あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第29章|告白

 シェルターの奥は、静かだった。

 ルルの小さな体温が、結衣の腕の中で呼吸している。
 その温かさがなければ、結衣はきっと立っていられなかった。

 結衣は涙をこらえたまま、蓮を見た。

「……望月さんに“副社長は私が支えます”って言われた時」
「私、全部が決まった気がしたんです」

 声が震える。
 でも、止めなかった。

「あなたの隣にいるのは、私じゃないって」

 蓮は一瞬、目を閉じた。
 息を吸って、吐く。
 逃げるためじゃない。言葉を選ぶための呼吸だった。

「……結衣」

 名前を呼ぶ声が、前より少しだけ柔らかい。

 蓮は、はっきり言った。

「望月の言葉は、間違ってる」

 結衣の胸が跳ねる。
 でも、疑う癖が先に立つ。

「……でも、望月さんは、あなたを支えてる」

「支えてるのは仕事だ」

 蓮の言葉は短い。
 でも今日は、そこで終わらなかった。

「……俺が支えてほしいのは、お前だ」

 結衣の喉が詰まる。

(今さら)

 そう言いそうになって、飲み込む。
 今さらでも、聞きたかった。
 ずっと。

 蓮は続ける。
 順番に、逃げずに。

「結衣が望月に電話した時」
「……俺は気づけなかった」
「気づけなかったことが、もう遅かった」

 結衣は唇を噛んだ。
 涙が溜まって視界が揺れる。

「私、あなたに言ったのに」
「望月さんに言われたって、伝えたのに」
「……あなたは、否定しなかった」

 蓮の指先が、わずかに震えた。

「……否定できなかったんじゃない」

 蓮は結衣を見る。
 目が逸れない。
 その視線が、今までになく真っ直ぐだった。

「俺は、言葉を選べなかった」

 結衣は小さく笑いそうになって、泣きそうになった。

「選べなかった……?」

 蓮は頷く。

「結衣に何か言った瞬間」
「……壊れそうで、怖かった」

 結衣の胸が、ぎゅっとなる。

(壊れたのは、私だよ)

 でも蓮の“怖い”も、本物に見えた。
 それが余計に、切ない。

 蓮は一歩だけ近づき、声を落とした。

「猫には、拒まれない」

 結衣の指が、ルルの毛を撫でる手を止める。

 蓮は続けた。

「猫は、俺が黙ってても離れない」
「俺が不器用でも、傷つかない」
「……だから、声が出る」

 結衣の喉が痛む。
 その理屈が、分かってしまうのが悔しい。

 蓮は、やっと核心を言った。

「結衣には……好きすぎて、固くなる」

 結衣の息が止まった。

 好きすぎて。
 固くなる。

 結衣は笑ってしまいそうになった。
 でも笑えない。
 泣きたい。

「……そんなの、分かるわけないじゃないですか」

 声が震えて、少しだけ怒りが混ざった。
 怒りじゃない。悲しみの裏返し。

 蓮は頷いた。

「分からないのに、分かれと言ったのは俺だ」
「……不安にさせたのは俺だ」

 蓮は視線を落とし、苦しそうに言った。

「会食も、送迎も、隣に立った写真も」
「全部、“仕事”だ」
「でも結衣にそう見えるのは、俺が説明しなかったせいだ」

 結衣の涙が、ついに落ちた。

 ルルの背に落ちないように、結衣は顔をそむける。
 泣く姿を見せたくない。
 でももう、無理だった。

 蓮が低く言う。

「……結衣」

 その声が、少しだけ、あの“猫の声”に近づいている気がした。
 それだけで胸が痛い。

 結衣は掠れた声で言った。

「私、望月さんの言葉が……怖かった」
「“副社長は私が支えます”って」
「……私、いらないって言われた気がして」

 蓮は即答した。

「いらないわけがない」

 言い切った。
 今までで一番強い否定だった。

 結衣は目を潤ませたまま、蓮を見る。

「……じゃあ、私は」

 喉が震える。
 でも、聞きたい。
 今度は逃げないで聞きたい。

「私は、あなたの何ですか」

 蓮は、もう沈黙しなかった。

 一拍だけ置いて、結衣の目をまっすぐ見た。

「……妻だ」

 たった二文字。
 それだけで、結衣の胸の奥がほどけた。

 蓮は続ける。
 言葉を重ねる。
 逃げない。

「俺の隣は、お前だ」
「望月じゃない」
「白石でもない」
「小春でもない」

 結衣の唇が震える。
 嬉しいのに、悔しい。

「……遅いです」

 結衣の声は泣き声だった。

 蓮の表情が、痛そうに歪む。

「……分かってる」

 そして、蓮はほんの少しだけ声を柔らかくした。
 不器用に、でも必死に。

「……もう二度と、黙らない」

 結衣の胸が熱くなる。
 ルルが小さく鳴いた。
 その鳴き声が、二人の間の空気を少しだけ解いた。

 結衣は泣きながら笑った。

「……猫に言うみたいに、言ってください」

 蓮が、短く息を吐いた。
 照れを隠すみたいに。

「……練習する」

 その言葉が、可笑しくて、苦しくて、愛しかった。
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