ワンナイト限りの割り切り関係に「もう一度」は無粋です! ~正反対な私たちは今日も意見が合いません~
正反対な2人の出会い
 夜の帳が下りる頃の駅前では、家路を急ぐ人々の足音や夜の始まりに期待するような喧騒など、様々なものが混ざり合っていた。かくいう私もその1人。待ち合わせの人波に紛れながら、私はスマートフォンの画面を指先で弾いた。そこに表示されているのは、今日会う約束をしている『リョウ』という男性との簡素なメッセージのやり取りだ。

 ≪もうすぐ着きます。紺のチェスターコートを着ています。≫
 ≪分かりました。私は白いマフラーをして、時計の下にいます。≫

 今日行われた会話はそれだけ。でも、それだけで十分だった。
 私にとって、マッチングアプリはただの効率的な手段に過ぎない。求めるのは、日常を忘れさせてくれる一晩の充足。名前も職業も、過去も未来もいらない。清潔感があって、最低限のマナーさえ心得てくれた相手ならば、それでいい。
 恋愛感情という、重くて扱いにくい荷物を一夜に持ち込むつもりは毛頭なかった。

「……ハナさん、ですか?」

 低く、落ち着いた声が自分の仮の名を呼んだ。顔を上げると、そこにはメッセージの通り、仕立ての良い紺のコートを纏った男性が立っていた。
 街灯の白色の光を浴びたリョウという男は、アプリの写真で見るよりもずっと整った容姿をしていた。切れ長の瞳に、筋の通った鼻梁。唇は薄く、どこか理知的な印象を与える。
 私のような冷めた人間でも思わず見惚れてしまうほどだったが、ハッとなり口を開く。

「そうです。リョウさんですね。……こんばんは」
「こんばんは。お待たせしてしまったようで、申し訳ないです」

 彼は本当に申し訳なさそうに、それでも穏やかに微笑んだ。その笑みに裏があるのか、それとも天然の優しさなのか。そんなことを一瞬考えかけたが、すぐに頭を振った。それを誤魔化すかのように、私は彼の言葉に「私も今着いたばかりですので」と返しておいた。そして、真っ直ぐに彼を見上げる。

「いきなりですが、……私で大丈夫そうですか?」

 メッセージ上のやり取りの中、≪もし当日、会った時に無理だと思ったらその場で遠慮なくお伝えください≫と伝えてあった。確認の意味も兼ねてその話を持ち出せば、彼はすぐに頷いた。

「勿論です。むしろ、逆に自分は大丈夫ですか?」

 私も、彼の言葉にすぐに頷く。清潔感は尚のこと、顔もいいとなれば儲けものだ。今日はツイていた。

「お互いに確認も撮れましたし、早速ですが向かいましょうか」

 どこへ、とは言わないが私の言いたいことを察したらしい。彼は一瞬だけ目を見開いた。
 普通なら「まずは食事でも」と提案するところだろうが、私はそのプロセスさえも省きたかった。奢り奢られ問題は面倒だし、何よりも親睦を深める時間は割り切り関係において不要だから。

「分かりました。……では、行きましょうか」

 エスコートされるまま、私たちは夜の街へと踏み出した。



 彼が選んだのは、駅前からは少し離れた高級感の漂うホテルだった。ホテル特有の大きなパネルを眺めている中、彼が迷いなくタッチパネルで選んだのは、ここで1番高額なスイートルームだった。

(……別に、いい部屋じゃなくてもいいのに)
 
 心の中で、そっと溜息をつく。
 割り切りの関係において、過剰な対応は正直怖い。支払った金額に見合う以上の見返りを求められるのではないか、という警戒心が鎌首をもたげるからだ。けれど、ここで「そんなに高い部屋でなくていいですよ」と口を挟むのも無粋だろう。
 そんなことせめぎ合いの結果、私は彼の提供する非日常を静かに受け入れることにした。

 部屋に入ると、広々とした空間に柔らかな間接照明が灯っていた。流石はスイートルーム。なかなかお目にかかれない広さと設備の整い方だ。
 彼はコートを脱いでハンガーに掛けると、私のコートまで受け取ってくれる。あまりに紳士的な対応に感心していると、

「もし良かったら、先にゆっくり温まってきてください。随分冷えてしまったでしょう。僕は後で構いませんから」

 そんなことにまで気を遣ってもらってしまった。
 言い回しや表情、彼の一挙手一投足が紳士的すぎてどうにもむず痒くなる。まるで大事な恋人をエスコートしているかのような振る舞いだ。そんな思考を抑え込み、私は「ありがとうございます」と短く返して、バスルームへ向かった。

 鏡に映る自分は、いつものように無表情だった。熱いシャワーを浴びながら考える。彼は何を求めているのだろうか。この丁寧な扱いは、単なる彼の性格なのか。それとも、紳士的に振る舞うことで相手の警戒心を解くという、計算されたテクニックなのか。

 どちらにせよ、私には関係のないことだ。警戒していれば、無意識のうちに絆されるということもないだろう。
 シャワーを止め、温まった肌にタオルを当てる。ふわふわとした質のいいタオルは、私の無粋な思考を水ごと吸い取ってくれるような気がした。
 一通り鏡で自分の容姿を確認してから、用意されていたバスローブに身を包む。髪を軽く結ってから部屋に戻ると、彼はグラスに注いだミネラルウォーターを飲んでいた。机の上には、空のグラスが置いてある。

「おや、早かったですね。おかえりなさい」
「お先にありがとうございます」
「いえいえ。温まりましたか?ああ、部屋は寒くないですか?」
「大丈夫ですので、お気遣いなく」

 彼はソファーの端に座るよう促し、目の前でミネラルウォーターを注いでくれた。隣に座った私に、そのままグラスを渡してくれる。改めて見ても、リョウさんの動きは淀みなく洗練されているように感じた。

「良かったらどうぞ。僕もシャワーいただきますね」

 そう言い残し、彼はバスルームへと消えて行った。残された私の手元には、細工された様子が一切ない水の入ったグラス。私の警戒心の高さを見越してか、新品のグラスに水を注いでくれたのだろう。ここまで完璧に振る舞われると、一周回って怖いというもの。

(…でも…、たまにはこういうのもいいかな)

 やはり他人事のように冷めた思考のまま、私はグラスを傾けた。

「ふぅ…」
 
 何をするわけでもなく、飲み干した空のグラスを見つめる。今日の相手__リョウさんは不思議な人だ。紳士的で優しそうで、如何にもモテそうな雰囲気がある。
 
 だからこそ疑問なのだ。
 どうして私のような『条件付き』を選んだのか。

 優しいと噂のイケメンでも、奥底では妙な加虐心など厄介なものを抱えていることが多い。現に、そういう人を何人も見てきたし、何人も相手してきた。だからこそ、不思議で仕方ない。彼の奥底のものが見えてこないから。

(まあ、ベッドに上がれば分かることね)

 紳士的に振る舞うことで、奥底の欲求を隠したがる人だっている。それもベッドに上がるまでは、だが。彼がたまたまそのタイプだと思えば、何ら変な話ではない。そうだ、そうに決まっている。
 
「おや、眠たくなってしまいましたか?」

 そんなことを考えていると、上から声が降ってきた。ビクリと肩を跳ねさせれば、少し笑ってから謝られた。いつの間にかバスルームから出てきたらしい彼もまた、このホテルのバスローブに身を包んでいた。少しはだけた胸元から見える鍛えられた胸筋がやけに色っぽく見えてしまう。着やせするタイプなのかスーツを着ていた時は分からなかったが、意外にもガタイがいいらしい。

「まさか。今からがメインじゃないですか」

 彼の優しい一面を無性に剥がしたくなり、煽るように笑って見上げる。すると、彼は驚きつつも嬉しそうに上品な笑いを漏らした。

「良かった。僕だけが楽しみだったわけじゃなかったんですね、安心しました」

 尚、ほんの少し口調が崩れただけだった。
 ああ、やめやめ。こんな心理戦を持ち込むなんて、私らしくない。いつも通り、何も考えずに立ち回ればいいだけ。

 私は__
 
「勿論じゃないですか。今夜はあなたの好きにしてください」

 たった一夜に咲く、唯一無二の『ハナ』なのだから。




 軋むベッドに、漏れる嬌声。身を反らして切れてしまった息を整えながら、私はぼんやりと天井を見上げた。

 あの煽りに飛びついてこなかった人はいなかった。
 そう、いな〈かった〉のだ 

 ベッドの上でも、リョウさんは徹底して紳士的なままだった。私が求めるのは、荒々しく現実を忘れさせてくれるような刹那的な刺激。愛憎渦巻く全てのドス黒い欲を、八つ当たりのようにぶつけてくれて構わないのに。対して彼は驚くほど丁寧に、慈しむように私に触れてきた。

「……痛くないですか?少しでも辛かったら、すぐに言ってくださいね」

 彼が耳元で囁く言葉は甘く、こちらの反応を1つ1つ確かめながら進めていく。自分の欲求を押し付けるのではなく、私の快楽を優先しようとするその姿勢。相当女性慣れしているのだろう。そうでなければ、初対面の相手に対してこれほど余裕を持って振る舞えるはずがない。
 本来ならば喜んで受け入れるはずのそれらを、私は静かに分析していた。馬鹿になりきれない。空っぽになりきれない。こんなに甘くて熟れる行為を私は望んでない。

 それでも、拒めないのは何故なのか。
 異を唱えられないのは何故なのか。

 私は彼の首に手を回しながら、冷めた心で考えた。けれど彼の指先が、唇が、私の肌を艶めかしくなぞる度に思考の糸は解けていく。泥沼に沈んでいくような、甘く重い感覚。彼に抱かれながら、じわりと汗をかくのを感じた。今の自分が『ハナ』なのか、はたまた本名の自分なのか。今までなら絶対に混ざることのなかった判別が、自分自身ですらつかなくなっていた。

「はぁ…大丈夫ですか?」
 
 リョウさんは時折切なそうな、それでいて深い情愛を込めたような視線を向けてくる。その視線に、私は一瞬だけ恐怖を感じた。
 脳を過るのは同じ問い。この割り切り関係に彼は何を求めているのだろう、ということだけだった。未だに彼の素を見ることができていない気がした。彼の望みは何で、何をもって『割り切り関係で』という条件付きの(わたし)を選んだのだろう。

 けれど、その疑問もすぐに押し寄せる快楽の波にかき消された。今はただ、このどろどろに溶けた空気の中に身を浸していたくなった。




 事が終わった後の静寂は、いつも気まずい。浮ついた思考がようやく鮮明になった私は、彼の腕の中からするりと抜け、ベッドから降りた。手早くバスローブを羽織り、乱れた髪を指で整えながら時間を確認する。

「12時31分…」

 良かった。まだ終電がある時間だ。伸びをしてから振り返ると、リョウさんはベッドに横たわったまま眩しそうに私を見上げていた。その瞳には、先ほどまでの熱がまだ残っているように見える。

「…ハナさん」
「なんですか?」

 私はわざと事務的なトーンで答えた。魔法の時間は終わったのだ、という合図のつもりだった。

「割り切り関係で、という条件から逸脱しているのは分かっています。ですが、」
「………」
「……また、会ってくれませんか」

 その言葉に、わずかに溜息が出そうになった。
 やっぱり、そう来たか。これほど容姿が整っていて、かつ紳士的な振る舞いができる男なら、次などいくらでも見つかるだろうに。けれど、私だってはこれまでの経験から学んでいる。
 この場で冷酷に「二度と会いません」と突き放すのは、かえって面倒な事態を招くことが多い。だからこそ、

「…そうですね。落ち着いたら、また」

 私は曖昧に微笑み、視線を逸らした。いつもなら、それで上機嫌になってくれる人が多い。けれど、リョウさんは変わらない様子で食い下がってきた。

「来週はどうですか?もし良かったら、お食事にでも行きませんか?」
「すみません。今、スケジュール帳を持っていないんです。帰ってから、アプリ上で次の予定を決めませんか?」

 定番の言い訳を慣れたように繰り出す。申し訳ないが、帰りの電車でブロックしよう。バッサリと切ることになるが、自衛のためにも許してほしい。
 彼はじっと私の顔を見つめると、ベッドから起き上がった勢いで私の手首を優しく、けれど逃げられない強さで掴んできた。

「そう言いながら、最初から次の機会を設ける気はないのでしょう?アプリで連絡を取ると言いつつも、ブロックしてしまえば終わりますもんね」

 その言葉に心臓が跳ねる。
 見透かされている。彼のようなタイプは、案外重いのかもしれない。誠実さという名の皮を被った独占欲や執着心の塊。
 私とは、まるで対極にいる人間だ。ここにきて素が見えるなんて望んでいない。

「……リョウさん。私たちは、そういう約束で会ったはずですよ。一夜限りの割り切り関係。お互い、それで了承していたじゃないですか」
「ええ。でも、あなたがあまりにも魅力的なので、一夜限りでは惜しいと思ってしまったんです」

 私は、努めて冷静に彼の手を振り払った。
 これ以上ここに留まるのは危険だ。この甘い空間に毒される前に、日常に戻らなければならない。それに、この男はなかなかに頭が回るらしい。そういう時は一刻も早く退散するに限る。

「シャワーを浴びてきます。それから、私は電車が残っている内に帰りますからね。宿泊はしない主義なので」

 彼の返事を待たず、私はバスルームへと逃げ込んだ。


 バスルームから出れば、彼は身支度を整えていた。そして、入れ替わるように彼もバスルームに入っていった。シャワーの音に、そっと息を吐く。

(あそこまで手の内がバレたのは初めてだった…。いや、むしろ最初から一夜限りにする気はなかったのかも。やっぱり難癖あったのね)

 そんなことを考えながら、着てきた服に着替える。軽く化粧を直せば、ちょうど彼もバスルームから出てきた。そのまま各々の身支度を終え、部屋を出た。

「駅まで送りますよ」
「大丈夫です」
「こんな夜道に女性を1人で帰せと?流石にできかねますね」
 
 クスクスと笑われてしまえば、もう断る気力も湧かなかった。静かに頷けば、タイミングよくエレベーターがフロントに着いた。そのままホテルを出て歩き出すも、隣には相変わらず本名も何も知らないリョウさんが並んでいる。そんな現実から逃れるように空を見上げれば、綺麗な月が見えた。
 夜の空気は冷たく、無遠慮に頬を刺してくる。けれど、その寒さが今の私には心地よかった。火照った体を冷まし、現実へと引き戻してくれるような気がした。
 駅に近づくにつれ、喧騒が戻ってくる。その安心感に、妙に歩く速度が早くなってしまった。

「じゃあ、ここで」

 最初に集合した時計の下で立ち止まれば、彼もまた足を止めた。
 
「……本当に今日限りなのですね」

 リョウさんは寂しげな苦笑を浮かべて立っていた。相変わらず端正な容姿をしている。彼は事が終わっても尚、紳士的なままであった。あの時は感情的になったものの、今は物悲しそうな顔をするばかり。強引な手段に出る様子は微塵も感じられなかった。

「元からそういう約束ですし」
「…何かご不満でもありましたか?」

 その言葉には、正直に首を横に振る。不満なんて出るわけがない。あんなに紳士的に優しくされてしまえば、考え抜いたとしても不満などたったの1つも出ないだろう。

「なら、」
「それでも、1人の人と長く関係をもつことはしたくないんです。…今日はありがとうございました。良い人と出会ってくださいね」

 私は礼を述べ、1歩踏み出す。二度と会わない相手に、これ以上の言葉を伝えるというのは無粋というもの。
 けれど、彼は最後に言葉を投げてきた。

「僕は、本気だったんですよ。……ハナさん」

 その言葉に、私は振り返らなかった。

 『本気』

 なんて空虚で、重苦しい言葉だろう。マッチングアプリで偽名を使って会った一晩限りの相手に、何を本気になるというのか。

「……ご縁があったら、その時に」

 それもまた、私の常套句で社交辞令だった。今、ここから逃げるための言い訳じみた嘘。
 私はそれだけ言い残すと、今度こそ人込みに紛れた。



 ホームへ降りるエスカレーターを下りながら、私はアプリを開いた。それは例のマッチングアプリ。『リョウ』と表示されたトーク画面を呼び出し、迷うことなくブロックボタンを押す。そして、彼のプロフィールを非表示にした。

 これで繋がりはなくなった。わずかな虚脱感と彼に抱かれた時の感触が残るだけ。それも、明日の朝には消えてなくなっていることだろう。

 ちょうどいいタイミングで電車が滑り込んできた。私は流れる景色を眺めながら、日常へと戻っていくのだった。


◇◇◇


 あの夜から数日。
 私の日常は、何事もなかったかのように平穏なはずだった。

 けれど月曜日の朝、オフィスに足を踏み入れた瞬間に感じた違和感に首を傾げた。いつもは倦怠感に満ちているフロアが、どこか浮ついた熱を帯びている。まるで転校生が来る前の教室のような雰囲気だ。

「おはよう、小春(こはる)!」
「お、おはよう…。朝から元気いいね」
「そりゃそうよ!ねえねえ、聞いた?今日、本社のエースが異動してくるんだって!!」
 
 同僚がコーヒーを片手に、興奮気味に耳打ちしてきた。

「敏腕課長補佐、って噂。課若くてかなりの実績があるらしくて……こんな時期に異動なんて、何か特別なプロジェクトでもあるのかしらね」
「へえ、確かに珍しいね」

 パソコンを立ち上げながら、相槌を打つ。
 なるほど、だからこんなにも盛り上がっていたのか。女子の盛り上がりを見るに、社内でかなりの有名人らしい。業務外のことに疎いため分からないが、今日来るとなれば少しは興味を惹かれる。

 そんなことを考えていれば朝礼の時間になり、全社員が整列する。支店長が誇らしげに呼び込んだその男性が、フロアに入って来た。

「本日付で配属となりました、風間(かざま) 亮一(りょういち)です。よろしくお願いします」

 その低く落ち着いた声を聞いた瞬間、私は血の気が引くのを感じた。
 パリッとしたスーツに身を包み、非の打ち所のない笑みを浮かべている男にあまりにも見覚えがありすぎる。

  __リョウ、さん?
 
 マッチングアプリで出会い、お互いの本名も知らないまま一晩を共にした男が、あの時と変わらない笑みを浮かべてそこに立っていた。

 まさか。ありえない。
 世界はこんなにも狭く、そして残酷なのだろうか。混乱する頭で、私は反射的に視線を逸らした。ひたすらに心臓の鼓動を鎮めようと必死になる。
 
 気づかないで。他人だと思って。あんな流れで出会い別れた「ハナ」が、目の前で事務服を着ている「氷川(ひかわ) 小春(こはる)」だなんて、絶対に気づかないでほしい。

 そんな願いも空しく、運命は容赦なかった。

 朝礼後、各デスクを回って挨拶をしていた彼がついに私の席の前で足を止めた。名札に刻まれた『氷川 小春』という文字。彼はそれをじっと見つめ、それから、いたずらが成功した子どものような眩しい笑顔を浮かべた。

「氷川……小春さん、ですか」
「……はい。はじめまして、よろしくお願いします」

 私は極力無機質な声を出し、目も合わせずに頭を下げた。ついでに『はじめまして』と挟んでおいた。そうですよね。はじめまして、ですもんね。会ったことないですもんね!!!

 そんなことを胸中で無駄に論じる私を見下ろしながら、彼がわざとらしく声を弾ませた。

「ご縁、ありましたね」

 その一言に、背筋が凍った。周囲の社員たちが「え、知り合い?」という好奇の視線を向けてくるのが分かる。居心地の悪さに耐えきれず、私は周囲に聞こえないほどの小声で反論した。

「…何のことですか。人違いじゃないですか?」
「しらばっくれても、逃がしませんよ。あの日のこと、忘れたなんて言わせません」

 平然と普通の声量で言い放つ彼に、私は全力で抗議する。

「しーっ!声が大きいです!」
 
 慌てて人差し指を唇に当て、彼を制する。しかし、風間さんは楽しそうに目を細めた。
 
「ご本人でないなら、そんなに慌てず堂々となさればいいのに」

 見覚えのありすぎる笑みで、お淑やかに笑われる。
 完全に彼のペースだ。逃げ場を失った私は周囲の目を気にしながら、絞り出すように認めるしかなかった。

「……場所を考えてください。ここは会社です」
「ふふっ、では、詳しいお話は昼食の時にでも」

 彼はそう言い残し、颯爽と次のデスクへと移動していった。残された私は、最悪な予感に震えるしかなかった。



 お昼時。チャイムと同時に、風間さんの周りには食事に誘おうとする女性社員たちの輪ができていた。私はそれを見ながら、小さくほくそ笑む。

 (あーあー、大変だこと。そのまま彼女たちに捕まってくださいね)

 今のうちに外へ逃げよう。そう思い、バッグを掴んで立ち上がろうとしたその時だった。

「すみません、ちょっと失礼」

 風間さんは人混みをかき分け、迷いのない足取りで私の元へとやってきた。そして戸惑う周囲をよそに、私の肩に手を置いた。

「氷川さん、行きましょうか。美味しいお店、リサーチしておいたんです」
「えっ、ちょっ、風間さん……!」

 断る間もなく、私はオフィスから連れ出された。背中に突き刺さる同僚たちの悲鳴に近い視線が、痛くて仕方なかった。



 抗議の声も空しく連れて行かれたのは、会社から少し離れた静かな和食店だった。仕方なく注文を通し、扉が閉まった瞬間、私は彼を睨みつけた。

「風間さん。色々説明していただけますよね?」
「いやー。説明も何も、僕も驚いているんですよ?」

 そうは見えない様子の彼に、相変わらず疑いの目を向けてしまう。

「『ご縁があったら』っていうのは、社交辞令じゃないですか。どうやって調べたかは知りませんが、仕事場まで追いかけてくるなんて異常です」
「追いかけたわけじゃないですよ。異動は数ヶ月前から決まっていましたし、アプリであなたを見つけたのはただの偶然です」

 彼はきょとんとした顔で、熱いお茶を啜った。それからコトリと茶飲みを置くと、優しい目で私のことを見つめた。

「それに、あんな性急なことをしてしまって申し訳ないと思っていたんです。あの日、あなたは食事もいらないと言いましたが、僕はちゃんとあなたを知りたかったんですよ」
「知る必要なんてありません。私は割り切りを求めていたんです。そこに、互いのことを知るための食事なんて不要です」

 私はきっぱりと言い切る。
 ちょうど食事が運ばれてきた。会話はそこで止まるが、店員さんが退室すればすぐに堰を切ったように続ける。

 「どちらにせよ、こういう関係に『もう一度』は無粋です。再会したといえど、同じようなことは絶対にありえませんから」

 すると、風間さんは箸を置き、真っ直ぐに私を見つめた。その瞳は、あの日ベッドで見せた熱をそのまま帯びていた。思わずたじろげば、彼はニヤリと怪しく笑う。

「割り切ってしまうなんて、勿体ない」
「勿体ない…?」
「ええ。あんなに相性が良くて、しかもこうして再会できた。こんな素晴らしい縁を捨てるなんて、あんまりではありませんか」

 この男は、何を言っているんだろう。誠実なのか、それともとてつもなく傲慢なのか。私は呆れを通り越して、ため息をついた。

「風間さん、ここまで話して分かるでしょう?私たち、正反対なんです。価値観も考え方も愛情の重さも。……とことん話の合わない相手と関わるのは、お互いに苦痛でしょう」
「ええ、合いませんね。だからこそ、面白いのではありませんか。それを苦痛とは呼びませんよ」

 彼は屈託のない笑みを浮かべた。

「これから、毎日顔を合わせるんです。氷川さんがどれだけ拒んでも、僕は逃がしませんよ。仕事でも、それ以外でも。ああ、アプリは一緒にアンインストールしましょうか。僕のことはブロックしたようですが、まだ入っているでしょうから」

 伏せて置いてあるスマホをチラッと見た風間さん。その中には、彼の予想通りアプリが入ったままだ。そこまで見透かされていることに、もう何も言えない。目の前の男は、私が最も苦手とする『執着』と『独占欲』の塊だった。

 割り切れない毎日が始まる。

 私はこれから起こるであろう出来事から逃避するためにも、目の前の豪華な刺身定食をやけくそ気味に口に放り込んだのだった。
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