乗り遅れた恋の再出発は終電から
真夏の夜の十時。
私はバッグを抱え、改札を抜けて必死に走る。
これを逃したら最悪。ただでさえ終電を逃すのは確定事項なのに!
古びたホームに出て、車両に向かって走る。
とにかく乗りさえすれば、あとは座席までは車内を歩いて行けるから!
「お待たせいたしました、十五番線から大阪行き、ひかり……」
案内放送を聞きながら、私は新幹線に飛び乗る。ピンポーン、ピンポーン、という音と共に背後で空気の抜ける音がして、扉がゆっくりと閉まった。
「間に合った……」
ぜいぜいと息をして、デッキでつぶやく。
首に流れる汗を拭い、指定席へととぼとぼと歩く。
日帰りの出張だった。取引先で「一緒に飲みませんか。ちょっとだけ」と言われてこれも仕事のうちだと思って行ったのが間違いだった。ふたりの女性が一緒だったから、そこにも油断があった。
話が長くて、なかなか帰れなかった。この人の扱いに慣れているのか、女性陣はふたりで盛り上がっていて、まるで自分は生贄だ。
「佐和木さん、いやこれじゃ他人行儀だなあ。マナちゃんさあ」
親し気に下の名前にちゃんづけで呼ばれて不快。お酒が入る前は紳士的だったのに!
「新幹線の時間があるので」
無理矢理切り上げ、スマホの乗り換え案内に従ってなんとか東京駅にたどりつき、ぎりぎりで新幹線に間に合った。
……のはいいのだけど。
この時間だと、名駅——名護矢駅に着いてからの電車がない。もっと早くに勇気を出すべきだった。
私はスマホで弟にメッセージを送る。
『やっと新幹線に乗ったの。名駅についたら終電がないから迎えにきて』
いつもは弟が終電を逃して、仕事で疲れた私が迎えに行ってあげている。
だから当然迎えに来てくれると思ったのに。
『無理。デート中』
私は画面を二度見した。
電話をかけるが、電源が入っていないか電波の届かないところに……というアナウンスが流れる。
「はあ!? 姉の一大事より自分の恋なわけ!?」
思わずつぶやき、はっと口を押える。
きっと車内の人に聞かれちゃった。恥ずかしい。
どうせ二度と会うことのない人たちばっかりなんだから、と自分に言い聞かせ、私は平静を装ってスマホに指を滑らせる。
『もう二度と迎えに行かない』
それだけを弟に送り、背もたれに背をあずける。
夜だから富士山も見えないよね。新幹線に乗ったときの楽しみなのに。
私は車内が映る窓を見て、ため息をついた。
名護矢駅についたのは二十三時五十五分。
私の最寄り駅に行くための在来線電車はもう出たあとだ。
まだ電車がある人はいいな。東京だったら十二時過ぎても電車があるんだよね。山の手線なら長い区間でも二キロくらいだから歩いて帰れそうだけど、私が使う路線は駅の間隔が長いから無理。
コンコースをばたばたと走る人を見送り、タクシーで帰ることにして、まずは駅の外のコンビニに向かう。
喉が渇いたし、明日の朝に食べるパンもほしい。
自動ドアをくぐった直後、雑誌コーナーで見たことのある顔に気付く。あれは確か……。
私の視線に気付いたのか、彼が振りむいて驚いた顔になった。
「やっぱり湊くん!」
「先生!?」
ふいうちに胸がどきんと脈打った。だけど、それを隠してつかつかと彼に近付く。
「子どもがこんな時間に、ダメでしょ!」
私が注意すると、彼は苦笑をもらした。
「先生、ひでえ。俺もう社会人だよ」
そう言ってスーツを示す。
「あ、そっか……。何年振り?」
「7年ぶり、だね」
彼の答えに、私は記憶をたどる。
大学二年のときに家庭教師をしていて、彼は受験生だった。もう七年もたったの?
ということは、湊くんはもう二十五歳なんだ。そして自分は二十七歳。
「先生もスーツだ」
「そうなの。今日は出張で」
「似合ってる」
笑顔で言われて、なんだか照れ臭い。
「湊君も似合ってるよ。すごく大人っぽい」
「大人になったんだってば」
「そっか、そうだね」
お互いに顔を見合わせ、くすっと笑う。
「先生、酒飲んだ?」
「つきあいで、ちょっとだけ」
言ってから、急に恥ずかしくなった。ただでさえ汗をかいたのに、走ったからさらに汗をかいた。化粧ははげてるし、こんな状態で彼に会うなんて。
「君はこんなところでなにしてんの?」
私は現実を忘れるように話しかける。
「残業のあと同僚と飲んでさ。俺は車だからノンアルなんだけど。先生は? 終電なくね?」
「だからタクシーで帰るの。知ってる? 新幹線にも終電ってあるんだよ」
真顔で言うと、彼はぷっと吹き出した。
「そりゃそうだろ」
「私は今日まで知らなかったよ」
正確には、意識したことがなかった。新幹線なんて普段は乗らないから。
「先生やってたときはなんでも知ってるって顔してたのに」
「あのときは先生らしくしないとって頑張ってたから」
肩を竦めると、彼はくすっと笑った。
「じゃ、今日は俺が送ってくよ。車だから」
「いいよ、悪いし」
「ここで会ったのに先生をタクシーで返すなんてできないよ。かわりにコーヒーおごって。決まりね」
彼はすたすたと歩いて、コーヒーを二本、手にとった。
「先生が好きなのはこれでしょ」
「よく覚えてるね」
私が驚くと、彼はふふっと笑った。
「俺、記憶力がいいんで」
「言うねえ」
私は苦笑した。だけど、覚えてくれているのが嬉しい。封印したはずの気持ちが顔をのぞかせ、ほろ苦い気持ちになった。
支払いをすませ、彼に案内されて駐車場に向かう。
終電後の時間に名護矢を歩くのなんて初めてだ知らない世界を見ているみたいで、なんだかわくわくしてきた。
普段と変わらないはずなのに、急に特別感が出て来る。
これも、帰るための足が確保できたからだろう。タクシーならいくらかかるだろうかとうんざりしてそれどころじゃないはずだ。
思ったよりも人がいて、不思議だった。近所に住んでいるのだろうか。交通手段があるのだろうか。名護矢駅の近くに朝までやっているお店なんて少ないのに、どうやって夜を過ごすのだろう。
大学生くらいの若者たちがきゃははと笑いあいながら通り過ぎていく。未来なんて考えてなくて、過去も気にしていなくて、現在を謳歌しているように思える。
それが眩しくて、目を細めた。
自分も大学生だったころ、ほかの人からみたらあんなふうだったのだろうか。
「先生、どうかした?」
いぶかしげに尋ねられ、私は彼に目を向けた。
「意外に人がいるんだなあって」
「金曜日だしね」
彼は軽く答える。慣れてるのだろうか。
駐車場のビルはシンとしていて、足音が妙に響いて聞こえた。古いエレベーターのモーター音を聞いて上がり、到着したフロアで彼の車へと案内される。
親のお古だという国産の車の助手席に座り、シートベルトを締める。
彼は慣れた動作で車を発進させ、清算して夜の街へと走り出した。
「ついでドライブに行かね?」
「ドライブかあ」
明日は土曜日。仕事は休みだし、なにも予定はない。
だけどきっと化粧はどろどろだし、汗まみれだし、早く帰りたい。
「楽しいよ、夜のドライブ。昼間とは違ってて。俺、よく行くんだ。名護矢港もいいし、四日市のコンビナートを見るのも楽しいし、琵琶湖の湖岸を走るのも楽しい」
「琵琶湖は遠くない?」
「でも楽しいよ」
「景色って見えるの?」
「ぜんぜん」
即答に、思わず笑った。
「けどさ、雰囲気がいいんだ。港なら真っ暗な中に波の打ち寄せる感じ、コンビナートは工場の夜景がきれいでさ。琵琶湖は、港とはまた違う、湖って感じ」
「最後、説明になってない」
つっこむと、湊くんは、ははっと笑った。
「川沿いを走るのも楽しいよ。まっくらな中の川って真っ黒で怖くて楽しい」
「ホラーが好きなの?」
「そうじゃないよ」
湊くんは苦笑する。
彼は夜の世界にどんな景色を見ているんだろう。だんだん興味が湧いて来た。
「じゃあちょっとだけ、いい?」
夜中のドライブなんてしたことない。未知の体験だ。
「おっけ。山の中に行こうかな」
「え!?」
「変なことはしないよ」
湊くんは笑い、車のウィンカーを出して国道を走らせた。
バイパスを北上し、私の家のある市を通り過ぎる。
街がどんどんさびれた景色になっていき、家などなくなってしまった。
「東京、どうだった?」
「思ったより古い建物があって驚いた」
東京はぎゅんぎゅんに新旧の建物がつめこまれている。新しいビルばかりを想像していたから意外だった。山の手線なんて次々と電車が来るし、人がたくさんいるし、止まる駅すべてが賑やかで、それも驚く。こっちは名護矢から離れたらすぐに畑だらけなのに。
「私はこっちのほうがいいな。慣れてるからかな」
「住めば都って言うしね」
そういって、彼は真っ暗な道を走らせる。
「……大人になったねえ」
「なんだよ急に」
「ゲームの対戦で負けたって悔しがってた子が、車の運転してるんだよ。すごくない?」
「ったく、いつまで子ども扱いなわけ?」
「だって、ねえ」
初めて会ったときはまだあどけなさが残っていた。ゲームや漫画、アニメの話で盛り上がり、勉強では自分でもわからないところを質問されたときに必死にごまかしたこともあった。
宿題やりたくねー、と嘆かれ、わかるー、と言いながら彼を励まして勉強をさせていた。大学に入っても英語の授業がある、と知ったときの彼の絶望した顔をきたら!
そんな彼が、いまや車を運転している。
歳月の大きさが、急に等身大になって迫って来る感覚があった。
と同時に、切なくなる。もう私の知ってる彼じゃないんだ……。
忘れたはずの気持ちが、ふわっと心を通り過ぎて、胸がしめつけられた。
車はやがて、山の中へと入っていく。
街灯がほとんどなくて、車のライトだけでは頼りない。両側には真っ暗な中に真っ黒な木々が林立しているのがわかるが、それだけだ。
「なんかどきどきするね」
「だろ? それが面白くって、たまに来るんだ」
彼は迷いなくハンドルを切っている。一歩間違えれば崖の下に落ちてしまうかもしれない。
自分の命を彼の腕にあずけてるんだ、とふいに気がついて、またどきっとした。
彼は慣れた様子で山の頂上付近にある駐車場へと入り、車を止めた。
「ここ、夜景が綺麗なんだよ」
彼と車を降りて、駐車場の奥の展望スポットへ行く。
もう午前一時を過ぎていて、周りに人はいない。
見下ろす街は、だけどまだ光が溢れていた。
「早い時間ならもっときれいだったんだけど」
「充分きれいだよ。夜中でもこんなに光があるんだね」
道に並ぶ街灯が曲線を描き、ビルで途切れ、また続いている。
闇がくねっているのは、川なのだろう。
車のライトやテイルランプが流れ、信号で止まる。
道に沿っていっせいにぱっと緑に変わり、また車が進み始める。
「大学に北海道の田舎から来たやつがいるんだけどさ。この程度でも『明るい!』ってびっくりしてたよ」
「どんだけ真っ暗なんだろ」
「さあ。山道くらいかなあ。市街地にも野生の鹿が出るって言ってた。夜だと目が光るから怖いって」
「鹿!?」
まったく自分の日常とは違う話に、想像がつかない。
「大学、楽しんでるみたいだね」
「先生のおかげで第一志望に入れたし」
私はふふっと笑った。
それからも私の仕事の話や彼の大学での話をお互いにして、時間はゆるゆると溶けていく。
なんだか懐かしい。学生のときはこんなふうに友達と語りあかしたりして、気が付いたら朝だった。いつまでも夜でいてほしい。この独特の空気感は、楽しいときにいつも切なさとワンセットで訪れる。
「先生ってさ、今は恋人いんの?」
不意にきかれて、私はどきっとした。
落ち着け、こんなのはただの世間話だ。
「いないよー。そんな暇なくって」
「会社にいい人いるとか」
「いい人はもうみんな売約済み」
会社にいる人たちの顔を思い浮かべる。同僚と恋人欲しいねー、とか言い合ったりもするけれど、半分は社交辞令だったりする。お互いに適度な距離感を持って、踏み込みすぎない程度にきゃっきゃと話をする。それがお気軽な気もするし、寂しいときもある。
「そっか……」
湊くんの言葉が途切れ、私は首をかしげる。恋で悩みでもあるんだろうか。
「女の人って、年下とつきあうのってあり?」
聞かれて、またどきっとした。どうしてこんなこと聞いてくるんだろう。
「どうだろ。ありって言う人が多いんじゃない?」
「先生はどう思う?」
「昔は、なしって思ってた。今は……ありかな」
「昔って、どれくらい?」
「大学生のときくらい」
「そっか……」
彼はフェンスに腕をついて遠くを眺める。
私は並んで景色を見ながら、彼の横顔をちらりと伺う。
今好きな人が年上なのかな。会社の人かな。うらやましい。
思ってから、苦笑する。
私には関係ないのに。嫉妬したみたい。
「じゃあさ……」
彼はためらうように言葉を切った。
くるっと振り向いた彼と、ばちっと目があった。
「高校生のとき先生が好きだったって言ったらどうする?」
私は目を丸くして彼を見た。
いたずらをするような、試すような。少し不安も混じっている。
そんな眼差しに、私はつい目をそらした。
「あの頃は同級生が好きって言ってたじゃん」
「あれ、嘘。そのほうが先生が安心するでしょ。好きだって気付かれたら、先生は先生をやめちゃうだろうからさ」
確かにその通りだ。
「卒業したら告白しようと思ってたんだけど、先生、彼氏ができたって嬉しそうだったからなにも言えなかった」
心臓が、いやおうなく鼓動を早める。
あのとき、私は彼をあきらめるために「彼氏ができた」って嘘を言っていた。なのに、まさか両想いだったの?
「……ごめん」
「謝んなよ。先生はなにも悪くないじゃん」
彼は苦笑する。その笑顔が妙に大人びて見えて、置いて行かれている気がした。
私の知らない七年分。彼は誰とどうすごしてきたのだろう。
もう先生ぶるのも辞めないといけないよね。教員免許を持った本当の先生じゃないし。
「もう先生じゃないよ……」
「どういう意味?」
「意味って」
そのまま、先生じゃないって意味でしか言わなかったけど、もしかして別の意味でとられちゃったんだろうか。
「深い意味はないよ。そろそろ帰ろっか」
私が慌てて言うと。
「もう?」
物足りなさそうに問い返された。
「遅くなって居眠り運転になっても嫌だから」
私の言葉に、彼はあきらめたように息をはき、それから言う。
「先生、連絡先変わってない?」
「うん」
「また連絡する。今度は昼間に会おうよ」
「え?」
聞き返す私に、彼はにこっと笑う。
まだ夜は明けてない。
なのにやけに眩しく見えて、私は目を細めた。
第一話 終
私はバッグを抱え、改札を抜けて必死に走る。
これを逃したら最悪。ただでさえ終電を逃すのは確定事項なのに!
古びたホームに出て、車両に向かって走る。
とにかく乗りさえすれば、あとは座席までは車内を歩いて行けるから!
「お待たせいたしました、十五番線から大阪行き、ひかり……」
案内放送を聞きながら、私は新幹線に飛び乗る。ピンポーン、ピンポーン、という音と共に背後で空気の抜ける音がして、扉がゆっくりと閉まった。
「間に合った……」
ぜいぜいと息をして、デッキでつぶやく。
首に流れる汗を拭い、指定席へととぼとぼと歩く。
日帰りの出張だった。取引先で「一緒に飲みませんか。ちょっとだけ」と言われてこれも仕事のうちだと思って行ったのが間違いだった。ふたりの女性が一緒だったから、そこにも油断があった。
話が長くて、なかなか帰れなかった。この人の扱いに慣れているのか、女性陣はふたりで盛り上がっていて、まるで自分は生贄だ。
「佐和木さん、いやこれじゃ他人行儀だなあ。マナちゃんさあ」
親し気に下の名前にちゃんづけで呼ばれて不快。お酒が入る前は紳士的だったのに!
「新幹線の時間があるので」
無理矢理切り上げ、スマホの乗り換え案内に従ってなんとか東京駅にたどりつき、ぎりぎりで新幹線に間に合った。
……のはいいのだけど。
この時間だと、名駅——名護矢駅に着いてからの電車がない。もっと早くに勇気を出すべきだった。
私はスマホで弟にメッセージを送る。
『やっと新幹線に乗ったの。名駅についたら終電がないから迎えにきて』
いつもは弟が終電を逃して、仕事で疲れた私が迎えに行ってあげている。
だから当然迎えに来てくれると思ったのに。
『無理。デート中』
私は画面を二度見した。
電話をかけるが、電源が入っていないか電波の届かないところに……というアナウンスが流れる。
「はあ!? 姉の一大事より自分の恋なわけ!?」
思わずつぶやき、はっと口を押える。
きっと車内の人に聞かれちゃった。恥ずかしい。
どうせ二度と会うことのない人たちばっかりなんだから、と自分に言い聞かせ、私は平静を装ってスマホに指を滑らせる。
『もう二度と迎えに行かない』
それだけを弟に送り、背もたれに背をあずける。
夜だから富士山も見えないよね。新幹線に乗ったときの楽しみなのに。
私は車内が映る窓を見て、ため息をついた。
名護矢駅についたのは二十三時五十五分。
私の最寄り駅に行くための在来線電車はもう出たあとだ。
まだ電車がある人はいいな。東京だったら十二時過ぎても電車があるんだよね。山の手線なら長い区間でも二キロくらいだから歩いて帰れそうだけど、私が使う路線は駅の間隔が長いから無理。
コンコースをばたばたと走る人を見送り、タクシーで帰ることにして、まずは駅の外のコンビニに向かう。
喉が渇いたし、明日の朝に食べるパンもほしい。
自動ドアをくぐった直後、雑誌コーナーで見たことのある顔に気付く。あれは確か……。
私の視線に気付いたのか、彼が振りむいて驚いた顔になった。
「やっぱり湊くん!」
「先生!?」
ふいうちに胸がどきんと脈打った。だけど、それを隠してつかつかと彼に近付く。
「子どもがこんな時間に、ダメでしょ!」
私が注意すると、彼は苦笑をもらした。
「先生、ひでえ。俺もう社会人だよ」
そう言ってスーツを示す。
「あ、そっか……。何年振り?」
「7年ぶり、だね」
彼の答えに、私は記憶をたどる。
大学二年のときに家庭教師をしていて、彼は受験生だった。もう七年もたったの?
ということは、湊くんはもう二十五歳なんだ。そして自分は二十七歳。
「先生もスーツだ」
「そうなの。今日は出張で」
「似合ってる」
笑顔で言われて、なんだか照れ臭い。
「湊君も似合ってるよ。すごく大人っぽい」
「大人になったんだってば」
「そっか、そうだね」
お互いに顔を見合わせ、くすっと笑う。
「先生、酒飲んだ?」
「つきあいで、ちょっとだけ」
言ってから、急に恥ずかしくなった。ただでさえ汗をかいたのに、走ったからさらに汗をかいた。化粧ははげてるし、こんな状態で彼に会うなんて。
「君はこんなところでなにしてんの?」
私は現実を忘れるように話しかける。
「残業のあと同僚と飲んでさ。俺は車だからノンアルなんだけど。先生は? 終電なくね?」
「だからタクシーで帰るの。知ってる? 新幹線にも終電ってあるんだよ」
真顔で言うと、彼はぷっと吹き出した。
「そりゃそうだろ」
「私は今日まで知らなかったよ」
正確には、意識したことがなかった。新幹線なんて普段は乗らないから。
「先生やってたときはなんでも知ってるって顔してたのに」
「あのときは先生らしくしないとって頑張ってたから」
肩を竦めると、彼はくすっと笑った。
「じゃ、今日は俺が送ってくよ。車だから」
「いいよ、悪いし」
「ここで会ったのに先生をタクシーで返すなんてできないよ。かわりにコーヒーおごって。決まりね」
彼はすたすたと歩いて、コーヒーを二本、手にとった。
「先生が好きなのはこれでしょ」
「よく覚えてるね」
私が驚くと、彼はふふっと笑った。
「俺、記憶力がいいんで」
「言うねえ」
私は苦笑した。だけど、覚えてくれているのが嬉しい。封印したはずの気持ちが顔をのぞかせ、ほろ苦い気持ちになった。
支払いをすませ、彼に案内されて駐車場に向かう。
終電後の時間に名護矢を歩くのなんて初めてだ知らない世界を見ているみたいで、なんだかわくわくしてきた。
普段と変わらないはずなのに、急に特別感が出て来る。
これも、帰るための足が確保できたからだろう。タクシーならいくらかかるだろうかとうんざりしてそれどころじゃないはずだ。
思ったよりも人がいて、不思議だった。近所に住んでいるのだろうか。交通手段があるのだろうか。名護矢駅の近くに朝までやっているお店なんて少ないのに、どうやって夜を過ごすのだろう。
大学生くらいの若者たちがきゃははと笑いあいながら通り過ぎていく。未来なんて考えてなくて、過去も気にしていなくて、現在を謳歌しているように思える。
それが眩しくて、目を細めた。
自分も大学生だったころ、ほかの人からみたらあんなふうだったのだろうか。
「先生、どうかした?」
いぶかしげに尋ねられ、私は彼に目を向けた。
「意外に人がいるんだなあって」
「金曜日だしね」
彼は軽く答える。慣れてるのだろうか。
駐車場のビルはシンとしていて、足音が妙に響いて聞こえた。古いエレベーターのモーター音を聞いて上がり、到着したフロアで彼の車へと案内される。
親のお古だという国産の車の助手席に座り、シートベルトを締める。
彼は慣れた動作で車を発進させ、清算して夜の街へと走り出した。
「ついでドライブに行かね?」
「ドライブかあ」
明日は土曜日。仕事は休みだし、なにも予定はない。
だけどきっと化粧はどろどろだし、汗まみれだし、早く帰りたい。
「楽しいよ、夜のドライブ。昼間とは違ってて。俺、よく行くんだ。名護矢港もいいし、四日市のコンビナートを見るのも楽しいし、琵琶湖の湖岸を走るのも楽しい」
「琵琶湖は遠くない?」
「でも楽しいよ」
「景色って見えるの?」
「ぜんぜん」
即答に、思わず笑った。
「けどさ、雰囲気がいいんだ。港なら真っ暗な中に波の打ち寄せる感じ、コンビナートは工場の夜景がきれいでさ。琵琶湖は、港とはまた違う、湖って感じ」
「最後、説明になってない」
つっこむと、湊くんは、ははっと笑った。
「川沿いを走るのも楽しいよ。まっくらな中の川って真っ黒で怖くて楽しい」
「ホラーが好きなの?」
「そうじゃないよ」
湊くんは苦笑する。
彼は夜の世界にどんな景色を見ているんだろう。だんだん興味が湧いて来た。
「じゃあちょっとだけ、いい?」
夜中のドライブなんてしたことない。未知の体験だ。
「おっけ。山の中に行こうかな」
「え!?」
「変なことはしないよ」
湊くんは笑い、車のウィンカーを出して国道を走らせた。
バイパスを北上し、私の家のある市を通り過ぎる。
街がどんどんさびれた景色になっていき、家などなくなってしまった。
「東京、どうだった?」
「思ったより古い建物があって驚いた」
東京はぎゅんぎゅんに新旧の建物がつめこまれている。新しいビルばかりを想像していたから意外だった。山の手線なんて次々と電車が来るし、人がたくさんいるし、止まる駅すべてが賑やかで、それも驚く。こっちは名護矢から離れたらすぐに畑だらけなのに。
「私はこっちのほうがいいな。慣れてるからかな」
「住めば都って言うしね」
そういって、彼は真っ暗な道を走らせる。
「……大人になったねえ」
「なんだよ急に」
「ゲームの対戦で負けたって悔しがってた子が、車の運転してるんだよ。すごくない?」
「ったく、いつまで子ども扱いなわけ?」
「だって、ねえ」
初めて会ったときはまだあどけなさが残っていた。ゲームや漫画、アニメの話で盛り上がり、勉強では自分でもわからないところを質問されたときに必死にごまかしたこともあった。
宿題やりたくねー、と嘆かれ、わかるー、と言いながら彼を励まして勉強をさせていた。大学に入っても英語の授業がある、と知ったときの彼の絶望した顔をきたら!
そんな彼が、いまや車を運転している。
歳月の大きさが、急に等身大になって迫って来る感覚があった。
と同時に、切なくなる。もう私の知ってる彼じゃないんだ……。
忘れたはずの気持ちが、ふわっと心を通り過ぎて、胸がしめつけられた。
車はやがて、山の中へと入っていく。
街灯がほとんどなくて、車のライトだけでは頼りない。両側には真っ暗な中に真っ黒な木々が林立しているのがわかるが、それだけだ。
「なんかどきどきするね」
「だろ? それが面白くって、たまに来るんだ」
彼は迷いなくハンドルを切っている。一歩間違えれば崖の下に落ちてしまうかもしれない。
自分の命を彼の腕にあずけてるんだ、とふいに気がついて、またどきっとした。
彼は慣れた様子で山の頂上付近にある駐車場へと入り、車を止めた。
「ここ、夜景が綺麗なんだよ」
彼と車を降りて、駐車場の奥の展望スポットへ行く。
もう午前一時を過ぎていて、周りに人はいない。
見下ろす街は、だけどまだ光が溢れていた。
「早い時間ならもっときれいだったんだけど」
「充分きれいだよ。夜中でもこんなに光があるんだね」
道に並ぶ街灯が曲線を描き、ビルで途切れ、また続いている。
闇がくねっているのは、川なのだろう。
車のライトやテイルランプが流れ、信号で止まる。
道に沿っていっせいにぱっと緑に変わり、また車が進み始める。
「大学に北海道の田舎から来たやつがいるんだけどさ。この程度でも『明るい!』ってびっくりしてたよ」
「どんだけ真っ暗なんだろ」
「さあ。山道くらいかなあ。市街地にも野生の鹿が出るって言ってた。夜だと目が光るから怖いって」
「鹿!?」
まったく自分の日常とは違う話に、想像がつかない。
「大学、楽しんでるみたいだね」
「先生のおかげで第一志望に入れたし」
私はふふっと笑った。
それからも私の仕事の話や彼の大学での話をお互いにして、時間はゆるゆると溶けていく。
なんだか懐かしい。学生のときはこんなふうに友達と語りあかしたりして、気が付いたら朝だった。いつまでも夜でいてほしい。この独特の空気感は、楽しいときにいつも切なさとワンセットで訪れる。
「先生ってさ、今は恋人いんの?」
不意にきかれて、私はどきっとした。
落ち着け、こんなのはただの世間話だ。
「いないよー。そんな暇なくって」
「会社にいい人いるとか」
「いい人はもうみんな売約済み」
会社にいる人たちの顔を思い浮かべる。同僚と恋人欲しいねー、とか言い合ったりもするけれど、半分は社交辞令だったりする。お互いに適度な距離感を持って、踏み込みすぎない程度にきゃっきゃと話をする。それがお気軽な気もするし、寂しいときもある。
「そっか……」
湊くんの言葉が途切れ、私は首をかしげる。恋で悩みでもあるんだろうか。
「女の人って、年下とつきあうのってあり?」
聞かれて、またどきっとした。どうしてこんなこと聞いてくるんだろう。
「どうだろ。ありって言う人が多いんじゃない?」
「先生はどう思う?」
「昔は、なしって思ってた。今は……ありかな」
「昔って、どれくらい?」
「大学生のときくらい」
「そっか……」
彼はフェンスに腕をついて遠くを眺める。
私は並んで景色を見ながら、彼の横顔をちらりと伺う。
今好きな人が年上なのかな。会社の人かな。うらやましい。
思ってから、苦笑する。
私には関係ないのに。嫉妬したみたい。
「じゃあさ……」
彼はためらうように言葉を切った。
くるっと振り向いた彼と、ばちっと目があった。
「高校生のとき先生が好きだったって言ったらどうする?」
私は目を丸くして彼を見た。
いたずらをするような、試すような。少し不安も混じっている。
そんな眼差しに、私はつい目をそらした。
「あの頃は同級生が好きって言ってたじゃん」
「あれ、嘘。そのほうが先生が安心するでしょ。好きだって気付かれたら、先生は先生をやめちゃうだろうからさ」
確かにその通りだ。
「卒業したら告白しようと思ってたんだけど、先生、彼氏ができたって嬉しそうだったからなにも言えなかった」
心臓が、いやおうなく鼓動を早める。
あのとき、私は彼をあきらめるために「彼氏ができた」って嘘を言っていた。なのに、まさか両想いだったの?
「……ごめん」
「謝んなよ。先生はなにも悪くないじゃん」
彼は苦笑する。その笑顔が妙に大人びて見えて、置いて行かれている気がした。
私の知らない七年分。彼は誰とどうすごしてきたのだろう。
もう先生ぶるのも辞めないといけないよね。教員免許を持った本当の先生じゃないし。
「もう先生じゃないよ……」
「どういう意味?」
「意味って」
そのまま、先生じゃないって意味でしか言わなかったけど、もしかして別の意味でとられちゃったんだろうか。
「深い意味はないよ。そろそろ帰ろっか」
私が慌てて言うと。
「もう?」
物足りなさそうに問い返された。
「遅くなって居眠り運転になっても嫌だから」
私の言葉に、彼はあきらめたように息をはき、それから言う。
「先生、連絡先変わってない?」
「うん」
「また連絡する。今度は昼間に会おうよ」
「え?」
聞き返す私に、彼はにこっと笑う。
まだ夜は明けてない。
なのにやけに眩しく見えて、私は目を細めた。
第一話 終


