あなたの隣にいたのは、私じゃなかった

第30章|夫婦の再スタート

 シェルターの奥で、結衣は涙を拭いた。

 泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、袖で何度も目元をこする。
 それでも涙は止まらない。
 嬉しいのに、悔しい。
 「妻だ」と言われたのに、今までの孤独が一気に押し寄せてくる。

 ルルが小さく鳴き、結衣の腕の中で身を丸めた。
 その体温が、結衣を現実につなぎとめてくれる。

 蓮は一歩も逃げずに、結衣の前に立っていた。
 いつものように冷たく見えない。
 苦しそうで、必死な顔をしている。

「……結衣」

 呼ぶ声が、少しだけ柔らかい。
 結衣はそれを聞いて、胸がまた痛んだ。

「……今さら、って顔をするな」

 結衣は首を振った。

「してません」

 嘘だ。
 している。
 でも、今さらでも言ってほしかった。

 蓮は息を吐いて、言葉を一つずつ置くように言った。

「望月が“支える”と言ったのは、仕事だ」
「……でも、“俺を支えていい”のは、お前だけだ」

 結衣の喉が詰まる。

「そんなの……」

 言い返したいのに、声が震えて出ない。

 蓮は結衣の手元――ルルを抱く腕を見て、少しだけ目を細めた。

「……猫、重くないか」

 結衣は小さく笑ってしまった。
 泣きながら笑う自分が、子どもみたいだ。

「大丈夫です」

 蓮は一瞬迷ってから、そっと言った。

「……俺が持つ」

 結衣は首を振る。

「今は、いいです」

 今は、ルルが盾になってくれる。
 抱きしめられたら、全部崩れてしまうから。

 小春が遠くから様子を見て、気づかないふりをしてくれている。
 その優しさがありがたかった。

 蓮は視線を落として、小さく言った。

「……結衣、家に戻れとは言わない」

 結衣の胸がひゅっと縮む。

(戻れ、じゃないの?)

 蓮は続けた。
 焦って押しつけない。
 それが、今の蓮の“誠実さ”だった。

「でも――一緒に帰ろう」

 一緒に。
 その二文字が、結衣の心の奥に落ちて、温かく広がった。

 結衣は唇を噛んだ。

「……私、怖いんです」

 言ってしまう。
 やっと本音が出る。

「また、黙られたら」
「また、望月さんみたいな言葉を聞いたら」
「……私、またひとりで答えを作って、消えてしまう」

 蓮は、即座に頷いた。

「……分かった」

 そして、ゆっくりと、結衣の目を見て言う。
 いつもなら言えなかったことを、今は言う。

「不安にさせたのは俺だ」
「黙って逃げたのも俺だ」
「……ごめん」

 謝罪。
 たったそれだけで、結衣の胸がほどけそうになる。

 結衣は小さく首を振った。

「謝らないでほしいわけじゃない」
「……でも、謝るだけで終わらないで」

 蓮は、結衣の言葉を受け止めるように息を吐いた。

「終わらせない」

 その声が、少しだけ――猫に向ける声に近かった。

 蓮はポケットから、小さな箱を出した。
 結衣が置いていったリングケースだ。

 結衣の息が止まる。

「……持ってきたんですか」

「……返されると思ったから」

 蓮は照れたように目を逸らし、すぐ戻す。

「でも、返さない」

 結衣の目が潤む。

 蓮は箱を開き、指輪を取り出した。
 光が小さく揺れる。

 蓮は結衣の左手を取ろうとして、止まった。
 結衣の反応を待つように。

 結衣は、ゆっくり手を差し出した。
 怖い。
 でも、欲しい。

 蓮の指先が、結衣の薬指に触れる。

 その瞬間、蓮の声が落ちた。
 低いのに、柔らかい。

「……怖かったら、言え」
「俺は、黙らない」

 指輪が、ゆっくり嵌められる。
 冷たい金属が、結衣の体温で温まっていく。

 結衣は泣きながら笑った。

「……その声」

 蓮が一瞬固まる。

 結衣は続けた。

「その声、ちゃんと私に向けてくれました」

 蓮は、少しだけ顔をしかめる。
 照れを隠すみたいに。

「……練習中だ」

「合格です」

 結衣がそう言うと、蓮の口元が僅かに緩んだ。
 その笑みは、猫に向けたほど無防備じゃない。
 でも、結衣に向けられた笑みだった。

 蓮は結衣の手を握ったまま、もう一度言う。

「一緒に帰ろう」

 結衣は頷いた。
 小さく、でも確かに。

「……はい」

 ルルが小さく鳴く。
 まるで「やっとだね」と言うみたいに。

 結衣はルルを小春に返し、最後に蓮を見上げた。

「……私、まだ怖いです」

「それでいい」

 蓮は結衣の手を握り直した。
 今度は離さない力だった。

「怖いなら、俺が言葉を渡す」
「――君が妻だ」

 結衣の胸の中で、長い冬が終わる音がした。

 夫婦の再スタートは、派手じゃない。
 でも、確かに温かかった。
< 30 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop