あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第26章|小春の一言(火消しではなく、気づき)


 蓮は昼休みの終わり、無意識にハンドルを握っていた。

 会社を出て、向かう先は決まっている。
 保護猫シェルター。
 ルルのところ。

(……逃げるな)

 神崎の言葉が耳に残っている。

――奥様は、ずっと孤独でした。
――副社長が黙るほど、誤解されます。

 そして、手紙の一文が刺さる。

『望月さんに「副社長は私が支えます」と言われた時、
私は“妻の席”が最初から空いていたのだと思ってしまいました』

 蓮は歯を食いしばった。

(望月が言ったことより、俺が結衣に答えなかったことが――)

 痛い。
 言葉を選べず黙った自分が、結衣を追い詰めた。

 車を降り、シェルターの前に立つと、風に混じって猫の匂いがした。
 ここに来ると、心が少しだけ静かになる。
 だからこそ――結衣には、余計に残酷だったのかもしれない。

 ドアを開けると、小春が顔を上げた。

「あ……九条さん」

 いつもより、少し驚いた声。
 その驚きが、蓮には“頻度”を言い当てられているようで胸に刺さる。

「ルルは?」

「奥にいます。今日、機嫌いいですよ」

 小春が笑う。
 それだけで、蓮の喉が緩むのを自覚した。

(……結衣には、こういう声が出ない)

 自覚した瞬間、腹の底が重くなる。

 蓮は奥へ進み、ケージの前にしゃがんだ。
 ルルは小さく鳴き、近づいてくる。

「……よし。いい子だ」

 柔らかい声が、勝手に出た。

 ルルが頭を擦り寄せる。
 蓮は指先で、そっと撫でた。

「……怖くない。大丈夫」

 その言葉を言った瞬間、脳裏に結衣の顔が浮かんだ。
 夜、ひとりで待つ結衣。
 笑って「大丈夫です」と言う結衣。
 泣きそうなのに、泣かない結衣。

(結衣こそ……怖かったはずだ)

 蓮は手を止めた。

 背後で、小春の足音が近づく。

「九条さん」

「……何だ」

 小春は少し言いづらそうに、でも目を逸らさずに言った。

「……奥様、いなくなったんですよね」

 蓮の背中が強張る。

「……」

 小春は慌てて両手を振った。

「あ、ごめんなさい。噂とかじゃなくて……」
「この前、奥様がここに来てたの、見かけたので。
 それで……今日、九条さんの顔がいつもより固いから」

 “固い”。
 その言葉が、蓮の胸を刺す。

 小春は続けた。声は優しいのに、内容は容赦がない。

「九条さんって……猫には優しいのに、人には不器用ですよね」

 蓮は息を止めた。

 言い返せない。
 否定できない。

 小春はルルを見つめながら、ぽつりと言う。

「猫には、拒まれないからですか?」

 蓮の指先が、ルルの毛の上で止まる。

(拒まれない……)

 それは真実だった。
 猫は、傷つける言葉を返さない。
 猫は、言葉を求めてこない。
 猫は、沈黙でも離れていかない。

 でも結衣は、人だ。
 結衣は、言葉が必要だった。
 結衣は、沈黙で傷つく。

 小春が静かに言った。

「奥様、ここで九条さんの声を聞いて……すごく傷ついた顔をしてました」

 蓮の胸が、強く痛んだ。

「……見てたのか」

「見てました。止められなかった。
 奥様、泣きそうなのに泣かなくて……」

 小春は一呼吸置いて、最後に言った。

「九条さん。奥様に“猫に向ける声”を、少しでいいから向けてあげてください」
「奥様は、猫じゃないから。
 ……言葉をもらえないと、ひとりで答えを作っちゃいます」

 神崎と同じことを、小春も言った。
 違う角度から、同じ痛みを突きつける。

 蓮の喉の奥が熱くなる。

(結衣は、望月に言われた)
(“副社長は私が支えます”と)
(そして俺は、否定しなかった)

 蓮はルルを見つめた。
 小さな命は、ただ目を細めている。

「……ルル」

 呼んだ声が、柔らかい。
 その柔らかさが今は、罪みたいだった。

 蓮は立ち上がった。
 小春が驚く。

「帰るんですか?」

「……行く」

 小春は一瞬、目を見開いたあと、頷いた。

「奥様のところですね」

 蓮は答えない。
 でも、もう逃げないと決めた。

 ドアを開ける前に、蓮は低く言った。
 自分に言い聞かせるように。

「……俺の隣は、結衣だ」

 それは今まで一度も、結衣に言えなかった言葉だった。
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