同じ場所に立つまで、恋じゃなかった

第15話¦残ってしまったもの

 深夜の店内は静かだった。客足が落ちる時間帯で、レジ前に立つ時間も短い。ひよりは商品棚の前で手を止め、無意識に顔を上げる。視線の先に湊がいる。それだけで、胸の奥がわずかに緩むのを感じた。理由を考える前に、体の方が先に反応してしまう。その反応を抑えることができない自分に、ひよりはもう驚かなくなっていた。
 数日ぶりだった。環がシフトを組み替えてから、湊と同じ時間帯に入ることが減っていた。明らかな変化に気づいているのに、環に聞けない。聞いたら、暗黙の了解として成り立っている何かが、言葉によって固まってしまう。そうなれば、もう曖昧なままではいられなくなる。

「今日、なんか久しぶりだね」
 湊は特別でもない声で言った。いつもと変わらない口調。ひよりは一拍置いてから頷く。
「……そうですね」
 返しながら、自分の声が少しだけ柔らかくなっていることに気づく。意識していないのに滲み出る親密さ。それが恥ずかしくて、でも訂正する言葉も見つからない。

 それ以上の会話は続かない。それでも視線が合う回数は増えていた。通路ですれ違うとき、肩が触れそうな距離になる。避けるほどではないし、近づこうとも思わない。ただ、そこにいる。それだけで、久しぶりだと思ってしまう。距離感が変わったことを、二人とも自覚している。
 環は奥から二人を見ていた。見ているのに、何も言わない。何も指摘しない優しさが、ひよりには少しだけ重かった。気づかれていることが分かっているからこそ、余計に逃げ場がなくなる。

 仕事は滞りなく終わった。レジ締めも清掃も、前と同じ手順で進む。外に出ると夜の空気が冷たく、ひよりはコートの前を閉じた。歩き出すと、隣に湊がいる。
「行く?」も「帰る?」も言わない。足並みは自然に揃い、向かう方向も決まっている。確認は、もう必要なくなっていた。言葉にしないまま成立する了解が、二人の間にはある。

 夜道は静かだった。通る車も少ない。街灯の下を歩くたびに、二人の影が伸びて、また縮む。影が重なる瞬間がある。重なっても、どちらも気にしない。それがもう日常の一部になっている。
 鍵を開け、ドアが閉まる音がする。湊の部屋は相変わらずで、散らかりすぎてもいないし、整いすぎてもいない。ひよりはソファに腰を下ろし、スマホを手に取る。画面を眺めているつもりでも、内容は頭に入ってこない。文字を追っているだけで、意味は素通りしていく。

 湊が冷蔵庫から飲み物を出して差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 敬語で返す。その言葉だけが、自分の中に残っている最後の線のように思えた。まだ崩していない何か。それを確認することで、保っているものがある。何を保っているのか、もう分からなくなっているけれど。

 会話は途切れがちで、テレビもつけない。触れない時間が長く続く。沈黙が苦しくないことに、ひよりはもう慣れていた。この沈黙が特別ではなくなっていることにも気づいている。気づいてはいるけれど、深く考えないようにしていた。考えれば、自分がどこまで来てしまったのか直視することになる。
 湊が隣に座り、距離が自然に詰まる。詰まることに違和感はなく、むしろ当然のようにさえ感じられる。その感覚こそが、もう答えだった。

 何かの拍子に視線が合い、逸らすのが遅れる。遅れることが合図になっている。どちらもそれを自覚しているのに、言葉にはしない。言葉にすれば、すべてが明確になってしまうから。
 どちらが先だったのかは分からない。分からないまま、距離が消える。消えることを拒まない自分がいる。

 流れは、いつも通りだった。言葉は少なく、動きも静かだ。湊の手が、ひよりの髪に触れる。触れ方が、以前よりも確信を持っている。迷いがない。その迷いのなさが、ひよりには少しだけ悲しかったが、拒絶の言葉は出てこない。

 湊の唇が、ひよりの首筋に触れる。少しだけ強く吸われた。吸われた場所が、じんわりと熱を持つ。その熱さに驚きながらも、体は動かない。拒む理由を見つけられない。

 一度、二度。同じ場所に、何度も。繰り返し触れられていることに気づいているのに、声を出さない。
 ひよりは理解していた。どこに触れられているのか、どんな痕が残るのか。そのすべてを分かった上で、思考を手放す。手放すことでしか、この時間を受け入れられない。

 いまは、考えなくていい。
 そう思った瞬間、頭の中が静かになる。判断も、比較も、必要なくなる。快楽という言葉も、嬉しいという感覚も浮かばない。ただ、考えなくていいという状態だけが残る。その楽さに、抵抗できない。

 湊の手が、ひよりの体を確かめるみたいに動く。動き方が以前よりも慣れている。慣れていることに気づくと、胸の奥が少しだけ冷える。寂しさに似た感情が通り過ぎるけれど、それでも拒まない。拒まないことで、また一つラインが曖昧になる。
 ひよりの手が、湊の背中に回る。少しだけ強く抱きしめた。その瞬間、湊の体が一瞬強張るのが分かった。すぐに力が抜けて、湊の手がひよりの腰に回ってくる。その重みが、妙にリアルだった。

 時間が過ぎる。過ぎ方が早い。すっかり、慣れたからだ。そんなことは認めたくないのに、体は正直に反応する。体が覚えてしまっている。その事実が怖い。怖いと思っても、流れを断ち切れない。
 湊の唇が、また首筋に戻る。さらに強く吸う。吸われる感覚が痛みに近いのに、不快ではない。むしろ、その刺激が現実感を帯びている。不快でないことが、また怖い。

 ひよりは目を閉じる。瞼を下ろせば、考えなくて済む。考えなくて済むことが、今は楽だった。楽だと感じてしまうこと自体が、もう沼にはまっている証拠だと分かっているのに。

「……まじで、かわい」

 湊の声は低く、特別な意味を含んでいない。ただ、その場にある甘さ。眠気と一緒に、熱だけが残る。ひよりは、その言葉に返事をしない。返事をしたら、何かが確定してしまう気がする。確定させたくない。でも、確定に近づいている。その矛盾を抱えたまま、時間だけが過ぎていく。

 体が重なる。重なることに抵抗はない。抵抗がないこと自体が、もう答えだった。その答えを認めたくないのに、体は素直に反応してしまう。

 湊の手が、ひよりの肌に触れる。触れ方が優しいのに、遠慮はない。遠慮のなさが、ひよりには少しだけ悲しかった。悲しいと思っても、言葉にはできない。

 時間が過ぎる。何も分からなくなる。何も分からなくなることが、今は楽だった。それは、とても怖いことだ。なのに、その怖さすらも曖昧になっていく。

 やがて、動きが静かになる。その後、ひよりの体に残るのは、重さだった。心地よい重さというより、使い果たした後の重さ。腕が、脚が、少しだるい。そのだるさが、現実を連れてくる。夢のような時間が終わり、現実が戻ってくる瞬間。
 
 湊は、ひよりの隣で目を閉じる。その表情が、穏やかだ。穏やかな寝顔を見て、ひよりは少しだけ胸が痛む。痛むのは、湊が悪いからじゃない。ひより自身が、何かを間違えているからだ。何を間違えているのか、はっきりとは分からないけれど。

明け方、洗面所の鏡の前でひよりは首元を見る。
 一瞬で分かる。赤い痕が、くっきりと残っている。輪郭がはっきりしていて、誤魔化しようがない。予想していたはずなのに、実物を前にすると、胸の奥が一段冷えた。

 指を伸ばせば触れる距離なのに、触れない。触れた瞬間、それが「あったこと」として確定してしまう気がした。気がした、ではなく、そうだと分かっている。分かっているから、何もしない。

 残ってしまった。
 その認識が胸の奥に落ちたとき、後悔とは違う感情が広がった。取り返しがつかない、というより、もう引き返す場所が曖昧になっている感覚。諦めに近いのに、完全には諦めきれない。宙ぶらりんのまま、感情だけが残っている。
 
「あー……大丈夫、すぐ消えるよ」

 深刻さのない声だった。フォローのつもりなのだろう。悪意も、後悔も、そこにはない。湊にとっては、よくある出来事の延長でしかない。
 その軽さが、ひよりの胸を静かに締めつける。

 消える、という言葉。
 時間が経てば消える。痕も、熱も、たぶん感情も。そう信じている言い方だった。信じているというより、疑っていない。疑わないから、言葉に重さがない。

 ひよりは何も言えなかった。
 「消えない」とも、「困る」とも言えない。言えば、この関係に説明が必要になる。説明が必要になった瞬間、今まで成立していた曖昧さが壊れる。それを恐れているのが自分だと、ひよりは分かっている。

 湊は、何も知らない。
 知らないまま、気遣ったつもりで、軽く笑っている。その無自覚な優しさが、ひよりには少しだけ残酷だった。悪い人じゃないからこそ、何も言えない。

 ひよりは視線を落とし、小さく頷くだけで朝を迎えた。
 消えると言われた痕だけが、確かにそこに残っている。


 翌日の深夜、ひよりはコンビニに立っていた。
 制服の下に、薄手のタートルネックを着ている。季節外れだと分かっていても、ほかに選択肢がなかった。

 春先に入ったバイトだったが、季節はいつのまにか、もう夏だった。冷房は効いているが、首元だけを覆う理由としては弱い。ひより自身、それを分かっている。分かっているのに、選んだ。選んだという事実が、そのまま覚悟みたいに残る。

 レジに立つと、タートルネックの襟がわずかに肌に触れる。
 触れるたび、そこに痕があることを思い出す。見えないようにしているのに、意識だけが強調される。隠しているのに、隠していること自体が目立つ。

 客の視線が一瞬、首元で止まる気がする。気づかれたかどうかは分からない。常にそう考えてしまうことが、ひよりには余計にきつかった。説明しない選択をしたのは自分だと、何度も言い聞かせる。

 バックヤードから顔を覗かせた環が、ひよりの首元に視線を落とす。ほんの一瞬。タートルネックの不自然さと、その下にあるものを、まとめて見抜いたみたいな視線だった。

 環は何も言わない。
 言わないまま、すぐに業務に戻る。その速さが、ひよりの胸の奥を冷やす。見たうえで、触れない。触れないという判断。その判断が、正しいことだと分かってしまう。

 気づかれた、と思う。
 責められてはいない。ただ、把握された。把握されたうえで、線を引かれた。その線が、タートルネックの内側で、ひよりの首を静かに締める。


 痕は、もう自分だけのものじゃない。
 そう思った瞬間、隠すために着たはずのタートルネックが、ひよりには重く感じられた。



 仕事が終わり、外に出る。湊はいつも通りの顔をしている。機嫌もよく、未来の話は出ない。未来の話が出ないことに、ひよりは安堵してしまう。その安堵こそが、もう危うい。

 歩き出す方向は、やはり同じだった。
 同じであることに、もう違和感がない。違和感がないことを、異常だとも思えない。

 ひよりは一瞬だけ立ち止まりそうになる。
 言葉が喉まで上がってくる。何かを言えば、ここで線が引ける。そう分かっているのに、言葉は形にならない。形にならないまま、足が前に出る。

 また、湊の背中を追っている。
 追っているという自覚だけが、遅れてやってくる。自分で選んで歩いているはずなのに、方向だけが最初から決まっているみたいだ。

 いい加減にしろ、と胸の奥で思う。
 思うだけで、止められない。止めない理由を探してしまう。何も言われなかったから。拒まれなかったから。優しかったから。全部、言い訳だと分かっている。

 分かっているのに、同じ夜がまた来る。
 来ることを疑わず、疑わないまま受け入れている。受け入れていること自体が、もう答えだった。

 止められない。
 止められないまま、また同じ夜が続く。
 続いてしまうことを、もう「沼」と呼ばなくても分かっている。

 音もなく、深さも分からないまま、足元だけが少しずつ沈んでいく。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、戻る方向だけが見えない。

 ひよりは目を閉じた。見なければ、まだ楽でいられる。楽でいられることを選び続けている限り、沈みきることはないと、どこかで信じながら。
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