たい焼きの頭としっぽ〜歳の離れた弟を育てていたら、幼なじみの御曹司俳優までお世話することになりました〜
キャスト・スタッフ含む「咲て散らん」の関係者が滞在するのは、撮影所近くにある、創業百年以上の老舗旅館だ。

私たちは今朝、まだ空が暗い頃、ここ京都に到着した。

旅館にはほぼ、荷物を置くために立ち寄っただけで、空からまた明かりが消えた今の今まで、ずっと撮影所に出ずっぱりだった。

とにかく早く湊の身体を温めなければと、部屋で寛ぐのもほどほどに、ささっと館内着の浴衣に着替えて、浴場へ向かっていたわけだが……。

「※男性専用時間」の張り紙の前で、私たちはかれこれ数分、身動きが取れずにいる。

まだ一人でお風呂に入ったことのない湊を、いきなり公共の大浴場へほっぽり出すのは、どれだけしっかりした子だと分かっていても、さすがに怖い。

恐らく、私はいま、相当な不審者だろう。
男湯の前で、ふっくら赤い頬と、張り紙の文字を交互に見ては、うーん。うーん。と唸っているんだから。

「何だ。のぞきか?」

後ろから声をかけられた。
あの人の声だ。
そりゃあ、肩もビクッと跳ね上がる。

「とーちゃん!」

湊の声がする。

でも、私はずっとその場所で固まっている。
だって、一番会いたくない人に、一番見られたくない瞬間を、見られてしまったのだから。

「なんだ、ぼう。お前も早く入んないと、風邪引くぞ」

(なんで、いま来んのよ……)

後ろから、二人の話し声が聞こえるけれど、どうしても振り返ることができない。

「ぼくと一緒に入ってほしいんだ」

いつのまにか、話はさらに、ややこしくなっている。

私は、ようやく決心した。
顔を見せた。
彼と、向かい合った。

きっぱり、断るために。

「いえ。本当に、大丈夫ですから」
「……そうか?俺には、全く大丈夫そうに見えないがな」

拓真は、膝に手をついて、中腰になる。
視線の先には、湊がいる。

「ぼう、すぐ行くから。先に入っていなさい」
「はーい」

湊は、もう止まらない。
何分も見ていることしかできなかった湯のれんの下を、簡単に潜っていく。
もう、背中も見えなくなった。

さて。
拓真は、まだ、あそこにいる。
目を、合わせないと。

拓真を見た。

私のピンクのとは違って、拓真の紺の浴衣は、崩れ一つない。

二人きりになった途端。
色っぽいと、感じてしまう。
直視できなくなる。

必死に上げていた視線も、ヒューっと落ちる。

「……何だ?気まずいか?」
「いや……?」

床を打つ音が、近づいてくる。

だから、私は俯く影から、拓真のスリッパを、追いかける。
そうやって、暖簾を潜っていくのを、私はじっと待っていた。

でも、なぜか私の真横で、拓真が止まる。

「じゃあ、なぜ顔を隠す?」
「ち、ちがう。私は、ただ」

私は、すかさず距離を取るために、身体を飛び跳ねさせた。

すると、ヒラヒラと、肌を撫でる何かが、私の前に降ってきた。

瞼を閉じた瞬間。
冷たい指が、私のうなじに、力をかける。

身体はよろめいた。
ぞくっと震えた。

すぐに、目を開けた。
拓真の顔がある。

まだ、うなじは持たれたまま。
私は、いつのまにか、暖簾の内側にいる。

とにかくジタバタ暴れる。

「ちょっと……!」

でも、その顔は、また横に逸れた。
ザラついた唇を、首筋に、貼りつけられる。

私は、身を引く。
でも、拓真は、離れない。

唇を、窄めた。
チュッ、と。

「んっ……」

冷えた体は、カーッと熱を上げる。

瞼にも、肩にも、力が入る。
動けない。

やっと、唇が、離れた。

目を、パッと開いた。
でも、また、固まる。

耳の奥まで、生温かい風が吹きつけた。

「なかなか嬉しいもんだよ。求められるっていうのはさ」

その声は、耳穴を通り、わんわんと反響した。

もう身体だけじゃない。
顔にも、熱がのぼっていく。
あまりの高温に、プシューッと湯気が立つ。

そのあとも、ずっと、目を見開いたまま。

針の音もない。
どれくらい時間が経ったかも分からない。

ボイラーの運転音が、シーンとした通路に広がっていく。

拓真は、いつの間にかいなくなっている。

しばらく、ボーッと、立っていた。

時折、外から風が入ってくると、暖簾がひらひらと揺れ、熱っぽい頬まで冷やしてくれた。

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