同じ場所に立つまで、恋じゃなかった
第12話¦『楽』な関係
深夜のコンビニは、変わらないということ自体が仕事みたいな顔をしている。時計の針の進み方、レジの前を通る客の層、棚に並ぶ商品の減り方。前日と少しも違わないはずなのに、ひよりには、その「同じ」が少しだけ重く感じられた。
重く感じる理由が分からない。分からないまま、ひよりは手元の作業を続ける。バーコードを通して、袋に詰めて、釣り銭を返す。機械的な動作が、思考を遠ざけてくれる。遠ざけてくれることが、今は楽だった。
湊はいつも通りだった。声のトーンも、動きの速さも、冗談の軽さも。ひよりに向ける視線も、指示の出し方も、すべてが昨日までと変わらない。変わらないからこそ、ひよりは安心してしまう。安心してしまう自分を、少しだけ警戒する。
レジ横で品出しをしていると、湊が背後を通った。
「それ、後で俺やるから」
「……大丈夫です、終わります」
言いながら、ひよりは作業を続けた。湊は「あ、そ」と短く返して、無理に奪わない。そういう距離感が、もう定着している。定着していることに、ひよりは少しだけ違和感を覚える。違和感を覚えるのに、訂正しない。訂正する理由が見つからないからだ。
ひよりは気づいている。自分が「合わせている」ことを。無理をしているわけではない。でも、主張もしない。その選び方が、最近はあまりにも自然だった。自然すぎて、怖い。怖いのに、止められない。
客が途切れる時間が来る。湊が棚の面出しをしている。ひよりはレジ周りの清掃をする。二人で黙って動く時間が、もう日常になっている。日常になっていることを、ひよりは受け入れている。受け入れていることを、疑わない。
バックヤードに下がったとき、環が入ってきた。缶コーヒーを片手に、壁にもたれている。監督というより、ただそこにいる人の姿勢だ。
「最近、楽しそうだな」
唐突な一言だった。仕事の話にも聞こえるし、私生活の話にも聞こえる。どちらとも取れる言い方。環はいつもそうだ。曖昧な言い方で、核心に触れる。触れるのに、踏み込まない。
湊は一瞬も迷わず答えた。
「まあ……はい」
即答だった。考える間もなく出た言葉。深い意味は含まれていない。むしろ、含まれていないことがはっきり分かる。湊は楽しい、と思っている。それ以上でも、それ以下でもない。
環は頷いただけで、すぐに続けない。沈黙を挟んで、缶を軽く振った。振る音が、静かなバックヤードに響く。
「ひよりさん。気、使わなくていい感じ?」
「ですね。自然なんすよ」
湊は笑う。笑いながら、何も疑っていない顔をしている。自分の言葉が、どこにどう届くかを考えないまま。考えないことが、湊の強さでもあり、弱さでもある。
環はそこで、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……相手も?」
問い詰める声ではなかった。疑問形ですらない。ただ、置いた、という感じの言葉。置かれた言葉が、湊の中で少しだけ引っかかる。
湊の返事は、すぐには来なかった。一拍。ほんの一拍だけ、間が空く。間が空くことが、湊には珍しい。
「あー……まあ、たぶん」
濁したとも言えるし、流したとも言える。湊自身も、どちらなのか分かっていない。分かっていないことを、認めたくない。認めたくないから、曖昧なまま答える。
環はそれ以上、踏み込まなかった。それが今の最適解だと分かっている人の引き方だった。引き方が、優しい。優しいのに、湊の胸に少しだけ刺さる。
環は缶コーヒーを一口飲んで、また壁にもたれた。もたれたまま、湊を見る。見る目が、少しだけ心配している。心配しているのに、言葉にしない。言葉にしないことが、環の優しさだった。
「同世代っていいよなあ」
環が言う。前にも聞いた言葉だ。でも、今回も意味は限定されない。何を指しているのか、具体的には言わない。言わないことで、湊に考える余地だけを残す。
「……そうっすね」
湊は答える。答えたあとで、何がそうなのか、自分でも分からなかった。分からないのに、とりあえず言ってしまう。良くも悪くも、湊の癖だった。
フロアに戻ると、ひよりはレジ前に立っていた。姿勢はいつも通り。動きも正確。客への対応も丁寧で、声も安定している。
ただ、環には分かった。ひよりは少しだけ、疲れて見える。無理をしている疲れではない。気を張り続けたあとに残る、薄い疲労。その疲労が、背中にほんの少し影を落としている。
ひよりが視線を上げて、環に気づく。小さく会釈をして、すぐに作業に戻る。その所作が、どこか「合わせる側」のものだった。合わせる側にいることを、ひよりは自覚している。自覚しているのに、変えない。
環は何も言わない。言えば簡単だ。忠告もできるし、注意もできる。でも、それをすると線が引かれる。今は、線を引く段階じゃない。引く段階じゃないから、環は黙っている。黙っていることが、環にできる最大の配慮だった。
湊がフロアに戻ってくる。戻ってきて、ひよりの隣に立つ。立つ距離が、少しだけ近い。近いことを、どちらも気にしない。気にしないことが、もう日常になっている。
環はその様子を見て、気づかれない程度に息を吐いた。吐いた息は、誰にも届かない。届かないまま、環は奥へ引っ込む。引っ込みながら、少しだけ心配する。心配するのに、何もしない。何もしないことが、今は正解だと思っている。
シフトが終わり、明け方の空気が店内に入り込む。入り込んだ空気が、ひんやりと床を撫でる。その冷たさが、一日の終わりを告げていた。
湊は伸びをして、軽く息を吐いた。
「今日、楽でしたね」
環は靴紐を結びながら、視線を上げずに答える。
「“楽”なのは、悪くないけどな」
それだけ言って、店を出る。続きを言わない。答えも求めない。求めないことが、環の距離感だった。
ひよりはその背中を見送りながら、胸の奥に小さな引っかかりを感じた。誰かに見られている、という感覚。責められてはいない。ただ、気づかれている。気づかれていることが、少しだけ怖い。
湊は自分たちの会話に気づかない。環は「じゃ、また」と軽く言う。言い方が、いつも通りだ。いつも通りであることが、ひよりには安心でもあり、不安でもある。
ひよりは頷いて、同じ言葉を返す。
「お疲れさまでした」
敬語のまま。敬語が、最後の壁として残っている。壁が残っていることを、ひよりは安心材料にしている。安心材料にしているのに、その壁はもう機能していない。機能していないことを、ひよりは薄々感じている。
今日は、楽だった。
外に出ると、空気が冷たい。冷たさが頬に染みる。染みるのに、どこか心地いい。その心地よさが、現実を少しだけ遠ざけてくれる。
湊が先に歩き出す。歩き出す方向は、湊の部屋のほうだ。ひよりもそれに続く。続くことに、違和感がない。違和感がないことが、もう答えだった。
二人は並んで歩く。足音が二つ重なる。重なる音が、朝の静けさの中で少しだけ大きく響く。
湊が、軽く言った。
「今日さ、ネトフリ見よーよ」
聞き方は、いつもと同じだった。軽くて、提案というより流れの確認みたいな言い方。行くか行かないかを本気で考えさせない、余白のない問い方だった。
ひよりはすぐに答えなかった。拒否の理由が浮かばないわけじゃない。ただ、理由を探すこと自体が、今は少し面倒だった。面倒だと思ってしまうことに、気づかないふりをする。
「……はい」
短く返した声が、思ったよりも静かだった。答えたあとで、何に頷いたのかを考えそうになって、ひよりはそれをやめる。考えたら、何かを決めなきゃいけなくなる気がした。
湊は「よし」とも「ありがと」とも言わない。ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とす。その落とし方が自然すぎて、ひよりはそれに合わせてしまう。合わせている、という意識すら湧かない。
道はもう覚えている。街灯の位置も、自販機の明かりも、角を曲がったあとの暗さも。前は「また来てる」と思っていたはずなのに、今は「いつもの道」になっている。
湊の部屋に入る。靴を脱ぐ。照明をつける。ソファに座る。ひよりの体は、もう迷わない。迷わないことが、少しだけ怖い。でも、その怖さを拾い上げるほど、余裕がない。
湊がリモコンを手に取って、何の確認もなくアプリを開く。おすすめ欄を流し見て、適当に止める。ひよりは画面を見ながら、内容を把握しようとしない。何を見るかは、どうでもよかった。
「これでいい?」
湊が聞く。聞き方が、確認というより共有に近い。
「……はい」
また同じ返事。でも、湊は気にしない。気にしないから、この関係は進む。進んでいる自覚がないまま。
再生ボタンが押され、画面が切り替わる。オープニングの音楽が流れ、登場人物が喋り始めた。本当に、見るんだ、とひよりは胸の奥で小さく拍子抜けする。ここは始まらない時間だと思っていた。再生されないまま、曖昧な距離だけが残って、画面は口実のまま消える。勝手に、そう想像していた。けれど湊は何の躊躇もなく再生した。ソファに深く腰を下ろし、肘を背もたれにかける。いつもの延長みたいな動きで、特別な間を作らない。
ひよりは画面を見る。知らない俳優の顔、聞き慣れない声。内容はほとんど頭に入ってこない。ただ「始まってしまった」という事実だけが、はっきり残った。ネトフリなんて、どうでもよかった。ひよりは分かっている。このあと、どうなるか。どんな順番で距離が消えていくか。どこで止めなければ、止まらなくなるか。それでも、ここに座っている。
湊との距離は近い。さっきより、ほんの少しだけ。でもその少しは、もう「近づいた」と呼べる段階を越えていた。肩が触れそうで、触れない。触れないのに、体温は分かる。ひよりは体を引かない。引かないことが黙った了解になると知っている。知っていても、動かない。
湊は画面を見ている。見ているけれど、集中してはいない。笑うタイミングが少し遅れ、遅れてから息を吐く。湊の中でも理由は整理されていなかった。ひよりが隣にいること。静かで、近くて、それが不自然じゃないこと。その全部が少しだけおかしい。おかしいと感じても考えない。考えないまま、体が先に判断してしまう。
湊は無意識に体勢を変えた。背もたれに回していた腕が、ひよりの背中側へ落ちる。抱くほど近くはない。けれど、離れているとも言えない位置だった。ああ、これ、とひよりは思う。これが合図だ。けれど湊は、合図だとは思っていない。ただ、そのほうが楽な姿勢だっただけだ。楽な距離、楽な置き方。楽だから、そこに留まってしまう。
ひよりの肩に、湊の腕の重さが伝わる。直接触れていないのに、触れられているみたいな圧だった。ひよりは目を画面から外さない。外せば、視線が合ってしまう。合えば、もう「見ないふり」ができなくなる。ネトフリの音が部屋を満たしている。けれど、それはもう背景だった。映像も会話も、どちらも本筋じゃない。
湊は、なぜ手を伸ばすのか分かっていない。ただ、伸ばしてしまう予感だけがある。伸ばした先に何があるかを、考えないまま。ひよりはその予感に気づいている。気づいていて、止めない。止めないという選択が、もう答えになっていた。
画面の中で物語は進んでいる。けれど、ひよりの中では別の話が始まっている。どうせ、ネトフリなんて最後まで見ない。そう思いながら、ひよりはソファに深く身を預けた。近い距離を、そのまま受け入れて。夜は、まだ続く。けれど続きを決めているのは、画面じゃなかった。
重く感じる理由が分からない。分からないまま、ひよりは手元の作業を続ける。バーコードを通して、袋に詰めて、釣り銭を返す。機械的な動作が、思考を遠ざけてくれる。遠ざけてくれることが、今は楽だった。
湊はいつも通りだった。声のトーンも、動きの速さも、冗談の軽さも。ひよりに向ける視線も、指示の出し方も、すべてが昨日までと変わらない。変わらないからこそ、ひよりは安心してしまう。安心してしまう自分を、少しだけ警戒する。
レジ横で品出しをしていると、湊が背後を通った。
「それ、後で俺やるから」
「……大丈夫です、終わります」
言いながら、ひよりは作業を続けた。湊は「あ、そ」と短く返して、無理に奪わない。そういう距離感が、もう定着している。定着していることに、ひよりは少しだけ違和感を覚える。違和感を覚えるのに、訂正しない。訂正する理由が見つからないからだ。
ひよりは気づいている。自分が「合わせている」ことを。無理をしているわけではない。でも、主張もしない。その選び方が、最近はあまりにも自然だった。自然すぎて、怖い。怖いのに、止められない。
客が途切れる時間が来る。湊が棚の面出しをしている。ひよりはレジ周りの清掃をする。二人で黙って動く時間が、もう日常になっている。日常になっていることを、ひよりは受け入れている。受け入れていることを、疑わない。
バックヤードに下がったとき、環が入ってきた。缶コーヒーを片手に、壁にもたれている。監督というより、ただそこにいる人の姿勢だ。
「最近、楽しそうだな」
唐突な一言だった。仕事の話にも聞こえるし、私生活の話にも聞こえる。どちらとも取れる言い方。環はいつもそうだ。曖昧な言い方で、核心に触れる。触れるのに、踏み込まない。
湊は一瞬も迷わず答えた。
「まあ……はい」
即答だった。考える間もなく出た言葉。深い意味は含まれていない。むしろ、含まれていないことがはっきり分かる。湊は楽しい、と思っている。それ以上でも、それ以下でもない。
環は頷いただけで、すぐに続けない。沈黙を挟んで、缶を軽く振った。振る音が、静かなバックヤードに響く。
「ひよりさん。気、使わなくていい感じ?」
「ですね。自然なんすよ」
湊は笑う。笑いながら、何も疑っていない顔をしている。自分の言葉が、どこにどう届くかを考えないまま。考えないことが、湊の強さでもあり、弱さでもある。
環はそこで、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……相手も?」
問い詰める声ではなかった。疑問形ですらない。ただ、置いた、という感じの言葉。置かれた言葉が、湊の中で少しだけ引っかかる。
湊の返事は、すぐには来なかった。一拍。ほんの一拍だけ、間が空く。間が空くことが、湊には珍しい。
「あー……まあ、たぶん」
濁したとも言えるし、流したとも言える。湊自身も、どちらなのか分かっていない。分かっていないことを、認めたくない。認めたくないから、曖昧なまま答える。
環はそれ以上、踏み込まなかった。それが今の最適解だと分かっている人の引き方だった。引き方が、優しい。優しいのに、湊の胸に少しだけ刺さる。
環は缶コーヒーを一口飲んで、また壁にもたれた。もたれたまま、湊を見る。見る目が、少しだけ心配している。心配しているのに、言葉にしない。言葉にしないことが、環の優しさだった。
「同世代っていいよなあ」
環が言う。前にも聞いた言葉だ。でも、今回も意味は限定されない。何を指しているのか、具体的には言わない。言わないことで、湊に考える余地だけを残す。
「……そうっすね」
湊は答える。答えたあとで、何がそうなのか、自分でも分からなかった。分からないのに、とりあえず言ってしまう。良くも悪くも、湊の癖だった。
フロアに戻ると、ひよりはレジ前に立っていた。姿勢はいつも通り。動きも正確。客への対応も丁寧で、声も安定している。
ただ、環には分かった。ひよりは少しだけ、疲れて見える。無理をしている疲れではない。気を張り続けたあとに残る、薄い疲労。その疲労が、背中にほんの少し影を落としている。
ひよりが視線を上げて、環に気づく。小さく会釈をして、すぐに作業に戻る。その所作が、どこか「合わせる側」のものだった。合わせる側にいることを、ひよりは自覚している。自覚しているのに、変えない。
環は何も言わない。言えば簡単だ。忠告もできるし、注意もできる。でも、それをすると線が引かれる。今は、線を引く段階じゃない。引く段階じゃないから、環は黙っている。黙っていることが、環にできる最大の配慮だった。
湊がフロアに戻ってくる。戻ってきて、ひよりの隣に立つ。立つ距離が、少しだけ近い。近いことを、どちらも気にしない。気にしないことが、もう日常になっている。
環はその様子を見て、気づかれない程度に息を吐いた。吐いた息は、誰にも届かない。届かないまま、環は奥へ引っ込む。引っ込みながら、少しだけ心配する。心配するのに、何もしない。何もしないことが、今は正解だと思っている。
シフトが終わり、明け方の空気が店内に入り込む。入り込んだ空気が、ひんやりと床を撫でる。その冷たさが、一日の終わりを告げていた。
湊は伸びをして、軽く息を吐いた。
「今日、楽でしたね」
環は靴紐を結びながら、視線を上げずに答える。
「“楽”なのは、悪くないけどな」
それだけ言って、店を出る。続きを言わない。答えも求めない。求めないことが、環の距離感だった。
ひよりはその背中を見送りながら、胸の奥に小さな引っかかりを感じた。誰かに見られている、という感覚。責められてはいない。ただ、気づかれている。気づかれていることが、少しだけ怖い。
湊は自分たちの会話に気づかない。環は「じゃ、また」と軽く言う。言い方が、いつも通りだ。いつも通りであることが、ひよりには安心でもあり、不安でもある。
ひよりは頷いて、同じ言葉を返す。
「お疲れさまでした」
敬語のまま。敬語が、最後の壁として残っている。壁が残っていることを、ひよりは安心材料にしている。安心材料にしているのに、その壁はもう機能していない。機能していないことを、ひよりは薄々感じている。
今日は、楽だった。
外に出ると、空気が冷たい。冷たさが頬に染みる。染みるのに、どこか心地いい。その心地よさが、現実を少しだけ遠ざけてくれる。
湊が先に歩き出す。歩き出す方向は、湊の部屋のほうだ。ひよりもそれに続く。続くことに、違和感がない。違和感がないことが、もう答えだった。
二人は並んで歩く。足音が二つ重なる。重なる音が、朝の静けさの中で少しだけ大きく響く。
湊が、軽く言った。
「今日さ、ネトフリ見よーよ」
聞き方は、いつもと同じだった。軽くて、提案というより流れの確認みたいな言い方。行くか行かないかを本気で考えさせない、余白のない問い方だった。
ひよりはすぐに答えなかった。拒否の理由が浮かばないわけじゃない。ただ、理由を探すこと自体が、今は少し面倒だった。面倒だと思ってしまうことに、気づかないふりをする。
「……はい」
短く返した声が、思ったよりも静かだった。答えたあとで、何に頷いたのかを考えそうになって、ひよりはそれをやめる。考えたら、何かを決めなきゃいけなくなる気がした。
湊は「よし」とも「ありがと」とも言わない。ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とす。その落とし方が自然すぎて、ひよりはそれに合わせてしまう。合わせている、という意識すら湧かない。
道はもう覚えている。街灯の位置も、自販機の明かりも、角を曲がったあとの暗さも。前は「また来てる」と思っていたはずなのに、今は「いつもの道」になっている。
湊の部屋に入る。靴を脱ぐ。照明をつける。ソファに座る。ひよりの体は、もう迷わない。迷わないことが、少しだけ怖い。でも、その怖さを拾い上げるほど、余裕がない。
湊がリモコンを手に取って、何の確認もなくアプリを開く。おすすめ欄を流し見て、適当に止める。ひよりは画面を見ながら、内容を把握しようとしない。何を見るかは、どうでもよかった。
「これでいい?」
湊が聞く。聞き方が、確認というより共有に近い。
「……はい」
また同じ返事。でも、湊は気にしない。気にしないから、この関係は進む。進んでいる自覚がないまま。
再生ボタンが押され、画面が切り替わる。オープニングの音楽が流れ、登場人物が喋り始めた。本当に、見るんだ、とひよりは胸の奥で小さく拍子抜けする。ここは始まらない時間だと思っていた。再生されないまま、曖昧な距離だけが残って、画面は口実のまま消える。勝手に、そう想像していた。けれど湊は何の躊躇もなく再生した。ソファに深く腰を下ろし、肘を背もたれにかける。いつもの延長みたいな動きで、特別な間を作らない。
ひよりは画面を見る。知らない俳優の顔、聞き慣れない声。内容はほとんど頭に入ってこない。ただ「始まってしまった」という事実だけが、はっきり残った。ネトフリなんて、どうでもよかった。ひよりは分かっている。このあと、どうなるか。どんな順番で距離が消えていくか。どこで止めなければ、止まらなくなるか。それでも、ここに座っている。
湊との距離は近い。さっきより、ほんの少しだけ。でもその少しは、もう「近づいた」と呼べる段階を越えていた。肩が触れそうで、触れない。触れないのに、体温は分かる。ひよりは体を引かない。引かないことが黙った了解になると知っている。知っていても、動かない。
湊は画面を見ている。見ているけれど、集中してはいない。笑うタイミングが少し遅れ、遅れてから息を吐く。湊の中でも理由は整理されていなかった。ひよりが隣にいること。静かで、近くて、それが不自然じゃないこと。その全部が少しだけおかしい。おかしいと感じても考えない。考えないまま、体が先に判断してしまう。
湊は無意識に体勢を変えた。背もたれに回していた腕が、ひよりの背中側へ落ちる。抱くほど近くはない。けれど、離れているとも言えない位置だった。ああ、これ、とひよりは思う。これが合図だ。けれど湊は、合図だとは思っていない。ただ、そのほうが楽な姿勢だっただけだ。楽な距離、楽な置き方。楽だから、そこに留まってしまう。
ひよりの肩に、湊の腕の重さが伝わる。直接触れていないのに、触れられているみたいな圧だった。ひよりは目を画面から外さない。外せば、視線が合ってしまう。合えば、もう「見ないふり」ができなくなる。ネトフリの音が部屋を満たしている。けれど、それはもう背景だった。映像も会話も、どちらも本筋じゃない。
湊は、なぜ手を伸ばすのか分かっていない。ただ、伸ばしてしまう予感だけがある。伸ばした先に何があるかを、考えないまま。ひよりはその予感に気づいている。気づいていて、止めない。止めないという選択が、もう答えになっていた。
画面の中で物語は進んでいる。けれど、ひよりの中では別の話が始まっている。どうせ、ネトフリなんて最後まで見ない。そう思いながら、ひよりはソファに深く身を預けた。近い距離を、そのまま受け入れて。夜は、まだ続く。けれど続きを決めているのは、画面じゃなかった。