あなたの隣にいたのは、私じゃなかった
第4章|触れない優しさ
その夜、結衣は早めに湯を張った。
湯気が浴室の鏡を曇らせ、視界が少しだけやさしくなる。
曇りの向こうなら、今日聞いてしまった言葉も、胸の痛みも、薄くなる気がした。
――奥様は形だけ。
――本命は別。
――選ばれたのが奥様じゃなかっただけ。
笑い声ごと、耳の奥に残っている。
結衣はバスローブの袖を握り、髪を乾かしながら時計を見る。
蓮からの短い通知どおり、帰宅は遅い。
理由も、謝罪もない。
(聞けないよね)
聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる。
そして結衣は「そうですよね」と笑う。
それが、この家の“夫婦らしさ”になってしまっている。
リビングの灯りを落とし、間接照明だけにする。
静かな家に、テレビの小さな音が流れる。
眠くないのに、ソファに座る。
待つことに慣れた妻みたいに。
鍵の音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
結衣は立ち上がり、深呼吸をひとつする。
「お帰りなさい」
蓮は玄関に立ち、ネクタイを緩めながら頷いた。
「……ただいま。起きてたのか」
その“起きてたのか”は責めるでも褒めるでもなく、事実確認みたいだった。
結衣は笑って頷く。
「お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや……いい」
蓮のスーツは、きちんとしているのに、肩だけが少し重そうだ。
結衣は近づきかけて――やめた。
(近づいていい距離が、わからない)
結婚してから、何度もそう思っている。
蓮は靴を揃え、手洗いへ向かう。
結衣はその背中を見ながら、口を開いた。
「あの……」
蓮が足を止める。
振り向いた瞳は静かで、心を読むより先に壁を作る目だった。
「……どうした」
結衣は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
“今日、会社で”――なんて言えない。
“噂を聞いた”とも、言えない。
代わりに、もっと小さなことを言う。
「お茶、淹れますね」
「……ありがとう」
結衣はキッチンへ向かい、湯を沸かす。
手が少し震えた。
ポットのスイッチを押す指先が冷たい。
蓮がリビングに入ってきた。ソファの端に座る。結衣の斜め後ろ。
距離があるのに、視線だけは刺さってくる。
湯が沸き、急須に茶葉を入れる。湯気が上がる。
結衣はマグカップを二つ並べた。
夫婦の形を、物で作ろうとするみたいに。
結衣がカップを運ぶと、蓮は受け取って口をつけた。
それだけで、結衣の胸のどこかが少しだけ温まる。
でも、その温かさは続かない。
「……遅くまで、いつも大変ですね」
結衣は、声が震えないように笑った。
蓮はカップを置き、短く答える。
「仕事だから」
それで終わる。
結衣は次の言葉を探す。
(ねえ、誰といたの?)
(ねえ、私のことは……)
(ねえ、私はあなたの――)
聞いたら壊れる気がして、口にできない。
蓮は立ち上がった。
「……もう寝ろ。明日も早いだろ」
結衣は頷き、立ち上がろうとして――ふと、足が止まった。
(寝ろ、って)
夫婦なのに。
“寝室へ一緒に行こう”じゃなくて、別々の部屋へ戻る合図みたいだ。
結衣の唇が、勝手に動いた。
「……蓮さん」
蓮が振り向く。
結衣は自分の胸に手を当て、勇気を絞る。
「私……何か、いけないことしましたか?」
静寂が落ちた。
蓮の目が僅かに揺れる。驚いたように、困ったように。
「……どうして、そう思う」
結衣は笑おうとして、失敗した。
「だって……」
“触れないから”。
“話してくれないから”。
“隣が遠いから”。
言えない。
言葉にしたら、本当に現実になってしまう。
結衣は視線を落とし、指先を握りしめた。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
謝った瞬間、胸が痛んだ。
違う。謝りたいのは、蓮じゃなくて。
言えない自分だ。
蓮は、数歩だけ近づいた。
ほんの数歩。
それでも結衣は息を止めてしまう。
「……結衣」
名前を呼ばれて、目が上がる。
蓮の手が伸びる。
結衣の髪に触れるかと思って、身体が勝手に強張った。
でも蓮の手は、結衣の肩より手前で止まった。
空を掴むみたいに、指が迷う。
「……無理をするな」
また、それだ。
触れない優しさ。
踏み込まない配慮。
結衣は笑った。笑わなければ泣いてしまうから。
「はい」
蓮は、何か言いかけて――結局何も言わず、踵を返した。
廊下の先で、寝室の扉が静かに閉まる音がする。
結衣はその音を聞きながら、手のひらを見つめた。
さっき、触れられると思って強張った手。
触れられなかったのに、まだ震えている。
(私……触れてほしかったんだ)
それを望んだ瞬間、
自分が惨めで、恥ずかしくて、苦しい。
結衣はソファに座り込み、照明の薄い光の中で膝を抱えた。
蓮は優しい。
優しいのに――私にだけ、遠い。
そして結衣は、今日聞いてしまった噂を思い出す。
(選ばれたのが、私じゃなかっただけ)
胸の奥に、黒い芽がゆっくり伸びていく。
湯気が浴室の鏡を曇らせ、視界が少しだけやさしくなる。
曇りの向こうなら、今日聞いてしまった言葉も、胸の痛みも、薄くなる気がした。
――奥様は形だけ。
――本命は別。
――選ばれたのが奥様じゃなかっただけ。
笑い声ごと、耳の奥に残っている。
結衣はバスローブの袖を握り、髪を乾かしながら時計を見る。
蓮からの短い通知どおり、帰宅は遅い。
理由も、謝罪もない。
(聞けないよね)
聞いたところで、きっと「仕事だ」で終わる。
そして結衣は「そうですよね」と笑う。
それが、この家の“夫婦らしさ”になってしまっている。
リビングの灯りを落とし、間接照明だけにする。
静かな家に、テレビの小さな音が流れる。
眠くないのに、ソファに座る。
待つことに慣れた妻みたいに。
鍵の音がしたのは、日付が変わる少し前だった。
結衣は立ち上がり、深呼吸をひとつする。
「お帰りなさい」
蓮は玄関に立ち、ネクタイを緩めながら頷いた。
「……ただいま。起きてたのか」
その“起きてたのか”は責めるでも褒めるでもなく、事実確認みたいだった。
結衣は笑って頷く。
「お疲れ様です。何か食べますか?」
「いや……いい」
蓮のスーツは、きちんとしているのに、肩だけが少し重そうだ。
結衣は近づきかけて――やめた。
(近づいていい距離が、わからない)
結婚してから、何度もそう思っている。
蓮は靴を揃え、手洗いへ向かう。
結衣はその背中を見ながら、口を開いた。
「あの……」
蓮が足を止める。
振り向いた瞳は静かで、心を読むより先に壁を作る目だった。
「……どうした」
結衣は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
“今日、会社で”――なんて言えない。
“噂を聞いた”とも、言えない。
代わりに、もっと小さなことを言う。
「お茶、淹れますね」
「……ありがとう」
結衣はキッチンへ向かい、湯を沸かす。
手が少し震えた。
ポットのスイッチを押す指先が冷たい。
蓮がリビングに入ってきた。ソファの端に座る。結衣の斜め後ろ。
距離があるのに、視線だけは刺さってくる。
湯が沸き、急須に茶葉を入れる。湯気が上がる。
結衣はマグカップを二つ並べた。
夫婦の形を、物で作ろうとするみたいに。
結衣がカップを運ぶと、蓮は受け取って口をつけた。
それだけで、結衣の胸のどこかが少しだけ温まる。
でも、その温かさは続かない。
「……遅くまで、いつも大変ですね」
結衣は、声が震えないように笑った。
蓮はカップを置き、短く答える。
「仕事だから」
それで終わる。
結衣は次の言葉を探す。
(ねえ、誰といたの?)
(ねえ、私のことは……)
(ねえ、私はあなたの――)
聞いたら壊れる気がして、口にできない。
蓮は立ち上がった。
「……もう寝ろ。明日も早いだろ」
結衣は頷き、立ち上がろうとして――ふと、足が止まった。
(寝ろ、って)
夫婦なのに。
“寝室へ一緒に行こう”じゃなくて、別々の部屋へ戻る合図みたいだ。
結衣の唇が、勝手に動いた。
「……蓮さん」
蓮が振り向く。
結衣は自分の胸に手を当て、勇気を絞る。
「私……何か、いけないことしましたか?」
静寂が落ちた。
蓮の目が僅かに揺れる。驚いたように、困ったように。
「……どうして、そう思う」
結衣は笑おうとして、失敗した。
「だって……」
“触れないから”。
“話してくれないから”。
“隣が遠いから”。
言えない。
言葉にしたら、本当に現実になってしまう。
結衣は視線を落とし、指先を握りしめた。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
謝った瞬間、胸が痛んだ。
違う。謝りたいのは、蓮じゃなくて。
言えない自分だ。
蓮は、数歩だけ近づいた。
ほんの数歩。
それでも結衣は息を止めてしまう。
「……結衣」
名前を呼ばれて、目が上がる。
蓮の手が伸びる。
結衣の髪に触れるかと思って、身体が勝手に強張った。
でも蓮の手は、結衣の肩より手前で止まった。
空を掴むみたいに、指が迷う。
「……無理をするな」
また、それだ。
触れない優しさ。
踏み込まない配慮。
結衣は笑った。笑わなければ泣いてしまうから。
「はい」
蓮は、何か言いかけて――結局何も言わず、踵を返した。
廊下の先で、寝室の扉が静かに閉まる音がする。
結衣はその音を聞きながら、手のひらを見つめた。
さっき、触れられると思って強張った手。
触れられなかったのに、まだ震えている。
(私……触れてほしかったんだ)
それを望んだ瞬間、
自分が惨めで、恥ずかしくて、苦しい。
結衣はソファに座り込み、照明の薄い光の中で膝を抱えた。
蓮は優しい。
優しいのに――私にだけ、遠い。
そして結衣は、今日聞いてしまった噂を思い出す。
(選ばれたのが、私じゃなかっただけ)
胸の奥に、黒い芽がゆっくり伸びていく。