それぞれの幸せ
 誰かを傷つけながら成り立っていたものだった。

 旅行鞄の持ち手を、ギュッと強く握り直す。

 その音が、やけに大きく響いた。


***


 短い身辺整理を終えた百合香は、再び佐山の待つ車へ乗り込んだ。

 走り出した車内で、佐山はしばらく何も聞かなかった。

 けれど、信号に引っかかるなり、
「……どちらまで送ればいいですか?」
 静かな声で、そう尋ねてくる。

 百合香は少しだけ迷ってから、窓の外を見つめたまま答えた。

「駅まで」
「駅?」
「うん。新幹線の駅」

 そこまで言ってから、百合香は小さく笑った。

「……出来るだけ遠くへ行ってみようかなって思って」

 自分でも、ひどく曖昧な言い方だと思う。
 行き先なんて、まだ決めていない。

 ただ――。
 ここから離れたかった。

 でも、佐山は笑わなかった。

「……西ですか?」
「え?」
「なんとなく。百合香さん、東へ行く感じしないんで」

 その言葉に、百合香は少しだけ目を丸くする。

 それから、ふっと笑った。

「……鋭いね」

 たしかに、自分でも西へ向かう気がしていた。
 理由なんてない。
 ただ、ここから少しでも遠ざかりたいだけ。

「どこか、行ってみたい場所とかあります?」

 不意にそう聞かれて、百合香は少し考える。

「……特にはないかな」

 すると佐山は、前を向いたままぽつりと続けた。

「下関とか、どうです?」

「下関?」

「本州の端っこの山口県にある、フグで有名なとこです」

 そこで一度言葉を切る。

「日本中のフグが集まる市場があるらしくて。……なんだっけな。――ああ、そう、確か南風泊市場(はえどまりしじょう)っていう、日本で唯一のフグ専門の卸売市場がある街です」
「へぇ……」
「しかも向こうじゃ、〝フグ〟って濁らずに〝フク〟って呼ぶらしいっすよ」
「フク?」
「はい。幸福の〝福〟に掛けて。そういう呼び方にしてるらしいです」

 そこで一度だけ言葉を切ってから、佐山は少し照れくさそうに続けた。

「……なんか、幸せになれそうな感じしますよね」

 その言葉に、百合香は思わず小さく笑った。

「なにそれ」
「いや……すんません。俺、こういうのあんまり上手くないんで」
「ふふっ。そうね、なんか似合わないわ」

 そう言いながら、百合香は窓の外へ視線を向けた。

 流れていく景色が、水膜の底に沈むみたいにぼやけて見える。

(……幸せ、か)

 そんなものが、まだ自分にも許されるのだろうか。

 分からない。

 それでも――。

 〝フク〟という響きだけは、少しだけ温かく聞こえた。
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