新米侍女は魔塔主殿下のお気に入り ~なぜか初恋の天使様と勘違いされて寵愛されています~
堕天使ルキフェルの赤い瞳から、涙が零れる。
炭を流したような、黒い涙だ。
――おねえさまが笑っていたら、うれしかった。
――おねえさまが幸せそうだったら、わたしの心も安らいだ。
その想いが、熱を持たない吐息と一緒に吐き出される。
――けれど、おねえさまは、人を愛してしまった。
――わたしは、それが……許せなかった。おねえさまが幸せそうなのが、つらくなってしまった。
嫉妬だ。
おねえさまは天を離れ、人として生き、人として死んだ。
その血を引く王家を、わたしは憎んだ。
憎まなければ、壊れてしまいそうだった。
――だめだと、分かっていた。
――それでも、止まらなかった。
後悔が、闇とともにほどけていく。涙は少しずつ色を失い、黒色から灰色へ、灰色から無色へと透き通っていく。
透明な涙は、頬を汚した黒色の涙の跡を流し、綺麗にしていった。
胸の奥に溜め込んでいたものが、ひとつ、またひとつとほどけていく。
ルキフェルは光溢れる夜空を見渡し、上を見た。
「――ジブリールさま」
その名を思い出した瞬間、新しい涙が溢れる。
「……ジブリールさま。ごめんなさい」
幼さを濃く滲ませた声が、夜空に溶ける。
「わたし、取り返しのつかないことをしてしまいました。だから……罰を受けねばなりません」
しゅんと項垂れ、ルキフェルは地上の王国を見下ろした。
建物が身を寄せ合うように集まっていて、窓にも道にも点々と小さな光が咲いている。
あのひとつひとつに人間がいる。
ルキフェルが知らない、ルキフェルのように誰かに愛されたり、誰かの行動に傷ついたり、恨んだりしながら、その人だけの人生を精一杯生きる人間たちだ。
ジブリールのように子を慈しみ、守ろうとしたり、育てたりしている人間たちだ。
ここにいる天使や聖獣や人間の王子のように、災厄のような存在となった自分に振り回されながらも、それでも自分たちの手で同胞を守り、未来を切り拓こうと立ち上がる強さを持つ者たちの居場所だ。
王妃になった姉の子孫が歴史を紡いできた、大切な国だ。
「……わたし、たいへんなことをしてしまいましたわ。ほんとうに……ほんとうに」
どんなに悔やんでも、悔やみきれない。
大罪人はおのれの過ちに青ざめ、謝罪を繰り返した。
そして、まるで流れ星のように、きらきらと夜空を流れ落ちていった。落ちる先は――地獄だ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
曇天を覆っていた灰色の雲が、浄化の風に押されるように退いていく。
その奥から、澄みきった夜空がゆっくりと姿を現した。
天の涯てが艶やかな漆黒の夜闇に沈む中、金砂銀砂を振り撒いたかのごとき星々が煌めいている。
まるで祝福の光のような星の輝く周囲で、夜空は漆黒から紺青や瑠璃へと光を透かしたように色合いを繊細に変える。
この国が長く失っていた天の輝き――誰もが忘れかけていた自然な夜が、そこにあった。
「天使様……リエル!」
一件落着の空気の中、ケイティに騎乗したシオンがリエルに近づこうとする。
だが、リエルは彼から離れた。
「この国は、もう瘴気竜に苛まれることはありません。シオン様の尽力あってのことです。……それでは、これで。天界へ戻ります」
「なっ……」
引き留めようとするシオンの必死な気配に、未練が湧いてしまいそうになる。
それを振り切り、リエルは天使の微笑みで別れを告げた。
「もう、あなたが代償を払い、命を削る必要はありません。長生きしてください、シオン様」
彼に惹かれていた。
それは、確かなことだった。
けれど、天使と人間は、別の世界の住人だ。
過去に人間に嫁いだ天使もいる。だが、それは奇跡のように稀なこと。
そして、その結果として――今夜のような悲劇も、生まれた。
彼は、人間として、人間の誰かと幸せになるべきだ。
「――ま、……待て」
シオンが、引き止めるように声を張る。「待ってください」と言いかけてから少し背伸びするように言い直したのがわかって、リエルは口元を緩めた。
(シオン様。あなたは本当に、いつもいつも……可愛いですね)
思えば、この王子はずっと頑張っていた。
崇拝対象である憧れの天使様に、対等な――否、それ以上の男として接する。それは、簡単に割り切ってできることではなかっただろう。努力して背伸びしていたのだ。
(随分と無理をしていたのですね)
なんて健気なのだろう。
リエルの心が愛しさでいっぱいになった。
「俺は、別れたくない。リエルが好きだ……」
切々とした告白を、リエルは最後まで聞かなかった。
「……さようなら。健気で可愛い、いい子のシオン様」
少しだけ切なさを滲ませながら別れを告げて、リエルは純白の翼を大きく羽ばたかせた。
風を叩き、上昇すると、過去が下に流れていく気がして、切なさと同時にすっきりとした気持ちになる。
オルディナを後にした時に感じた気持ちに、少し似ている。
――私の居場所では、ないから。
自分はまた逃げるのだ。
そんな思いが湧いて、リエルは苦笑した。
――その方がいいから。そう思うから、離れるの。
飛翔する速度は最大に。
過去も未練も振り切るように、疾風のように飛んでいく。
上へ。天へ。自分がいるべき、故郷へと。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
残されたのは、澄み切った夜空だけだった。
戦いの痕跡はすでに消え、星々が何事もなかったかのように瞬いている。
あまりにも穏やかで、あまりにも残酷な『置き去り』だ。
「……行ってしまわれましたわね」
ケイティが、少しだけ声を落として言った。
「リエルったら、潔いのですわ」
その言葉に、シオンは何も返さなかった。
胸の奥に残った感情を、どう名付ければいいのか分からなかったからだ。
衝撃。困惑。納得できない、もやもやした感情。
置き去りにされたという、実感。そういったもので、心がぐしゃぐしゃになっていた。
「……俺は」
ぽつりと、言葉が零れる。
「今、捨てられたのか?」
「シオン様、それは少々語弊が――」
「拾われても、いなかったのか?」
自分で言って、なおさら腹が立った。
「生きる世界が違うのですわ。元から交わらない運命――」
「俺は健気で可哀想な、子供みたいな存在か?」
「ええ。わりと」
即答だった。その言葉に、不思議なほど心が傷つく。
王子として、男としての矜持のようなものがシオンにも備わっていた。
それが、天使と、聖獣によって無遠慮に踏みにじられたのだ。
『健気で可愛い、いい子のシオン様』
天使に褒められたのだ。喜んでもいいはずの言葉である。だが。
「……俺は子供ではない」
――せめて話を最後まで聞いてくれても良くないか?
ピシャリと目の前でドアを閉めるみたいに打ち切って逃げること、なくないか?
不満と未練しかない。
「大いに不満だ」
シオンは夜空を睨みつけた。
星は何も答えない。
「納得できるわけがないだろう」
決意が、怒りの形を借りて胸に灯る。
――やはり俺は、物申す。
『殿下。状況は把握しております。心中お察し申し上げますが、初恋は実らぬものと言いますか、やはりお相手が天使様となると現実的ではないので、仕方ないかと……』
「黙れ」
ロザミアの憐れみに満ちた声を一刀両断する。
同情されるのが、今は何より腹立たしい。
「ケイティ! 俺は天界に行く! 連れて行け……‼︎」
「……はい?」
「リエルを追う」
両手でケイティの頭を上に向けると、慌てた声が返ってくる。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいませ! 生きている人間が天界に行くなど聞いたことも――」
シオンはきっぱりと言い放った。
「前例がなければ、俺が最初の例になる」
「……天使の末裔である殿下なら、理論上は可能かもしれませんが、それでも前代未聞で――」
「いいから飛べ」
「……本当に、無茶な御方ですこと」
ケイティは呆れたように、しかしどこか楽しげに尾を揺らした。
「本当に、暴君様ですこと」
それでも、背を向けることはなかった。
こうして、ひとりの王子と一匹の聖獣は、天使を追いかけて人類未踏の、高い空へと飛び立った。
炭を流したような、黒い涙だ。
――おねえさまが笑っていたら、うれしかった。
――おねえさまが幸せそうだったら、わたしの心も安らいだ。
その想いが、熱を持たない吐息と一緒に吐き出される。
――けれど、おねえさまは、人を愛してしまった。
――わたしは、それが……許せなかった。おねえさまが幸せそうなのが、つらくなってしまった。
嫉妬だ。
おねえさまは天を離れ、人として生き、人として死んだ。
その血を引く王家を、わたしは憎んだ。
憎まなければ、壊れてしまいそうだった。
――だめだと、分かっていた。
――それでも、止まらなかった。
後悔が、闇とともにほどけていく。涙は少しずつ色を失い、黒色から灰色へ、灰色から無色へと透き通っていく。
透明な涙は、頬を汚した黒色の涙の跡を流し、綺麗にしていった。
胸の奥に溜め込んでいたものが、ひとつ、またひとつとほどけていく。
ルキフェルは光溢れる夜空を見渡し、上を見た。
「――ジブリールさま」
その名を思い出した瞬間、新しい涙が溢れる。
「……ジブリールさま。ごめんなさい」
幼さを濃く滲ませた声が、夜空に溶ける。
「わたし、取り返しのつかないことをしてしまいました。だから……罰を受けねばなりません」
しゅんと項垂れ、ルキフェルは地上の王国を見下ろした。
建物が身を寄せ合うように集まっていて、窓にも道にも点々と小さな光が咲いている。
あのひとつひとつに人間がいる。
ルキフェルが知らない、ルキフェルのように誰かに愛されたり、誰かの行動に傷ついたり、恨んだりしながら、その人だけの人生を精一杯生きる人間たちだ。
ジブリールのように子を慈しみ、守ろうとしたり、育てたりしている人間たちだ。
ここにいる天使や聖獣や人間の王子のように、災厄のような存在となった自分に振り回されながらも、それでも自分たちの手で同胞を守り、未来を切り拓こうと立ち上がる強さを持つ者たちの居場所だ。
王妃になった姉の子孫が歴史を紡いできた、大切な国だ。
「……わたし、たいへんなことをしてしまいましたわ。ほんとうに……ほんとうに」
どんなに悔やんでも、悔やみきれない。
大罪人はおのれの過ちに青ざめ、謝罪を繰り返した。
そして、まるで流れ星のように、きらきらと夜空を流れ落ちていった。落ちる先は――地獄だ。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
曇天を覆っていた灰色の雲が、浄化の風に押されるように退いていく。
その奥から、澄みきった夜空がゆっくりと姿を現した。
天の涯てが艶やかな漆黒の夜闇に沈む中、金砂銀砂を振り撒いたかのごとき星々が煌めいている。
まるで祝福の光のような星の輝く周囲で、夜空は漆黒から紺青や瑠璃へと光を透かしたように色合いを繊細に変える。
この国が長く失っていた天の輝き――誰もが忘れかけていた自然な夜が、そこにあった。
「天使様……リエル!」
一件落着の空気の中、ケイティに騎乗したシオンがリエルに近づこうとする。
だが、リエルは彼から離れた。
「この国は、もう瘴気竜に苛まれることはありません。シオン様の尽力あってのことです。……それでは、これで。天界へ戻ります」
「なっ……」
引き留めようとするシオンの必死な気配に、未練が湧いてしまいそうになる。
それを振り切り、リエルは天使の微笑みで別れを告げた。
「もう、あなたが代償を払い、命を削る必要はありません。長生きしてください、シオン様」
彼に惹かれていた。
それは、確かなことだった。
けれど、天使と人間は、別の世界の住人だ。
過去に人間に嫁いだ天使もいる。だが、それは奇跡のように稀なこと。
そして、その結果として――今夜のような悲劇も、生まれた。
彼は、人間として、人間の誰かと幸せになるべきだ。
「――ま、……待て」
シオンが、引き止めるように声を張る。「待ってください」と言いかけてから少し背伸びするように言い直したのがわかって、リエルは口元を緩めた。
(シオン様。あなたは本当に、いつもいつも……可愛いですね)
思えば、この王子はずっと頑張っていた。
崇拝対象である憧れの天使様に、対等な――否、それ以上の男として接する。それは、簡単に割り切ってできることではなかっただろう。努力して背伸びしていたのだ。
(随分と無理をしていたのですね)
なんて健気なのだろう。
リエルの心が愛しさでいっぱいになった。
「俺は、別れたくない。リエルが好きだ……」
切々とした告白を、リエルは最後まで聞かなかった。
「……さようなら。健気で可愛い、いい子のシオン様」
少しだけ切なさを滲ませながら別れを告げて、リエルは純白の翼を大きく羽ばたかせた。
風を叩き、上昇すると、過去が下に流れていく気がして、切なさと同時にすっきりとした気持ちになる。
オルディナを後にした時に感じた気持ちに、少し似ている。
――私の居場所では、ないから。
自分はまた逃げるのだ。
そんな思いが湧いて、リエルは苦笑した。
――その方がいいから。そう思うから、離れるの。
飛翔する速度は最大に。
過去も未練も振り切るように、疾風のように飛んでいく。
上へ。天へ。自分がいるべき、故郷へと。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
残されたのは、澄み切った夜空だけだった。
戦いの痕跡はすでに消え、星々が何事もなかったかのように瞬いている。
あまりにも穏やかで、あまりにも残酷な『置き去り』だ。
「……行ってしまわれましたわね」
ケイティが、少しだけ声を落として言った。
「リエルったら、潔いのですわ」
その言葉に、シオンは何も返さなかった。
胸の奥に残った感情を、どう名付ければいいのか分からなかったからだ。
衝撃。困惑。納得できない、もやもやした感情。
置き去りにされたという、実感。そういったもので、心がぐしゃぐしゃになっていた。
「……俺は」
ぽつりと、言葉が零れる。
「今、捨てられたのか?」
「シオン様、それは少々語弊が――」
「拾われても、いなかったのか?」
自分で言って、なおさら腹が立った。
「生きる世界が違うのですわ。元から交わらない運命――」
「俺は健気で可哀想な、子供みたいな存在か?」
「ええ。わりと」
即答だった。その言葉に、不思議なほど心が傷つく。
王子として、男としての矜持のようなものがシオンにも備わっていた。
それが、天使と、聖獣によって無遠慮に踏みにじられたのだ。
『健気で可愛い、いい子のシオン様』
天使に褒められたのだ。喜んでもいいはずの言葉である。だが。
「……俺は子供ではない」
――せめて話を最後まで聞いてくれても良くないか?
ピシャリと目の前でドアを閉めるみたいに打ち切って逃げること、なくないか?
不満と未練しかない。
「大いに不満だ」
シオンは夜空を睨みつけた。
星は何も答えない。
「納得できるわけがないだろう」
決意が、怒りの形を借りて胸に灯る。
――やはり俺は、物申す。
『殿下。状況は把握しております。心中お察し申し上げますが、初恋は実らぬものと言いますか、やはりお相手が天使様となると現実的ではないので、仕方ないかと……』
「黙れ」
ロザミアの憐れみに満ちた声を一刀両断する。
同情されるのが、今は何より腹立たしい。
「ケイティ! 俺は天界に行く! 連れて行け……‼︎」
「……はい?」
「リエルを追う」
両手でケイティの頭を上に向けると、慌てた声が返ってくる。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいませ! 生きている人間が天界に行くなど聞いたことも――」
シオンはきっぱりと言い放った。
「前例がなければ、俺が最初の例になる」
「……天使の末裔である殿下なら、理論上は可能かもしれませんが、それでも前代未聞で――」
「いいから飛べ」
「……本当に、無茶な御方ですこと」
ケイティは呆れたように、しかしどこか楽しげに尾を揺らした。
「本当に、暴君様ですこと」
それでも、背を向けることはなかった。
こうして、ひとりの王子と一匹の聖獣は、天使を追いかけて人類未踏の、高い空へと飛び立った。