塩対応だった旦那様が記憶喪失になったら、執着溺愛して離してくれなくなりました
 あまりにレナルドが甘く優しく接してくれるから、その幸せから離れられなくなった。いつか本当のことを伝えなくちゃと心のどこかで思いながらも、ずるずると先延ばしにしてしまった。本当のことを告げるのが遅くなればなるほど、記憶を取り戻した時のレナルドの心証は悪くなる一方なのに。

 執事のクレマンに、もう少しこのままでと頼まれたことなんて、言い訳に過ぎない。ラシェル自身が、ずっとこうしていたいと願ってしまっていたのだから。

 頭の中にセヴランの言った『愛されてもいないくせに。ちょっと優しくされたのを勘違いして、惨めなもんだな』という言葉がよみがえり、ラシェルは小さく呻いた。愛されているわけでもないのに、偽りの愛に溺れるラシェルは、本当に惨めだ。

「もう、いい加減覚悟を決めるべきよね。たくさん幸せな夢を見せてもらったもの、そろそろおしまいにしなくちゃ」

 自分に言い聞かせるようにつぶやくが、胸の奥が疼くように痛む。

 本当はラシェルのことを愛してなどいなかったとレナルドに告げ、心からの謝罪をすべきだろう。『お飾りの妻』が必要ならば、今後は彼の愛を一切求めずにその責務を全うするし、そばにいることすら不快だと言われれば、離縁を受け入れて実家に帰るしかない。きっと肩代わりしてもらった借金も返済しなければならないし、実家に迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、なんとか仕事を見つけて働くしかないだろう。

「……最初から、私には不相応だって、分かっていたもの。ほんの一瞬だけど、一生分の思い出をもらったわ。これからの私にできるのは、償いだけ」

 ラシェルは震える声でつぶやく。目頭が熱くなり、頬を熱いものが流れ落ちるのが分かったが、これは決して涙ではない。

 ばしゃんと乱暴に水音を立てながら何度も顔を洗い、ラシェルは強く目を閉じた。
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