身に覚えがないのに溺愛されています
もう二度と、会えないと思っていた。
私たちは生きる世界が違ってしまったから。
それ以前に、私が彼のあたたかい手を拒んでいたことなんて、まるで気づかずに。



伸ばしかけた手がチャイムに届くまえに、鍵の回る金属音が響いた。身体が強張り、指先を握り込む。
黒光りするドアに映った自分の顔が迫ってきたかと思ったら、中から現れたひとと、目が合った。

日に晒されているわけでもないのに薄茶色くみえる瞳が、一瞬、たわわに実る穂のように揺れた。
耳の奥で、甲高い音が鳴る。
外界の空気を遮断するマンションの二十階。存在しないはずの風が、吹き抜けたような気がした。

目を逸らせず、黙って向けられる視線を受け止めていると、やがて茶色い目が少しだけ細められた。
澄んだ氷に一筋のヒビが入ったような微笑み。
ゆっくりと持ち上がる唇は薄く、艶やかだ。
肌が透明のように見えるのは、煌々と照らす灯りのせいだろうか。
こんなに美しい男性を、私は知らない。

気づけば息を止めていた。
彼の眦が下がって、一歩近づいてくる。
足は縫い止められたように動けなかったけれど、顔を背けることでなんとか距離を保とうとした。
それでも彼の視線は、下から覗き込むように私を追ってくる。

初対面の相手に、これほど執拗な目線を向けることが許されるのだろうか。
家を間違えてしまったのか、と疑問が浮かぶ。
玄関の前に広いエントランスが設けられているから、ドアを間違えるなんてあり得ないのに。

より深く俯くと、自分の足元が目に入った。
薄汚れたスニーカーの紐が解けかけている。
一歩先には、磨き抜かれ、姿を反射するのではないかと思うような大理石の玄関。
その瞬間、背筋に冷たい棒を当てられた気がした。
背中にまっすぐに差し込まれた棒は、正しい姿勢を身につけるもの。決して曲がらないはずだ。
両手で社名入りのトートバッグの持ち手を掴み直すと、私は直角に頭を下げた。


「どうぞ」

予想より柔らかい声が耳を打った。
とっさに顔を上げる。涼しげな笑みが視界に飛び込んできた。

「し、失礼します……」

もう一度頭を下げると、目の前の彼はより強くドアを押し開けた。
長い腕が作ってくれた隙間に体を滑り込ませる。


「お邪魔します」

いつも通りに、と言い聞かせて脱いだスニーカーを玄関の端に揃える。
質素なデニムに黒い靴下。視界に映る自分の格好を、こざっぱりと評してよいものか迷う。

「初めまして、ですよね」

低く、涼やかな声が鼓膜を震わせる。体の奥にまで染み入る深い声音に、心臓が跳ねた。つられて、飛び起きるように顔を上げる。

「ここに住んでいる者です。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません」

彼は絹のように細い髪をそっと耳にかけた。

「いえ! こちらこそ、大変失礼いたしました。先日から通わせていただいております、三崎ライフサービスの平野と申します」

もう一度、深く頭を下げる。
すると頭上でかすかに空気が揺れた。

「平野さん、ですか」

少しだけ掠れた声。上がりきらない語尾からは感情が読めない。

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

目線を上げると、彼はまだ私を見下ろしていた。いや、先ほどより縮まった距離でもなお、こちらの瞳を覗き込むような視線を向けられている。
これ以上何を語れば良いのかわからず、逃れるように、少しだけ目線を落とす。

土曜日だというのに出勤していたのだろうか、ジャケットは羽織っていないものの、彼の首元にはネクタイが巻かれている。深みのあるグリーンに、グレーで模様が描かれた。シックで帳合いの取れた組み合わせ。
派手すぎず、それでいてかっちりとした質感のシャツは、私には触れる機会すら一生なさそうだ。洗練された衣服が、相応しい人の元に存在している。自分の全身を確認しそうになって、やめた。


考えてみれば当たり前だ。これだけの高級マンションに住み、家事代行まで頼める人なのだから。
きっと、私には想像もつかない高級なものに触れているのだろう。

本業である平日のコールセンター勤務に加えて、土日だけ家事代行業者で働き始めたのは、二年前のこと。
三十を目前にして、奨学金の返済目処が立たないためだった。

毎日毎日、電話でクレームを受け続けることに辟易していたから、黙々と手を動かす仕事で資格も不要、という条件で選んだ副業だった。
親が離婚して以来、料理も掃除も洗濯も、自分でやらねばならなかったから、家事に苦手意識はない。
友人たちが楽しく遊んでいる間、自分の時間を奪っていったあれらの作業が、お金になるなんて願ったり叶ったりだった。

求人情報サイトの先頭で目についた家事代行業者だったけれど、幸いなことに依頼者は裕福な家庭が多いらしい。広いキッチンで料理の作り置きをしたり、最新鋭の風呂を洗ったり……とまるで縁のない家に出入りするのは苦ではなかった。
土日しか働けないのが惜しいくらいだ。
それでも自分の仕事ぶりを気に入ってくれたのか、名指しで指名してくれる客も増えてきた頃だった。

二ヶ月ほど前、毎週土曜日に固定で入れるスタッフを探している、と会社から指名された。毎週確定で仕事に入れるのはありがたく、二つ返事で了承したのだが、詳しく聞いてみると、若干変わった家だった。
とある会社の秘書という男性からの依頼で、家主は不在なのだが自分が立ち会うので家事一般をこなしてほしいという。
依頼内容は掃除と料理。
ただいつ家で食事が摂れるかわからないから、基本的に作ったものはすべて冷凍してほしいと言われた。
嫌いな食べ物もアレルギーも特になし。

家主の情報は隠されているのか、住まいの雰囲気から男性らしいということはわかったが、年齢は不明だった。
秘書がここまで至れり尽くせり気を配るということは、大手会社の重役なのかもしれない、と漠然と予想していた。
大量に作った料理をすべて収めてもまだゆとりのある巨大な冷凍庫――もっとも、そもそも何も入っていなかったからスペースが膨大だったということもあるけれど――だって、一般家庭では一念発起しないと買えない金額だろう。

私が料理を詰めておいたタッパーは、一週間後にはどれも空になっているから、食べてはいるらしい。
好みに合っているのかどうかは、確認しようがなかった。

お金が貰えるのだから文句はない。
ただ、仕事であっても「美味しかった」とか「これが好きだからまた食べたい」というような些細なひとことが、自分のモチベーションを高めてくれていたのだな、と改めて理解した。
たかだか数回、一回数時間しか来ていないけれど、毎回立ち会ってくれるのは秘書だった。いつもダークグレーのスーツを着て、銀縁のいかにもな眼鏡をかけた男性秘書は、おそらく30代半ばくらいだと思う。
最初の頃は、「どんなお料理がお好きですかね?」なんて質問してみたけれど、「特に指定は受けていません。バランスの良い食事であれば結構です」という返事しか返ってこなかったので、まともな会話は諦めた。

実際、私が家事に勤しんでいる数時間の間、秘書はリビングの隅に立ち、タブレットで黙々と仕事をこなしているようだった。
最近は減ったとはいえ、値踏みされるような視線を向けられると、さすがにやりにくい。まあ家主の手前、適当な仕事をされたら困るという気持ちはわかるけれど、あの秘書は全くその態度を隠さないのだ。
ひとつの部屋を掃除して退室するたび、「これで終わりですか?」と平坦な声で聞かれるのは心臓に悪い。もしかしてほこりが残っていただろうかもっと掃除してほしい箇所があったのか? なんてその都度考え込んでしまう。
それでも「終わりました」と告げれば、秘書はその部屋のチェックに向かう。
そして問題がなかったとしても、何も言われないのだ。不躾な目線が、自分を素通りしていく。その感覚は、いつになっても慣れない。

いつも疲れ果てて帰宅する母は、うつろな目をしていたものの、「料理も片付けもしておいてくれてありがとう」「こんなに片付いている家に帰ってこられて幸せだ」とことあるごとに言ってくれた。それは私の胸のなかに一滴のシロップを落とした。
あの言葉が、私をますます家に縛りつけたわけだけれど。
甘い言葉に騙されるのはこりごりだと思っているはずなのに、いざ冷えた目を向けられると、あたたかい言葉を求めてしまう。
結局、母と支え合って生きたのはあの10年にも満たない日々だけだというのに。



「達海さん」

乾いた声が響いて視線を上げると、廊下の向こうから秘書が覗いていた。ほっと息が溢れた。これまで好印象を抱いていたひとではないのに、見知った顔を見つけて安堵してしまうくらいには、馴染んでいたらしい。

「ああ、どうした?」

ふっとこちらに向かって微笑んでから、彼――達海さん、は秘書の元へ向かう。

「どうした、じゃないですよ。突然帰っていらしてなにかと思ったら」

まるで小言のようにじっとりした目を向ける秘書に、達海さんはからりと笑ってみせた。

「いいじゃないか。一度挨拶したいと思っていたし」
「それは……こちらで手配しておくという話だったかと」
「そうだけど、片付けてもらっているのに顔も合わせていないなんて、やっぱり気まずいし」
「嫌なら変えましょうか」

聞こえてきた声に、みしっと心臓に亀裂が入ったような気がした。
指先が急速に冷えていく。小さな隙間から穴をこじ開けられるような息苦しさを覚える。
やはり仕事内容に問題があったのだろうか――。

「必要ない。よくやってもらっているんだから、勝手なことするな」

即座に否定の声が響いて、ほっと全身の力が抜けた。良かった。
せっかく安定した仕事なのだ。また週末の二日間も、どこの家に行くのかルーレットを回すような気分は味わいたくない。



寝室のシーツを洗濯機に放り込み、掃除機をかける。バスルーム、洗面所、トイレを一通り掃除し終えたところで、先に作り置きを済ませようとキッチンへと向かった。
するとキッチンと続いているダイニングのテーブルに、達海さんが座っていた。顔を反射しそうなほどぴかぴかに輝く大理石のテーブル。その上に置いたノートパソコンを覗いている。

「どいた方がいい?」

響いた声は明朗で、呆気なく私の鼓膜を震わせる。普段から快活な話し方をする人なのだろう。
慌てて首を振る。

「いえ、料理をしますので大丈夫です。ただキッチンの音が騒がしいかもしれませんが」
「ああ。それは大丈夫」

あまり気にならないタイプなんだ、と言ってくしゃりと笑った。

「土曜日なのにお仕事ですか?」

だからつい、疑問がそのまま口をついてしまった。

「すみません――」

慌てて口元を押さえるけれど、達海さんはその瞳をぱちぱちと瞬いた。
やがて眦が柔らかく下がる。

「今日は出勤しなくて良いからだいぶ楽なんだけど。どうしても残してきた仕事が気になってしまって」
「熱心なんですね」
「あなたほどではないですよ」

やんわりと、それでもはっきりと言われて、言葉に詰まった。
この人はいったい何を思ってそう言ったのだろう……そう訝しんで、一瞬眉間に皺が寄ってしまった。

しかしよく考えれば、彼はある種雇い主なわけだから、会社が送った私の経歴に目を通していてもおかしくない。
私の勤める会社では、事前に決められた曜日以外に対応できるかどうか伝えているはずだった。私の平日の日中は本業のため不可、として提出している。それを達海さんが知っていてもなんら不思議はないのだ。

曖昧に笑うことしか出来ず気まずさを覚え、会釈をして私はカウンターキッチンの中へと入った。
冷蔵庫を開ける。相変わらず、理路整然としている。
私にとって、冷蔵庫のなかは心と同じだ。生活が整っていれば冷蔵庫の中身は自分の思惑通り、賞味期限や栄養バランスを考えて並んでいる。
少しでも慌ただしくなると、冷蔵庫の秩序はめちゃくちゃになり、そもそもどこに何の食材が入っているのか、作り置きした順番さえもわからなくなる。
帰宅して開けた冷蔵庫の中が混乱をきたしているくらいなら、いっそ空っぽのほうがマシだと思う。何もなければいそ諦めがつく。傷んだ野菜や賞味期限の切れた肉が入っているほうが、よっぽど気が滅入る。

しかしこの家の冷蔵庫はそのどちらでもない。
私がここを開けるとき、秘書の用意した完璧な食材が揃っている。つまり新鮮で、高級で、なおかつ栄養バランスの行き届いた材料たちが。

「食材は揃えておきます。あとは適宜」

最初にあの鉄仮面のような表情でそう言われた通り、彼の用意しておいてくれる食材は、私の購入するものより数段高級に思える。葉物野菜のぱりっとした色味、高級そうなトレイに重厚に包まれた肉や魚。自分だったらスーパーでとても選ばないような食材がこれでもかと入っている。
ここでそれらと対面し、瞬時にメニューを考える。
同時に、残っている料理がないかをチェックする。しかし前回ぱんぱんに詰めていったタッパーはひとつも残されていなかった。
食洗機を開けると、所狭しと洗い上げられたタッパーが並んでいる。どうやら全部召し上がっていただけたようだ。

「会食も多いので、どれだけ召し上がるかは週によって変わります。とりあえずできる範囲で作っておいていただければ」

秘書にはそう言われていたから、何品か手付かずで残っているかも、と思っていたけれど、今のところ全て空になっていた。
食材をチェックしながら、頭の中でメニューを組み立てる。
これだけ何でもあると、作り甲斐があるというものだ。おかげで、得意料理のレパートリーも増えた。

「ハンバーグが美味しかったので、また食べたいです。あの、煮込んだやつ」

真後ろから声が聞こえて、首筋に氷を当てられたように体が跳ねた。
振り返ると、すぐ近くに達海さんが立っていた。ほぼ一緒に冷蔵庫を覗き込んでいる、といえるくらい近い。

「え、ハンバーグですか……?」

何度か作っているから、そろそろ違う料理にしたほうがいいかな、と思っていたメニューだ。

「はい。あのスパゲッティが一緒に煮込まれているのが好きです。ミートソースともナポリタンとも違って、美味しい」
「あ……あんなもので良ければ、また作りますが……」

そう言うと、達海さんは花が開くように表情を輝かせた。

「やった! また前回も真っ先に食べ終えてしまって、次も絶対頼もうと思っていたんです」

くしゃりと笑う表情は、まるで子どものようだ。
しかし、あんな煮込みハンバーグで本当に良いのだろうか。
ケチャップ多めのソースで煮込んだハンバーグは、子どもの頃母親がよく作ってくれたものだった。まだ、両親が揃っていて、母が料理を作っていてくれた頃の定番メニュー。ハンバーグと一緒にスパゲッティを煮込んでいて、私はその味の沁みた麺が好きだった。
もっとも、大人になってからあれはカサ増しのために入れていたのだな、と察したのだけれど。
食材豊富なこのお宅でわざわざスパゲッティを入れる必要もないのだけれど、色味が若干明るくなるということもあって少しだけ一緒に煮込んでみたのだ。
まさかそれを、気に入ってもらえるなんて。

思いもよらなかったリクエストに、じわじわと胸のうちが蜂蜜を塗られたように蕩けていった。
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