それぞれの幸せ
「……今さら佐山くんがそんなことを言って、私の決意を鈍らせるの?」

 その声音だけで、佐山は押し黙ってしまう。
「すみません、百合香さん……。俺……」

 百合香はブーケを抱え直しながら、ぽつりと口を開く。

「謝らないで? でも……代わりにもうひとつだけお願い、聞いてくれる?」
「……なんですか?」
「私の家に寄ったあと、帰らずにそのまま待っていて欲しいの」

 バックミラー越しに、佐山がこちらを見る。
 その目が、百合香の腕の中にある九本のチューリップへ向いた。

 何かを言いかけて、だけど悟ったみたいに、佐山は小さく息を吐く。

「……分かりました」

 どこか後悔を孕んだように聞こえる、静かな返事だった。


***


 マンションへ戻った百合香は、大きな荷物を持ち出さなかった。

 本当に必要なものだけ。
 少しの着替えと、通帳と、身分証。
 それだけを、小さな旅行鞄へ詰めていく。

 そして最後に、棚の上へ飾ってあった小さな骨壺と、白猫の写真が入った写真立てを、そっと抱き上げた。
「……しろ、一緒に行こうね」
 指先で白い陶器を撫でる。
 雄二とともに、我が子のように可愛がってきた愛猫のお骨。この子だけは、置いていけなかった。

 テーブルの上には、披露宴会場から持ち帰ったばかりのブーケが置かれている。

 淡いピンクのチューリップが九本。

 ――永遠に一緒に。

 本来なら、幸せな意味を持つ花束。

 けれど百合香にとってそれは、雄二と別れる決断をさせた花だった。

 しばらくその花束を見つめたあと、百合香は小さく息を吐く。

「……ごめんね」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 花瓶にも生けず、そのまま残してしまう花々に対してか。
 芽生に対してか。
 雄二に対してか。
 それとも、雄二への気持ちを押し殺そうとしている自分自身に対してなのか。

 百合香はブーケへ触れなかった。

 同様に、雄二から贈られたアクセサリーにも、まるで贖罪(しょくざい)ででもあるかのように、最後まで手を伸ばさなかった。

 二人で撮った写真も、そのまま。

 持って行ってしまったら、きっとまた戻りたくなる。

 だから、置いていくしかなかった。

 部屋を出る寸前、ふと振り返れば――。
 テーブルの上には、九本のチューリップと、置き去りにされたアクセサリーケース。
 それから、雄二といっしょに撮った写真が残されていた。

 まるで、ここへ置いていく感情そのものみたいだと思った。

 百合香は静かに部屋を見回す。
 ここには確かに、幸せだった時間がある。

 一緒に選んだマグカップ。
 何気なく増えていった生活用品。
 クローゼットの奥にしまったままの、旅行のパンフレット。

 でも、その幸せは――。
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