紳士な仮面の下は溺愛
渡里冴香は改札に向かって走っていた。
二十八歳になってまで深夜に時間とのおっかけっこだ。
それもこれも課長が悪い。退職者の送別会を企画したはいいが、手配はすべて冴香に丸投げ、手柄だけ横取り。
二次会のカラオケから終電を理由に抜け出したが、幹事だろ、と引き留められたせいで走るはめになった。
改札で一時減速してタッチして抜け、また全速力で走る。
ぜいぜいと息を切らせて階段につくと、同じように走るおじさんと男性を見かけた。
『八番線に停車中の電車は……』
最終電車の案内放送と同時に最上段に足をかける。
なんとか間に合いそうだ。
ほっと胸を撫でおろしたとき。
視界の端で、おじさんが斜めに駆け上がるのが見えた。直後、ぶつかる。
「きゃあ!」
倒れながら、すべてがスローモーションに見えた。カメラが上に移動するようにゆっくりと天井が見えて、遠ざかっていく。
私、ここで死ぬの? まだやりかけの仕事が……嫌だ、最後に考えるのが仕事なんて。
悲しく思ったとき。
どすん、と衝撃とともになにかに支えられた。
「大丈夫ですか!?」
降って来たのは、男性の声。
「え……」
なにが起きたのか、一瞬、理解できなかった。
助けてくれたのだと察し、慌てて態勢を直す。彼が下から抱き留めてくれて、倒れずに済んだらしい。
ばくばくする心臓と荒い呼吸のまま男性に頭をさげる。
「ありがとうございます」
『八番線、発車します』
案内放送に、冴香と男性ははっとホームを見た。
夜に不似合いなさわやかな発車音を響かせ、電車がゆっくりと進み始める。ぶつかってきた男性はあの中だろう。いや、そんなことより。
冴香は気まずく彼を見る。
「すみません、私のせいで電車が……」
「あなたがご無事ならいいんですよ」
微笑する彼に、冴香の胸がどきんと鳴った。
「お礼を……あ、タクシー代は払います!」
「それより足を痛めてませんか?」
冴香は足をぐりぐり回してみる。
「大丈夫そうです」
「良かった。あなたもタクシーですか? 乗り場まで送りますよ」
紳士だ。
冴香は感動して彼を見た。
改めて見る彼の顔は整っていて、目は優し気に垂れている。走ったせいか黒髪が少し乱れていてセクシーだ。自分が絵描きか写真家ならぜひモデルをと頼むところだ。
再度お礼を言って、一緒にタクシー乗り場に行く。
彼は冴香を先に並ばせてくれて、楽しく話題をふってくれた。
雑談しながら悩む。
連絡先を聞いてもいいだろうか。お礼をしたいけど下心があると思われたら。
葛藤をしている間にも列は短くなり、とうとう冴香の番になった。
「……今日は本当にありがとうございました」
冴香はあきらめて深々と頭を下げる。
「いえ。どうぞお気をつけて」
男性の笑顔に見送られてタクシーに乗ると、無情にもドアが閉まる。
窓越しの彼に未練がましく会釈を送り、運転手に自宅の住所を告げた。
それから数日、冴香は駅に着くたびに男性の姿を探した。
同じ駅を使っているなら、また会うかもしれない。
お礼を込みで、タクシー代として三万円を封筒に入れて持ち歩いていた。
会えないままに一週間が過ぎるとあきらめが大きくなった。
いつも使う駅ではないかもしれない。通勤時間が同じならもっと前に彼を見かけたはずだ。
二週間後、残業でへとへとになって駅に向かっていたときだった。
改札に近い場所で中年男性とぶつかった。
「きゃ!」
冴香はバランスを崩し、人ごみに倒れ込む。手をつくのも間に合わず、あちこちを打った。
「スマホばっか見てんじゃねーぞ!」
男性は捨て台詞を吐いてさっさと歩き去る。
冴香は呆然とした。
スマホなんて見てないし、まっすぐに歩いていたし、真横からぶつかられて避けられる人なんていないと思う。
悔しい気持ちになりながら立ち上がろうとしたとき、声をかけられた。
「大丈夫ですか」
「あ!」
冴香は慌てて立ち上がる。
そこにいたのは、階段から落ちそうなときに助けてくれた男性だった。
「あのときはありがとうございました。今日も、すみません」
「奇遇ですね。けがはないですか?」
「はい」
「不運ですね。不注意は向こうでしたのに」
「まったくです」
あちこち打って痛いし倒れたのを見られて恥ずかしい。その上、冴香のせいにして怒鳴られた。知らない人は本当に冴香が悪いと思うだろう。
だけど、ひとりでもわかってくれる人がいた。それだけで安心感が胸に広がる。
「あ、この前のお礼を」
怪訝な顔をする男性に、冴香はバッグから出した封筒を差し出して頭を下げる。
「先日のお礼です。タクシー代にどうぞ」
「そんなわけにはいきませんよ」
断られたが、冴香としても差し出したものをひっこめることができず困ってしまった。
「……では、これからお時間があれば、ごはんでも奢っていただけませんか?」
男性の妥協案に、冴香はすかさず頷く。
「はい、もちろん。これも受け取ってください」
「とりあえずしまってください。ここでは人の邪魔になってしまいますので」
確かに改札の近くでは邪魔だ。
冴香はバッグに封筒をしまい、彼の提案で近くのファミレスに入る。
この程度でいいのだろうか、と悩む冴香にかまわず彼は注文し、タブレットを渡される。
冴香も注文を済ませ、また封筒を差し出した。
「命の恩人ですから、やっぱりこれは受け取ってください」
頭を下げる冴香に、彼は苦笑を見せた。
「律儀な方ですね。では、遠慮なくいただきます」
受け取ってもらえて、ようやく冴香はほっと息をつけた。
「ずっと持ち歩いていたのですか?」
「はい。でももうお会いできないかもと思ってました。通勤は別の路線ですか?」
「同じ路線ですけどあれ以来まったく会わなかったですね。不思議です」
ひとつでもなにかが違えば会わなかった。あのときおじさんにぶつかられなければそのまま終電に乗って、すれ違ったままだっただろう。
「実は俺もお会いしたくて探していたんですよ」
「え?」
どきっとした冴香に、彼は続ける。
「無事に帰れたのか心配だったので」
「ありがとうございます」
彼は優しいだけだ。少し期待した自分が恥ずかしくて目を逸らす。
ふと眺めたタブレットからは『食いしん坊フェス、矢々木公園で開催!』とCMが流れている。このファミレスも出店するらしい。
「おいしそう……」
串焼きや海鮮丼など、全国各地のご当地料理の写真が冴香の食欲を刺激してたまらない。
「いいですね、全国の味を楽しめるなんて」
おいしそうな写真を一緒に眺めた彼は、トップ画面に切り替わると冴香を見た。
「よかったら一緒に行きませんか?」
「え?」
「お嫌なら遠慮なく断ってください」
冴香はどきっとした。
これをOKしたら、なにかが始まってしまうのだろうか。
いや、きっと深い意味はない。彼は紳士だから。
もぞもぞと身じろぎして、それから冴香はうつむいたまま言った。
「行きたいです」
「よかった」
嬉しそうな声に思わず顔をあげると、にっこりと笑っている彼がいた。タレ目がさらに垂れていて、心臓が落ち着かない。
彼とはすぐに連絡先を交換し、どぎまぎしながら食事をした。
独り暮らしのアパートに帰ってからも心臓が騒がしく、彼を思い出すたびにどきんと跳ねて苦しくなる。
「服、なににしようかな」
言葉とともにこぼしたため息には、確かに恋のかけらが混じっていた。
第一話 終
二十八歳になってまで深夜に時間とのおっかけっこだ。
それもこれも課長が悪い。退職者の送別会を企画したはいいが、手配はすべて冴香に丸投げ、手柄だけ横取り。
二次会のカラオケから終電を理由に抜け出したが、幹事だろ、と引き留められたせいで走るはめになった。
改札で一時減速してタッチして抜け、また全速力で走る。
ぜいぜいと息を切らせて階段につくと、同じように走るおじさんと男性を見かけた。
『八番線に停車中の電車は……』
最終電車の案内放送と同時に最上段に足をかける。
なんとか間に合いそうだ。
ほっと胸を撫でおろしたとき。
視界の端で、おじさんが斜めに駆け上がるのが見えた。直後、ぶつかる。
「きゃあ!」
倒れながら、すべてがスローモーションに見えた。カメラが上に移動するようにゆっくりと天井が見えて、遠ざかっていく。
私、ここで死ぬの? まだやりかけの仕事が……嫌だ、最後に考えるのが仕事なんて。
悲しく思ったとき。
どすん、と衝撃とともになにかに支えられた。
「大丈夫ですか!?」
降って来たのは、男性の声。
「え……」
なにが起きたのか、一瞬、理解できなかった。
助けてくれたのだと察し、慌てて態勢を直す。彼が下から抱き留めてくれて、倒れずに済んだらしい。
ばくばくする心臓と荒い呼吸のまま男性に頭をさげる。
「ありがとうございます」
『八番線、発車します』
案内放送に、冴香と男性ははっとホームを見た。
夜に不似合いなさわやかな発車音を響かせ、電車がゆっくりと進み始める。ぶつかってきた男性はあの中だろう。いや、そんなことより。
冴香は気まずく彼を見る。
「すみません、私のせいで電車が……」
「あなたがご無事ならいいんですよ」
微笑する彼に、冴香の胸がどきんと鳴った。
「お礼を……あ、タクシー代は払います!」
「それより足を痛めてませんか?」
冴香は足をぐりぐり回してみる。
「大丈夫そうです」
「良かった。あなたもタクシーですか? 乗り場まで送りますよ」
紳士だ。
冴香は感動して彼を見た。
改めて見る彼の顔は整っていて、目は優し気に垂れている。走ったせいか黒髪が少し乱れていてセクシーだ。自分が絵描きか写真家ならぜひモデルをと頼むところだ。
再度お礼を言って、一緒にタクシー乗り場に行く。
彼は冴香を先に並ばせてくれて、楽しく話題をふってくれた。
雑談しながら悩む。
連絡先を聞いてもいいだろうか。お礼をしたいけど下心があると思われたら。
葛藤をしている間にも列は短くなり、とうとう冴香の番になった。
「……今日は本当にありがとうございました」
冴香はあきらめて深々と頭を下げる。
「いえ。どうぞお気をつけて」
男性の笑顔に見送られてタクシーに乗ると、無情にもドアが閉まる。
窓越しの彼に未練がましく会釈を送り、運転手に自宅の住所を告げた。
それから数日、冴香は駅に着くたびに男性の姿を探した。
同じ駅を使っているなら、また会うかもしれない。
お礼を込みで、タクシー代として三万円を封筒に入れて持ち歩いていた。
会えないままに一週間が過ぎるとあきらめが大きくなった。
いつも使う駅ではないかもしれない。通勤時間が同じならもっと前に彼を見かけたはずだ。
二週間後、残業でへとへとになって駅に向かっていたときだった。
改札に近い場所で中年男性とぶつかった。
「きゃ!」
冴香はバランスを崩し、人ごみに倒れ込む。手をつくのも間に合わず、あちこちを打った。
「スマホばっか見てんじゃねーぞ!」
男性は捨て台詞を吐いてさっさと歩き去る。
冴香は呆然とした。
スマホなんて見てないし、まっすぐに歩いていたし、真横からぶつかられて避けられる人なんていないと思う。
悔しい気持ちになりながら立ち上がろうとしたとき、声をかけられた。
「大丈夫ですか」
「あ!」
冴香は慌てて立ち上がる。
そこにいたのは、階段から落ちそうなときに助けてくれた男性だった。
「あのときはありがとうございました。今日も、すみません」
「奇遇ですね。けがはないですか?」
「はい」
「不運ですね。不注意は向こうでしたのに」
「まったくです」
あちこち打って痛いし倒れたのを見られて恥ずかしい。その上、冴香のせいにして怒鳴られた。知らない人は本当に冴香が悪いと思うだろう。
だけど、ひとりでもわかってくれる人がいた。それだけで安心感が胸に広がる。
「あ、この前のお礼を」
怪訝な顔をする男性に、冴香はバッグから出した封筒を差し出して頭を下げる。
「先日のお礼です。タクシー代にどうぞ」
「そんなわけにはいきませんよ」
断られたが、冴香としても差し出したものをひっこめることができず困ってしまった。
「……では、これからお時間があれば、ごはんでも奢っていただけませんか?」
男性の妥協案に、冴香はすかさず頷く。
「はい、もちろん。これも受け取ってください」
「とりあえずしまってください。ここでは人の邪魔になってしまいますので」
確かに改札の近くでは邪魔だ。
冴香はバッグに封筒をしまい、彼の提案で近くのファミレスに入る。
この程度でいいのだろうか、と悩む冴香にかまわず彼は注文し、タブレットを渡される。
冴香も注文を済ませ、また封筒を差し出した。
「命の恩人ですから、やっぱりこれは受け取ってください」
頭を下げる冴香に、彼は苦笑を見せた。
「律儀な方ですね。では、遠慮なくいただきます」
受け取ってもらえて、ようやく冴香はほっと息をつけた。
「ずっと持ち歩いていたのですか?」
「はい。でももうお会いできないかもと思ってました。通勤は別の路線ですか?」
「同じ路線ですけどあれ以来まったく会わなかったですね。不思議です」
ひとつでもなにかが違えば会わなかった。あのときおじさんにぶつかられなければそのまま終電に乗って、すれ違ったままだっただろう。
「実は俺もお会いしたくて探していたんですよ」
「え?」
どきっとした冴香に、彼は続ける。
「無事に帰れたのか心配だったので」
「ありがとうございます」
彼は優しいだけだ。少し期待した自分が恥ずかしくて目を逸らす。
ふと眺めたタブレットからは『食いしん坊フェス、矢々木公園で開催!』とCMが流れている。このファミレスも出店するらしい。
「おいしそう……」
串焼きや海鮮丼など、全国各地のご当地料理の写真が冴香の食欲を刺激してたまらない。
「いいですね、全国の味を楽しめるなんて」
おいしそうな写真を一緒に眺めた彼は、トップ画面に切り替わると冴香を見た。
「よかったら一緒に行きませんか?」
「え?」
「お嫌なら遠慮なく断ってください」
冴香はどきっとした。
これをOKしたら、なにかが始まってしまうのだろうか。
いや、きっと深い意味はない。彼は紳士だから。
もぞもぞと身じろぎして、それから冴香はうつむいたまま言った。
「行きたいです」
「よかった」
嬉しそうな声に思わず顔をあげると、にっこりと笑っている彼がいた。タレ目がさらに垂れていて、心臓が落ち着かない。
彼とはすぐに連絡先を交換し、どぎまぎしながら食事をした。
独り暮らしのアパートに帰ってからも心臓が騒がしく、彼を思い出すたびにどきんと跳ねて苦しくなる。
「服、なににしようかな」
言葉とともにこぼしたため息には、確かに恋のかけらが混じっていた。
第一話 終


