同じ場所に立つまで、恋じゃなかった

第1話¦はじめまして、が刺さる

第1話 はじめまして、が刺さる
 深夜の時間帯を選んだ理由を、ひよりはうまく言葉にできなかった。
 昼ほど人が多くなく、夜ほど閉じきってもいない。その曖昧さが、今の自分に許される気がしただけだ。

 時計を見る。時間は合っている。早すぎず、遅すぎず。
 それなのに、足元には「遅れてしまった」という感覚だけが残っている。実際に遅れているわけじゃない。分かっているのに、その感覚だけが消えない。

 理由を探すのをやめた。探し始めたら、辿り着いてはいけないところまで行ってしまいそうだったからだ。ひよりは短く息を整える。深呼吸にはならない、ただ速くなった呼吸を元に戻すための、ほんの調整。この時間帯なら大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

 深夜のコンビニは、昼の延長というより、時間だけを切り取って別の容器に移したような空気をまとっていた。冷蔵ケースの低い唸りが足元から伝わり、エアコンの乾いた風が匂いも温度も均していく。自動ドアが開くたび、外の湿った夜の匂いが一瞬入り込み、すぐに人工的な清潔さに薄められて消えた。

 その境界を越える感覚に、理由の分からない緊張が走る。初出勤という言葉より先に、身体が「場違いだ」と訴えていた。

 ポケットの中で名札のクリップを指でなぞる。入口マットのざらつきが靴底に残り、自動ドアが開くと同時に、思っていたより軽いベルの音が鳴った。その軽さが、かえって現実感を強める。

 棚の列が高く感じられる店内。夜の客はまばらで、レジ前だけが妙に広い。奥へ一歩踏み出したとき、視界の端に人の気配を捉えた。

 レジの向こうに立つ人。
 自分と同じ制服。手元に落とされた視線。整えすぎていない髪。生活の匂いを帯びたその姿が、ただの同僚以上の存在感で、ひよりの視界に入り込んでくる。

 顔がはっきり見えた瞬間、時間が一拍だけ引っかかった。
 似ている、という言葉より先に、胸の奥で別の感覚が立ち上がる。理由を探す前に、探してはいけない気がした。身体だけが、頭より先に「知っている」と反応してしまう。

 ひよりは視線を棚の端へ逃がす。喉が乾き、息の深さを誤る。名札のクリップが掌に食い込み、痛みになる手前の感触だけが残った。

 相手が顔を上げる気配がして、視線がこちらに向く。その瞬間、胸の奥で小さな音が鳴った気がした。実際に音がしたわけじゃない。それでも、鳴ったと分かる。

 レジ越しに目が合う。

 彼はすぐに笑った。初対面の人に向ける、よく出来た笑顔。夜のコンビニにいるのに疲れの色が薄く、明るいというより、人当たりがいい。その表情を見つめながら、ひよりの頭の中では、笑っていない別の顔が浮かびかけては、掴めないまま消えていく。

 「あ、今日からだっけ? ひよりさんだよね」

 確認というより、会話を始めるための声。ひよりは名札を留める手を止めないまま、小さく頷いた。

 「……はい。今日からです」

 自分の声が、少し低く響いた気がする。けれど彼は気にした様子もなく、続けた。

 「俺、湊。十九。今は予備校行っててさ」

 さらっと投げられる自己紹介。その軽さが、現実的で、ひよりの内側に小さな波を立てる。
 湊、という名前を心の中で反芻する。口に出したら、何かが壊れそうで。

 「よろしくね」

 間を置かずに、

 「はじめまして」

 その一言が、胸の奥に静かな揺れを落とした。重くはない。ただ、確かに揺れたと分かる程度の衝撃。ひよりは返事のタイミングを逃し、一拍遅れて口を開く。

 「……はじめまして。よろしくお願いします」

 敬語を選ぶ。外した瞬間、距離が詰まりすぎる気がした。

 湊は気にした様子もなく、自然な距離で説明を始める。その近づき方があまりに当たり前で、避ける理由を見つけられない。

 「ひよりでいい?」

 唐突な呼び方に、胸の奥がわずかにざわつく。自分の名前なのに、どこか自分のものじゃない響きだった。

 「同い年くらいでしょ? 敬語いらなくない?」

 ひよりは短く首を振る。

 「……慣れてからで……」

 湊は一瞬だけ首を傾げ、「そっか」と返す。それ以上踏み込まない切り替えの速さが、ひよりの胸に小さな棘を残した。引っかかりは確かにあるのに、それを言葉にした瞬間、すべてが自分の思い込みに変わってしまいそうで、掴めないまま飲み込む。

 作業の説明を続けながら、湊が何気なく聞く。

 「ひよりってさ、どこ高?」

 その瞬間、周囲の音が一拍遅れて届いた気がした。

 「俺は◯◯高。知ってる?」

 自分の情報を先に差し出す癖。善意で、無自覚で、距離を詰めるやり方。その高校名が耳に入った途端、胸の奥で何かが小さく鳴る。

 (……知ってる)

 声にはしない。知っていることを示した瞬間、こちらだけが多くを持ってしまう。その非対称を、今は作りたくなかった。

 ひよりは視線を落とし、レジ台の角を見る。考えるより先に、言葉だけが零れた。

 「……高校、行ってなくて」

 言った直後、自分が何を口にしたのか理解する。嘘とも真実とも言い切れない言葉。それでも「同い年」という枠を、少しだけずらせる気がした。訂正しなかったのは、訂正すれば、もっと重い言葉を差し出すことになると分かっていたからだ。

 湊は一瞬だけ目を見開き、それから軽く頷いた。

 「あ、そうなんだ」

 深くは聞かない。その配慮が分かるから、胸の奥が微かに痛む。

 「じゃあさ、敬語とかも別にいいじゃん。楽にいこ」

 柔らかい言葉に、ひよりは曖昧な笑みだけを浮かべる。頷くことはしなかった。

 説明は分かりやすく、声の間合いも丁度いい。けれどその善意の中で、ひよりは自分の輪郭が少しずつ薄くなる感覚を覚えていた。守られているというより、あらかじめ用意された場所に置かれているような感覚。

 作業の合間、湊がふいにこちらを見る。

 「ひよりさ。俺、怖い?」

 冗談めいた軽口。距離を詰めている自覚があるから、先に笑いに変えるタイプだと分かる。

 怖いのは、あなたじゃない。
 勝手に縮まる距離が、過去のどこかに触れてしまうこと。

 ひよりは短く息を吐く。

 「……怖くないです」

 嘘ではない。けれど、真実とも言い切れない。

 湊は「だよね」と笑い、何事もなかったように作業へ戻る。その背中は軽く、その軽さが少しだけ眩しい。

 理由の分からない違和感が、夜のコンビニの明かりの下で、静かに伸びていく。
 今は切らない。切れないのではなく、切らない。

 思い出してしまった理由を、まだ言わない。
 言わないまま、関係の中に入る。

 ひよりはレジ横に立ち、指示を聞くふりをしながら、その選択だけを胸の奥で確かめていた。
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