それぞれの幸せ

第2節 桐生百合香『私みたいにならないで』

 部屋の中は、やけに静かだった。
 暖房の音だけが、一定のリズムで空気を震わせている。
 その静けさが、ほんの少し前までは当たり前じゃなかったことを、百合香はちゃんと分かっている。

(しろ、もういないんだ……)

 そう考えかけて、やめた。
 今はまだ、そこに触れる必要はない。
 触れてしまえば、きっと――崩れるから。

 鏡の前に立って、ふと肩口で揺れる髪に触れる。
 指先にかかる長さはもう、少し前のものじゃない。
 背中まであったはずの重みも、毎日のように立っていた店の匂いも、どちらも、あの日の火と一緒に消えた。

 放火だったと、雄二は言っていた。

(きっと仕方ないこと……だよ、ね……?)

 組に関わる以上、そういうこともあるかもしれない、とは思っていた。

 それでも――。

 しろに続いて、大事なものがなくなったことだけは、思っていたよりも、ずっと重かった。

 視線を落とせば、右手に巻かれた包帯が目に入る。

 ――火傷はまだ、ちょっぴり痛む。

 けれど。

 それすらも、今は大したことじゃないと思えてしまうのが、なんとなく怖かった。

 鏡の中の自分に、小さく息を吐く。

 口角を上げる。

 大丈夫。
 いつも通り。

 百合香はそうやって、何度も自分に言い聞かせた。


***



 きっかけは、一本の電話だった。

 雄二からの、少しだけ困ったような声。

「断ってもいいんだが――」

 歯切れ悪く雄二から前置きされた時点で、百合香には断る気なんてなかった。

 雄二が世話になっている『相良組』のカシラ――相良(さがら)京介(きょうすけ)が大事にしている、堅気(かたぎ)の女の子。

 神田(かんだ)芽生(めい)という名のその子が、インフルエンザで寝込んでいるという。

 雄二は、『どうしても相良(カシラ)が家を空けねばならない間だけ、百合香に神田さんの面倒を見て欲しいらしいんだ』と吐息を落とした。
 相手が若いお嬢さんだけに、組の男衆を付けるわけにはいかないらしい。

 芽生のことは、名前とスリーサイズだけ……ずっと前から知っていた百合香である。
 百合香の店同様、住んでいた家を火事で焼かれ、身一つで放り出されてしまった彼女のため、相良から頼まれて下着を見繕ったことがあるのだ。仲介は雄二が買って出てくれたけれど、下着を選びながらワクワクしたのを覚えている。

 正直、(特定の恋人は作らない相良さんが可愛がっている子ってどんな子なんだろう?)と……かなり気になっていた。

 だから。
「大丈夫だよ。任せて?」
 百合香は雄二の申し出に、一も二もなく即答した。

 今の百合香には店もなく、仕事もない。
 家にいても、しろがいないことや店を失ったことばかりを考えてしまうから、いっそのこと、何か用事を頼まれて出かけていた方がマシだと思ったのもある。

 だから、百合香は行こう、と心に決めた。


***


「百合香。最初にひとつ言っておかなきゃならないんだが……その、カシラのところ、最近猫を飼い始めてな……」

 相良(さがら)京介(きょうすけ)の家へ向かう道すがら、窓外へ視線を向けたままの雄二が、どこか歯切れの悪い調子でそう切り出した。

 運転は、相良組の若い衆――石矢(いしや)恭司(きょうじ)がしていて、百合香は雄二と並んでスモークガラスに覆われたリアシートへ座っている。
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