理詰めな外科医に突然求婚されました~差し入れメモで完堕ちしたらしいです~
朝の光が差し込むスタジオは、すでに慌ただしい空気に包まれていた。
照明の熱、スタッフの声、カメラのシャッター音。
その中心で、私は湯気の立つスープ皿の位置を微調整していた。
「これ、もう少し明るい雰囲気にしたいんだけど……」
カメラマンの声に、私はすぐに反応する。
「了解です。パセリを少し足して、器を白に変えましょう。光が跳ねて、優しい感じになります」
手際よく盛りつけを変えると、カメラマンが満足そうに頷いた。
「さすがだね。君が入ると現場が早いよ」
「ありがとうございます。食べる人が“美味しそう”って思ってくれたら、それだけで嬉しいので」
そう答えながら、隣に立つ新人モデルに目が留まる。
スプーンを持つ手が震えている。
「熱くないように温度落としてあります。ゆっくりで大丈夫ですよ」
小声で伝えると、彼女はほっとしたように笑った。
――こういう瞬間が好きだ。
食で誰かの気持ちを軽くできるなら、それだけで十分だと思える。
撮影が終わる頃には、すっかり夕方になっていた。
片付けをしていると、スマホが震える。
画面には【母】の文字。
嫌な予感しかしない。大体、この時間の母からの電話はろくなことがない。
「もしもし?」
『紗保、仕事終わった? あのね、いい人がいるのよ。今度こそ本当にいい人』
「……またお見合い?」
『フリーランスなんて不安定なんだから、そろそろ身を固めてもらわないと。相手はね、神坂総合病院の外科医さん。三十代前半で、真面目で、背も高くて、評判がいいらしいわ』
「外科医……?」
『そう。不規則で責任の重い仕事らしいの。あなたと同じで仕事熱心なのよ』
私は思わずため息をついた。
医者。
堅物。
きっと、私とは正反対の人。
「お母さん、私、今は仕事が――」
『とりあえず会うだけ会ってみなさい。毎週水曜日はお休みだったわよね? 明日の午後、ホテルのラウンジを予約してあるから』
強引すぎる。
でも、ここで断れば、またしばらく説教が続くのは目に見えている。
恋愛はしたいけど、なかなか価値観が合う人がいないのよね……。
「……わかった。行くだけ行くよ」
『期待していいわよ! すごく素敵な方だから……じゃあ明日、よろしくね』
通話が切れた後、私は荷物をまとめ、スタジオを後にした。
帰宅して玄関の灯りをつけると、どっと疲れが押し寄せる。
バッグを床に置いた瞬間、身体が重力に負け、リビングのソファに倒れ込む。
「……明日、お見合いかぁ」
気が進まないけれど、逃げるわけにもいかない。
明日行けば、しばらくは母も黙るだろう。
そう思って、私は天井を見つめた。
そんな気持ちを抱えたまま、静かに夜が更けていった。
翌日の昼過ぎ、私はお見合い会場のホテルへと向かった。
平日の午後とはいえ、ホテルのラウンジにはアフタヌーンティーを楽しむ客が多く、落ち着いた華やかさが漂っていた。
高い天井と柔らかな照明が、空間全体をゆったりと包み込んでいる。
私は予約名を告げ、案内された席に着き、深呼吸をする。
――とりあえず、会うだけ会って帰ろう。
そう自分に言い聞かせて顔を上げた瞬間、
視界の先に、すらりとした長身の男性が入ってきた。思わず、息を吞む。
ダークグレーの三つ揃いのスーツを纏い、磨かれた床に靴音を切れ味よく響かせながら歩いてくる。
長い脚で刻む大きな歩幅のせいか、ゆったりとした動きなのに、存在感だけがまっすぐこちらへ迫ってくる。
整った顔立ちに、感情の読めない黒い瞳が私を捉え、色気のある薄い唇がわずかに開いた。
「氷室です。篠宮さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「改めまして、氷室仁臣です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お忙しい中、ありがとうございます。篠宮紗保と申します」
お互いに軽く会釈を交わす。
低く落ち着いた声で、礼儀正しいけれど表情はほとんど動かない。
向かい合って座ると、テーブルの上に静寂が落ちた。
私はなんとか会話を繋ごうと、メニューを開きながら口を開く。
「ここの紅茶、美味しいらしいですよ。知り合いに勧められ……」
「そうですか」
返ってきたのは、それだけ。
愛想笑いの一つもない。どう繋げばいいのか、少し迷う。
私は気を取り直して、別の話題を探す。
「お仕事、お忙しいんですよね? 外科って、緊急も多いって聞きますし」
「ええ。不規則です」
また短い。
必要最低限の返答だけが返ってくる。
――こんなに無口な人、お見合いで初めてなんだけど……。
普通、もう少し会話を繋ごうとするものじゃないの?
沈黙が落ちる前に、と私は自分の仕事の話を始めた。
「私はフードコーディネーターをしていまして、撮影やクライアント先のレシピ開発を……」
「栄養計算はされていますか?」
「え?」
「撮影用の料理でも、衛生基準は守られているんですよね」
淡々とした声。
責めているわけではないのだろうけれど、医療者としての〝リスクの視点〟がそのまま口をついて出たような言い方だった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「もちろん、必要な範囲で気をつけています。でも、私の仕事は“美味しそうに見せる”ことが中心で……」
「見た目が良くても、食中毒の危険があれば意味がありません」
――全否定された。
言葉のダメージによる痛みが、じわりと広がっていく。
そう感じた瞬間、彼の無機質な言葉が、そのまま胸の奥に冷たく沈んでいく。
「……そうですね。気をつけます」
それ以上、言葉が出てこなかった。
彼は、悪気があるわけではない。
ただ、命を預かる立場として〝安全〟を最優先で考えているだけ。
だから、私の〝食で人を喜ばせたい〟という気持ちとは、まるで噛み合わない。
紅茶が運ばれてきても、会話はぎこちないままだった。
三十分ほど経過し、私は意を決して腰を上げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
その言葉に温度はなく、事務的な挨拶のように聞こえた。
ラウンジを出た瞬間、私は小さく息を吐く。
胸の奥に、冷たいものだけが静かに残った。
数日後の午前、制作会社から新しい案件のメールが届いた。
【神坂総合病院 広報冊子・サイト用/特集:移植医療を支える『食』】
「……神坂総合病院って、この間のお見合い相手の勤務先だよね?」
思わず声に出してしまう。
けれど、外科医なんて何人もいる。
広報案件だから、医師と直接やり取りすることなんて、まずないはず……。
そう自分に言い聞かせ、依頼を受けることにした。
* * *
同じ頃、神坂総合病院・移植外科。
相談室の一角で、俺は生体肝移植を控えた家族と向き合っていた。
「……手術に絶対はありません。短時間で終わる手術も同じです。生体肝移植では、術後に合併症が起きる可能性もありますし、拒絶反応が出ることもあります」
自分でもわかるほど、声は淡々としていた。
無表情に徹しているのは、医師が動揺すれば、家族はもっと不安になる――それを知っているからだ。
感情は、現場では邪魔になる。
その信念が、俺の表情を凍らせていた。
* * *
数日後。
私は制作会社のスタッフ・安達さんと共に神坂総合病院を訪れた。
「今日は移植医療の特集なので、外科の先生にも少し話を伺う予定です」
「わかりました」
安達さんの説明に、私は軽く頷く。
外科の先生にも話を伺う――その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
……あの人でなければいいのだけれど。
* * *
今日は、移植医療に関する“食”をテーマにした特集の打ち合わせがある。
事前に広報から日程は知らされていたが、外科医である自分が同席する必要があるのだろうか。
栄養管理士がいれば十分に事が足りるはずだ――そんな思いが、頭の片隅に残っていた。
打ち合わせが行われる会議室に入ると、広報担当の木崎さんがすでに資料を整えていた。
「氷室先生、お疲れ様です」
俺は軽く会釈を返し、席に着く。
「今日の打ち合わせですが、先日お伝えしたように、移植医療と“食”を扱う企画ということで、患者さんの食事管理について、現場の視点を制作会社の方に共有していただければと」
食事が患者の回復に直結すること――時に薬にも毒にもなること。
それを制作側に理解してもらうための場だ。
「……わかりました」
淡々と返し、手元の資料へ視線を落とす。
「今日お越しになるフードコーディネーターの方ですが、撮影現場でも評判が良いそうです。管理栄養士の資格もお持ちで、医療系の案件にも慣れているとか。制作会社の方が、細やかな対応のできる方だとおっしゃっていました」
俺は資料から目を上げることなく、「そうですか」とだけ返した。
けれど――胸の奥に、かすかにひっかかるものがあった。
フードコーディネーター……?
どこかで聞いた肩書き。
思い出しかけたその時、ノックの音が室内に響いた。
「失礼します」
その声と共に、扉が開く。
「大変遅くなりました。クロスフィールド制作の安達と申します。本日はよろしくお願いいたします。そしてこちらが、今回ご一緒するフードコーディネーターの篠宮さんです」
「初めまして、篠宮紗保と申します」
制作会社のスタッフの後ろに立つその姿を見た瞬間、予感が確信に変わった。
数日前にお見合いをした――彼女だ。
* * *
挨拶を口にした私は視線を持ち上げた瞬間、固まった。
そこにいたのは、数日前にお見合いをした相手――氷室仁臣だった。
彼もまた、私を視界に捉え、わずかに目を見開いた。
けれど、その表情はすぐに無機質な静けさへと戻っていく。
「今回の企画を担当します、移植外科の氷室です」
その声は抑揚がないのに、不思議と空気が引き締まる。
白衣を纏った彼は、お見合いの時よりもずっと〝息づいている〟ように見えた。
全員が席に着き、打ち合わせが始まる。
広報担当の木崎さんが簡単な説明を始め、私は配られた資料に視線を落とした。
「この症例は、術後の経過が安定しているので――」
「この状態の患者は、移植後の栄養管理が重要になります」
氷室医師は、木崎さんの説明に必要な情報だけを静かに添えていく。
私は、自然と視線を奪われた。
彼の言葉はどれも簡潔で、迷いがない。
その静けさの奥に、確かな強さがあった。
「今回の特集では、移植医療を支える“食”というテーマで、患者さんの回復を後押しする内容を考えています」
私は準備してきた資料を配りながら、提案を口にした。
「退院される患者さんに向けて、“退院おめでとうメニュー”を作れたらと思っています。食べることが、回復の実感にもつながるので……」
その言葉に、氷室の眉がぴくりと反応した。
「退院直後に浮かれるのは危険です。医師の目が届かない状態で、食事内容が逸脱する可能性もある」
冷静な声。
否定ではなく、事実を述べているだけ。
それでも、胸の奥に冷たいものが落ちる。
「……もちろん、医学的に問題のない範囲で考えています。でも、退院って、患者さんにとって大きな節目だと思うんです。その気持ちを支えられる“食”があってもいいと思うのですが……」
「気持ちよりも、まずは〝安全〟です」
価値観が、またぶつかる。
その後も応酬のように言葉を交わしたところで、木崎さんが気まずそうに間に入り、打ち合わせはいったん区切られた。
私は、言いかけた言葉をそっと呑み込む。
資料を片付けていると、「少し話がしたい」と彼に声をかけられ、私は会議室に残った。
扉が閉まると、室内の静けさが一気に濃くなる。
私は無意識に姿勢を正した。
「……例えば、肝移植の患者なら、術後は口にするもの全てに気を配る必要がある。生ものは避け、加熱が不十分な食事も危険だ。糖分塩分も量を誤れば、負担になる。〝おめでとうメニュー〟……? そんな安易に一律で出せるものじゃない」
「わかっています。でも――」
私は胸に手を当て、言葉を探した。
「食で救えない命があることも、知っています。でも、食で支えられる“心”もあるんです」
彼の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……心も、か」
「はい。先生が救う命を、私も別の形で支えたい。それが、私の仕事だと思っています」
静寂が落ちる。
彼は私を見つめた後、わずか口角を持ち上げた。
その表情は、お見合いの時には見せなかった柔らかさを帯びていた。
胸の奥を、言葉にできない感覚が掠めた。
企画が正式に動き出してから、私は何度も神坂総合病院を訪れることになった。
そのたびに、氷室医師と向き合う。
――向き合うというより、ぶつかるの方が正しいかもしれない。
『この患者は、退院後もしばらく免疫抑制剤を使う。生ものは厳禁だ』
『わかっています。でも、火を通した食材でも“お祝い感”は出せます。例えば――』
『塩分量は?』
『控えめにします。でも、味気なさすぎると食欲が落ちます。香りで補う方法も――』
『香りは刺激になる。あと、調味料の中にもリンが多く含まれるから、腎疾患の患者には、専用の調味料を使って貰いたい』
『わかりました。……そこは調整します』
毎回、こんな調子だ。
けれど、初回の打ち合わせの時とは少し違う。
彼は、私の提案を“即座に切り捨てる”ことはしなくなった。
反論はする。
厳しいし、理詰めで容赦ない。
でも――時折、ほんの少しだけ、考えるように視線を伏せる。
その仕草が、前より増えた気がする。
そしてもう一つ、気づいたことがある。
彼は、いつも疲れているように見える。
白衣の襟元はきちんとしているのに、目の下には薄いクマが浮かぶ。
資料に視線を落としながら、何度も目頭を押さえていた。
その指先が、少し震えていることもあった。
――寝てないんだろうな。
移植外科。
緊急性も高いし、責任も重い。
その全てが、彼の肩にそのまま乗っているように見えた。
そんなことを思い返していた時――。
「……篠宮さん?」
呼ばれて、私はハッと顔を上げた。
「すみません! 考え事をしていました」
「……フッ、そうですか。では……続きを」
小さな吐息に合わせて、彼の目元がわずかに緩んだ。
それを、私は見逃さなかった。
ほんの一瞬だけ、彼の表情が崩れたのを……。
声音も、いつになく優しく感じる。
資料を読み上げながら、胸の奥がざわついた。
打ち合わせが終わると、彼は忙しそうに部屋を後にした。
私は木崎さんとの打ち合わせを終えて会議室を出ると、さっき見た彼の疲れの滲む横顔が、脳裏をよぎった。
エレベーターで一階に降りると、院内にあるコンビニが目に留まる。
差し入れでもしようかな……。
忙しい中、時間を調整してもらっているんだから……。
これくらいなら、彼の負担にはならないよね……?
* * *
回診を終えて医局に戻ると、デスクの上に見慣れない袋が置かれていた。
中には栄養ドリンクとおにぎり。
袋にはメモが貼られていた。
【お疲れ様です。先生が倒れたら、元も子もありませんよ。篠宮】
その文字を見た瞬間、胸の奥が、思い切り掴まれたように感じた。
――何だ、この感覚は。
息がうまく吸えない。
瞼の裏に、彼女の顔が浮かぶ。
……まただ。
初めての打ち合わせの時に、思わず『心も』と口にしたあの瞬間、あれが最初だった。
あの時から、思考の隙間に彼女が入り込んでくる。
そして今、完全に意識を持っていかれている。
これで二度目。
一目惚れならぬ、二目惚れ……なのか?
そんな言葉が、ふと頭をよぎった。
いや、違う。
そんなはずはない。
恋愛感情なんて、仕事の邪魔にしかならない。
そもそも、俺は――思考が、そこで途切れた。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
今すぐ会って、確かめたい。
理由はわからない。
説明もできない。
ただ、彼女の言葉が、胸に残って離れない。
『食で支えられる心もあるんです』その声が、何度も蘇る。
気づけば、スマホを手に取っていた。
『はい、もしもし?』
「……こんばんは、氷室です。先ほどは差し入れ、ありがとう。助かった」
自分の声が、思った以上に低い。
俺は小さく息を吐き、続けた。
「申し訳ないんだけど、今から会えないだろうか?」
『……え? 今からですか?』
「できれば」
『……わかりました。病院に戻ればいいですか?』
「いや、俺が君のところに行くよ」
通話が切れた瞬間、胸が一気に熱を帯びた。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
* * *
スマホを耳に当てたまま、私はしばらく動けなかった。
『今から会えないだろうか』という彼の声が、耳の奥で何度も反芻する。
どうして、急に?
ついさっきまであんなにも意見がぶつかってばかりだったのに……。
でも――断る理由なんて、どこにもなかった。
いや、むしろ……。
彼が一瞬覗かせた笑みが、ずっと頭から離れない。
『……場所はどこにしますか?』
気づけば、そう返していた。
指定されたお店に着くと、店員に個室へと案内された。
い草の香りが鼻腔を掠め、落ち着いた室内に、張りつめていた緊張が少しだけほどけていく。
ほどなくして、襖が静かに開いた。
「遅くなってすまない」
「いえ、私もさっき来たところです」
注文した料理が運ばれ、店員が去っていくと、個室に張りつめた空気が漂った。
彼は箸を手に取ったまま、わずかに息を整えるようにしてから口を開いた。
「……企画の件だが、あの後、少し考えてみた」
「はい」
話し始めた彼の声が、いつもより硬い気がする。
仕事の話をしているはずなのに、いつもの理詰めの圧がない。
「いや……その……普段は、どんなふうに過ごしているんだ?」
「……え?」
企画の話じゃないの?
仕事の話をすると思っていたのに、出てきた言葉は、私のプライベートのこと。
胸の奥に、微妙な疑問が膨らむ。
彼は、何かを考え込むように手元を見つめていた。
――緊張している?
そんな風に見えるなんて、初めてだ。
やがて、彼は手にしていた箸をそっと置き、覚悟を決めたように、真っすぐと私を見据えた。
「結婚を前提に、俺とお付き合いしてもらえないだろうか?」
「……へ?」
「俺は、君と――篠宮紗保さんと結婚したい」
「ッ?!」
その瞬間、何かが弾けた気がした。
――この人との未来が、淡く色づき始めた。
~FIN~


