのは当然かと」

 当然。
 その言葉が、結衣の胸をどれだけ裂いたか――望月は知らないふりをする。

 蓮は低く、噛みしめるように言った。

「お前の職務は“俺の仕事”だ」
「……俺の妻の席に、口を出すな」

 望月の微笑が、ほんの少しだけ硬くなる。

「副社長、奥様が傷つかれているなら――」

「傷つかせたのは俺だ」

 蓮の声は短く、重かった。

「だが、お前が言った言葉が、最後の一押しになった」

 望月は一瞬黙り、視線を伏せる。
 その沈黙が、認めた形だった。

 蓮は続けた。

「今後、結衣に直接連絡を取るな」
「必要な連絡は神崎を通せ」

 望月の指が、机の端を軽く押さえた。
 爪が白くなるほど。

「……承知いたしました」

 蓮は背を向けた。
 ここで勝ち負けをしたいわけじゃない。
 ただ、今は一秒でも早く結衣に行かなければならない。

 秘書室を出ると、神崎が待っていた。
 表情が読めない顔のまま、蓮を見上げる。

「副社長。奥様の居場所、候補が二つあります」

「言え」

「一つは、ご友人の朝霧真琴さん。もう一つは、奥様が時々立ち寄っていた花屋です」

 蓮の胸が強く跳ねた。
 “時々立ち寄っていた”。
 結衣はここで、静かに息をしていたのかもしれない。

「……どっちだ」

 神崎は首を振る。

「今は確証がありません。ただ、花屋の方が可能性が高い」
「奥様、そこだと“誰にも知られず”いられます」

 蓮は頷いた。

「……車を出せ」

 神崎が頷き、スマホを取り出す。
 蓮は歩きながら、結衣の手紙の文を思い出す。

――“妻の席”が最初から空いていた。

 違う。
 空けたのは俺だ。
 言葉を渡さず、沈黙で席をどかしたのは俺だ。

 車に乗り込む直前、蓮は神崎に低く言った。

「……結衣に会ったら、言い訳はしない」

 神崎が短く頷く。

「順番に、ですね」

「そうだ」

 蓮は窓の外の街を見た。
 いつもなら、仕事の数字と段取りしか見えないはずの景色が、今日は違う。

(結衣が泣かないように、俺が言葉を言う)

 派手なサプライズも、ドラマみたいな土下座も、今はいらない。
 必要なのは、たった一つ。

 ――「君が妻だ」と、言うこと。

 車は動き出す。
 蓮はスマホを握り、結衣の番号を押した。

 今度は切らせない。

 呼び出し音が鳴る。

(出てくれ)

 祈るみたいに待つ。
 自分が、こんな気持ちになるなんて知らなかった。

 呼び出し音の向こうで、世界が静かに揺れていた。
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